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平成23年 東日本大震災被災自治体の支援活動報告(危機管理)

[2018年4月25日]

ID:2064

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4月27日から5月27日まで、福島県に自治体支援に行った事務職員の報告です。

 

3月11日午後2時46分に、未曾有の大災害となった「東日本大震災」が発生しました。
長岡京市では、ただちに小田市長を本部長とする「災害支援対策本部」を設置し、「被災地への支援について、迅速な対応で、積極的に、可能な限りの支援を」の市長の方針のもと、乙訓消防組合の緊急消防援助隊派遣による救助活動や上下水道部の職員派遣による給水活動をはじめとする事務職員、保健師、手話通訳者の各職種での人的派遣や支援物資の搬送などの支援活動を実施し、現在も、被災地や被災者への支援対策活動に取り組んでいます。

被災地の状況は時間の経過とともに刻々と変わっています。
テレビや新聞などでも基礎自治体である市町村役場の庁舎や多くの職員も被災し、壊滅状態となっている様子が報道されているように、行政がほとんど機能していない市町村が数多くあります。
それらの被災自治体から全国市長会を通じて、全国の自治体に対して職員派遣の要請がありました。
長岡京市としても、小田市長の方針からも、いちはやく「派遣可能」だと回答しました。

わたしは、毎日のように報道されている被災地の被害状況を見て、「今、公務員である自分にできることは何か。我々、地方公務員は市民の生命と身体と財産を守ることが基本的使命であり、住む町は違っても住民のために仕事をすることは同じ、これまで経験してきたことを被災地支援で何かできることは」と思っていました。
4月19日に福島県の市町村行政課から、電話で「福島県双葉郡楢葉町」への自治体支援として事務職員派遣の要請があり、長岡京市から「楢葉町」へ「2カ月間・1人」の支援が決定しました。
要請があれば、自分が行こうと決めていましたので、先発して4月27日から5月27日の1カ月間を担当することにしました。

地図画像

楢葉町は地震・津波・原子力災害の三重に被災した町です。
警戒区域となり、被害調査ができないため、詳しい被害状況については、わかっていないのが実情とのことでした。

発災翌日の3月12日に原子力発電所の事故により、楢葉町全域に避難指示が出されたため、いわき市方面へバスや自家用車で避難されました、いわき市内の小学校に災害対策本部を設置し、市内8カ所の避難所に避難されました。
この時は、3日間、食料物資など何も届かず、連絡体制も整わず、情報もなく、かなり混乱していたとのことでした。
3月16日から、友好関係があり「災害総合支援協定」を結んでいる「会津美里町」に多くの住民と一緒に行政機能ごと移転されました。

本郷庁舎の写真
町役場出張所の写真

会津美里町では、本郷庁舎の一部に災害対策本部と役場を開設し、り災証明書の発行や安否確認、避難所の運営、見舞金の支給などの業務をしていました。
楢葉町の人口は約8,000人、世帯数約2,000世帯の町です。
わたしが現地にいた時には、全国に散らばっている避難者の安否確認も約95%済んでいました。2,000世帯の小さな町であったため、比較的スムーズに確認できたとのことでした。

役場内の写真

役場内は、写真のとおり、長机とパイプイスを設置しただけの事務室でした。
わたしは、現地で住民班(住民福祉課)の業務を担当していました。
住民班の業務内容は、本市でいう市民課と国民健康保険課、高齢介護課、健康推進課など、福祉関係の仕事です。
わたしは、住民票や被災証明などの各種証明の交付事務を担当していました。
楢葉町では、住民登録の異動処理や戸籍記載事務などの通常業務が大幅に滞っていました。

役場内の写真

震災後、一カ月以上たっていましたので、コンピューター・サーバーを設置し、各システムも立ち上がり、機械処理もできる環境でした。
当時は、義援金や東京電力の仮払い保証金の手続きの関係で、3月11日時点の楢葉町での居住関係を証明するため、大量の住民票を毎日のように交付していました。
全国各地に避難して遠方にいる町民からの、住宅の契約や自動車の購入・廃車手続きなどに必要な、住民票や印鑑証明書・戸籍証明などを郵送で請求する方法の問い合わせや、請求した人への内容確認などを電話と窓口でしていました。
私自身、市民課の窓口業務を5年間経験していたので、ある程度は対応することができました。
ただ、関西弁なので、町民から「今、おかしな人から電話があった」と本部に問い合わせが入ったことがありました。
後で笑い話になったのですが、やはり言葉の問題が少しあったようでした。
「運転免許証のコピーを送ってください」とか「生年月日の確認をさせてください」などと言っておりましたので、詐欺師か何か怪しい者と思われたのでしょう。
東北の人なので、意識して標準語で話そうと努力はしたのですが、長岡京市で生まれ育ってきたので、一生懸命に説明しようと力が入ると、ついつい関西弁になってしまいました。

窓口では、「京都から役場の応援に来ています。」と伝えると、「遠いところから、本当にありがとうございます」と何度も何度もお礼の言葉をいただきました。
役場の職員の様子ですが、当然、職員も被災者であり、それぞれ家族もいらっしゃいます。
しかし震災後、家族の安否確認はとれているものの、離ればなれとなり、避難所で暮らしているかたや、家族の都合で、自動車で2時間もかかる遠方から毎日通勤しているかた、自宅が壊れ、放置したままの状態のかたなど様々な事情を抱えながら、頑張っておられました。

支援物資の衣服の写真

職員のみなさんも、着の身、着のままで避難されているので、着替えも無く、多くのかたが支援物資であるスポーツウェアなどを着ておられたのが、印象に残っています。
震災直後は不眠不休で働き、会津美里町に移転してからも、安否確認や避難所の運営、見舞金の支給などの業務のほか、滞っている行政機能の回復に向けて不休で働いてこられ、かなり疲れておられました。
そのような状況でも、窓口や電話対応では、町民のかた1人1人に対して、「本当に無事でよかったですね。体に気をつけて頑張ってくださいね。」と声をかけておられました。

町民も職員に対して、感謝や激励の言葉をかけておられる姿を見て、町民と職員とが力を合わせて苦難を乗り越えようとする人の絆を強く感じました。
わたしは、微力ながらも「職員のみなさんを少しでも休ませてあげたい」という思いで頑張りました。

避難所の小学校の写真
避難所内の写真

わたしが1カ月間お世話になった宿舎は、避難所である「廃校となっていた旧赤沢小学校」です。
ピーク時は140人程度が避難生活されていたとのことでしたが、わたしが入った時は、約20人の被災者が教室で生活されていました。
避難所には、役場の職員も生活し、先ほどの本郷庁舎まで自動車で約20分かけて通勤されていました。

本市と同様の支援に来ておられた京都府城陽市職員、福島県職員や世田谷災害ボランティアなどの支援関係者と一緒に宿泊していました。
教室などの全ての部屋に地デジ対応テレビが置いてありましたので、たいへん驚きました。全て、東京電力より整備されたとのことでした。

支援物資の食べ物の写真
支援物資の食べ物の写真
支援物資の食べ物の写真
避難所内の写真

避難所での食事ですが、避難者と同じものをいただきました。
主に、支援物資である「コンビニのおにぎりやパン・カップ麺・レトルト食品・缶詰・瓶詰など」です。
「ボトル水や野菜ジュースなどの飲み物」も途切れることなくありました。
特に水は、全国各地からの備蓄用ボトル水が届いていました。ほぼ毎日、品を変え置かれていました。
滞在中は各地のお水を、本当にたくさんいただきました。

避難所の運営体制は、職員のほかに福島県の職員1人、災害ボランティア3人と、東京電力の社員がボランティアとして5人程度ずつ2、3日交代で入っておられ、避難者の食事のお世話やトイレ、廊下などの掃除をされていました。

避難所のまわりの写真。広大な田んぼ

1カ月間の避難所生活で困ったことは、避難所には、風呂が無かったので、風呂に行くのが大変でした。
近くに天然温泉の施設が2カ所あると聞いていたので、これは助かったと喜んでいたら、どちらも避難所から約4km離れたところにありました。
避難所は山手にあり、周辺は見渡す限りの田園風景。裏は山です。
夜になると真っ暗やみで、人影もありません。
そんな中、避難所の自転車を借りて約30分程度かけて温泉に通っていました。
これが結構大変で、毎日は行けませんでした。

後半は、町や県の職員のかたが自動車で行かれる時に便乗していました。
休みをいただいた時は、朝から自転車で温泉に行って、食事と昼寝と入浴で夕方までゆっくりと一日を過ごして休養していました。
休日に温泉に行くのが唯一の楽しみでした。
平均して4日か5日に一回程度は風呂に入ることができたと思います。

今回、「福島県で1カ月間滞在して、仕事をすることに抵抗はなかったですか。福島に来ていただいて、本当にありがとうございます」と職員や町民のかたがたから「感謝」や「ねぎらい」の温かい言葉をいただきました。
今以上に頑張って、出来る限りのことをしたいと強く思いました。
わたしは、1カ月経てば、京都の自分の家に帰ることができます。
普通の生活に戻れます。
しかし楢葉町の皆さんは、いつまでこの状態が続くのか、いつになったら帰れるのか、先が見えない状況で頑張っておられます。
帰るときには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

今回の1カ月間の支援活動という、たいへん貴重な体験を通して、今、自分は、幸いにも、平穏で満たされた環境で仕事や生活ができていることを改めて実感しました。
そして、このように何事もなく、普通に暮らせていることが、本当に平和であり、幸せなことだと思いました。

今回の支援活動で見たこと、聞いたこと、感じたことなど自分が得たものを防災担当者として、今後の長岡京市の地域防災計画に活かしていきたいと思います。

震災の発生から既に4カ月が経ちましたが、楢葉町では、仮設住宅などにおける地域コミュニティの問題、避難生活の長期化による雇用や金融の問題、そして、医療や介護に対するケア―の体制の整備など多くの課題を抱えておられます。
福島第1原子力発電所の事故は、未だ収束の見通しが立っていません。

一日も早く収束し、楢葉町の皆さまが一日でも早く戻れること、そして、一日も早く復興され、自然が豊かな、穏やかで住みやすい町である楢葉町に戻られることをお祈りして、活動の報告とさせていただきます。

仮設住宅の写真

(平成23年7月16日、平和を考える市民フォーラムで)