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長岡京市歴史日めくり 「フジタカの碁」

[2018年10月12日]

ID:7321

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歴史日めくり

今週(10月8日~11日)の長岡京市の歴史「フジタカの碁」

囲碁の様子

 時は戦国時代

 この時代、現代にも残るボードゲーム「囲碁」が公家や武士たちの間で流行します。

 当時の勝龍寺城主、細川藤孝も囲碁を好んだ武士の一人でした。今から440年前の天正6年(1578)の10月10日、藤孝は囲碁仲間を勝龍寺城に招いて、囲碁の会を開きました。囲碁会はみんなで泊まり込みで、お土産(鮭など)を持ち寄り、夜遅くまで行われました。どうやらかなり盛り上がったようですね。

 「フジタカさん・・・まだやるんすか・・・」

 「何を言う!まだまだじゃあ!」 ・・・その後、乱舞(原文のまま、内容は不明)を経て翌朝も囲碁

 こんなやりとりが、勝龍寺城であったのかもしれません。

 戦乱の殺伐とした世の中でも、合い間を縫って趣味に興じる戦国武将の意外な姿が垣間見える一場面でした。

今週(10月1日)の長岡京市の歴史「村の名は」

現在の長岡京市の姿(長岡京駅)

現在の長岡京市の姿(長岡京駅西側)

時は明治

 今から130年前の明治21年(1888)市町村制の施行により一定の基準に満たない村々が合併される中、その波は長岡の地にも押し寄せてきました。

 「みなのもの。この地域にも合併の話がきた。それについて意見を聞きたい」 「一度は白紙になったが、国の基準を超えるということであれば、やはり8つの村を一つに合併するのがよいかと」 「たしかに、それなら学区もこれまでどおりだし日常生活に支障はないな」 「でも、村名はどうしましょう。何か良い村の名は・・・」
 各村のリーダーの検討の結果は8村(今里、井ノ内、粟生、長法寺、奥海印寺、下海印寺、金ヶ原、浄土谷村)を一つにまとめるというものでした。そのやり方が国の基準を満たし、日常生活の面でも支障がないと考えられたようです。
 そして10月1日、村々の代表者が署名した請願書が乙訓郡長に提出されました。そこに記されていた村の名は・・・・・「乙訓村」

 しかし、合併は8村を4村ずつで2つにまとめる形で行われ、「乙訓村」(今里、井ノ内、粟生、長法寺)と「海印寺村」(奥海印寺、下海印寺、金ヶ原、浄土谷)が誕生しました。

 その後、昭和24年(1949)10月1日に乙訓村と海印寺村は新神足村と合併して「長岡町」となり、昭和47(1972)10月1日の「長岡京市」の誕生、そして今へと繋がることとなります。

今週(9月28日)の長岡京市の歴史「それでも我はやってない」

乙訓寺境内の写真

現在の乙訓寺の写真

時は長岡京の時代

 長岡京内は都の建設リーダー藤原種継が殺害されるという一大事件で騒然としていました。

「種継さんはだれに殺されてしもたんやろ」「これから長岡京の工事はどうなるんやろ」「あの人怪しいなぁ」

 実行犯はただちに捕えられ、厳しい追及のなかで様々な関係者が明らかになっていきました。そしてその容疑は桓武天皇の弟にあたる早良親王にまで及びました。

 今から1233年前の延暦4年(785)9月28日、ついに早良親王は乙訓寺に幽閉されてしまいます。幽閉中、早良親王は何も飲まず、何も食わず、無実を訴え続けました。しかし、幽閉されてから10日ほどあと、早良親王は淡路へ流されることになり、その途中で亡くなりました。

 早良親王の死後、桓武天皇の周りで不幸が続き、最終的には平安京への遷都を余儀なくされますが、この事件が、その原因になるとはだれも思ってはいませんでした。

今週(9月7日)の長岡京市の歴史「裁判長!ここは穏便に行くのはどうすか」

今里区有文書の画像

寛文9年御裁許御三判裏書絵図(今里区有文書)『長岡京市史』資料編3付図より転載

時は江戸時代のはじめごろ

 現在の西京区にある小塩村では、近くの鴫谷山の権利を巡って、裁判の真っ最中でした。さて、どのような判決がでるのでしょうか。

「小塩山はもともとは小塩村の山である。しかし、今里村や井ノ内村も以前から山に入っていることは紛れもない事実だ。今後は、今里村、鶏冠井村、井内村、上植野村も小塩村と同じく、小塩山での活動を認める。ただ、木の権利は小塩村が優先なので、先の4つの村はそれをとらないように気を付けてね」

 このように結果は、お互いの権利を認めるというところで、落ち着きました。どうやら、裁判長もここは穏便に終わらせたようですね。一件落着。

 

今週の長岡京市の歴史「にしキャン△」

西山キャンプ場入口の写真

西山キャンプ場の入口

 時は昭和の終わりごろ。

 市内の都市化が急速に進む一方で、子どもたちが自然と親しめる場所が失われつつありました。そこで、

「子どもたちがありのままの自然を体験できる場所を作ろう!」

ということで、昭和60年8月、野外活動施設としてオープンしたのが西山キャンプ場でした。電気やガスは通っておらず、水道も山水を引いただけの極力自然を残した施設となっていて、オープンから30年以上経った今も、春になると市内の小学校が自然体験として利用されるほか、近年では西山の森林を整備されるボランティアの方の拠点として活用されています。

 と、ここまでは文章でお伝えしましたが、実際にどんなところかイメージがつきにくいと思いますので、実際に西山キャンプ場で自然体験をしてきました。詳しくはこちらのページからご覧ください。

 西山キャンプ場で自然体験してみた(別ウインドウで開く)

今週の長岡京市の歴史「そしてガラシャになる」

細川忠興・細川ガラシャ夫妻の絵

細川忠興・ガラシャ夫妻の絵

時は戦国、本能寺の変後

 天正10年(1582)の本能寺の変の後、その首謀者、明智光秀の娘である玉は、細川忠興との離縁を余儀なくされ、丹後国味土野の山中に幽閉されていました。

 それに対して許しがでるのは、変後2年が経過した天正12年(1584)の頃でしたが、これを受けて玉は復縁し、夫である忠興の住む大坂城下玉造の細川邸に入りました。そして、この頃から玉はキリスト教の教義に興味を抱くようになります。どうやら忠興が高山右近から聞いた話を玉に聞かせていたようです。

 「お玉さん、今日ね、右近さんがね、人間はみんなお互いに大切にしないといけないって言ってたよ。」

 天正15年2月、玉は忠興が九州出陣中に初めてイエズス会の教会を訪れ、そのあとキリスト教の教義について学びを深めていきます。そして、同年8月、玉は清原マリアより洗礼を受け、ガラシャとしていっそう信仰を深めていきました。

今週(8月11日)の長岡京市の歴史「プチ信長の野望」

勝竜寺城公園の細川忠興・ガラシャ像の写真

勝竜寺城公園の忠興・ガラシャ像

時はまたまたまた戦国
 今から、440年前の天正6年(1578)8月11日、一通の手紙が織田信長から明智光秀に届けられました。

 「光秀くん、丹波の平定ご苦労さん。平定が終わったら、何個か国あげるからがんばってや!藤孝くんも文武両道ですごいわぁ。息子の忠興くんもごっつ優秀やで。きっとゆくゆくはトップになる思うわ。光秀くんと藤孝くんの家の間やったら、きっと良い縁が結べると思うなぁ。」

 どうやら、信長は自分の主力となる部下である、明智家と細川家の婚姻を促しているようですね。中国地方平定中の羽柴秀吉の支援に向けて、この2家の連携をかなり重視しているようです。

 ともあれ、手紙を受け取った光秀は主君のこのようなお膳立てを喜び、細川家も家門の面目と喜びました。そして、その月の内に、忠興と明智光秀の娘である玉の結婚式が勝龍寺城でとり行われました。

今週(8月2日)の長岡京市の歴史「さらば愛しき城よ」

勝龍寺城の発掘調査の様子

勝龍寺城の発掘調査で見つかった細川藤孝が改修したと考えられる石垣の様子

時はまたまた戦国時代

 先週の日めくりにつづき、勝龍寺城主である細川藤孝は室町幕府の滅亡以降、完全に織田信長に仕えるようになっていました(実は信長に仕える前は、室町将軍足利義昭に仕えていました)。そして、信長から藤孝に任された仕事は、明智光秀と共に丹波国 ・丹後国を平定するというものでした。

「あ、じゃあ、光秀くんは丹波で、藤孝くんは丹後ね。ちょっと安芸の毛利さんとの戦いに向けてそこらへんが欲しいのよ」

 どうやら信長は安芸の毛利氏との戦いに向けて、山陰地方をおさえたいようです。大事な仕事を任せているところから、信長の光秀や藤孝への信頼の高さがうかがえます。

 無事に丹後国の平定に成功した藤孝は、その功績が認められ、信長より丹後の支配を任されることとなります。そして、今から438年前の天正8年(1580)8月2日、『綿考輯録』によると、藤孝は息子の忠興とともに、自らが築き直した勝龍寺城を離れ、丹後国へ入ったとされています。

今週(7月27日)の長岡京市の歴史「旧城主 対 現城主」

勝竜寺城公園の写真

勝竜寺城公園の様子

時は戦国時代

 世の中は織田信長が勢力を拡大し、そのためもあってか、室町幕府将軍である足利義昭との仲は最悪でした。そして、元亀4(1573)年7月3日ついに義昭は信長に兵を挙げます。

 ところが、戦況は瞬く間に信長ペースへ。7月18日、槇嶋城にて信長勢に囲まれた義昭は降伏してしまいました。反信長勢力のトップである義昭が降伏した以上、信長に逆らうものはもういないだろうと思われたのですが、淀城の石成友通は反信長勢力の姿勢を変えませんでした。

 そして7月27日、勝龍寺城の主である細川藤孝は信長に逆らう石成友通をめざし、兵を出しました。

 「そろそろ、観念せい!」「おれは諦めんぞぉ!」

 という感じで戦が始まり、結果は藤孝の勝利。友通を討ち取った藤孝は、その首を信長へ届け、褒美をもらうこととなりました。

 ちなみに友通は藤孝の前の勝龍寺城の主でした。旧城主VS現城主の対決は、現城主の勝利で幕をおろしました。

今週(7月20日)の長岡京市の歴史「仏像を抱いて飛べ」

光明寺の写真

光明寺入口正面からの写真

時は幕末

 今から154年前の元治元年(1864)、長州軍と幕府軍が京都御所前で衝突しました。禁門の変(蛤御門の変)です。結果は幕府軍の勝利。幕府軍は長州軍が陣所にしていた所をどんどんと焼き払っていきました。伏見の長州藩屋敷はもとより、嵯峨の天竜寺や山崎の町にまで、その手は及んでいました。巷では、光明寺が長州藩の陣所となっていたため、焼かれるかもしれないと噂が流れ始めます。

 そして、危険を悟った光明寺は7月20日の夜、大師像や釈迦如来像とともに大原の西光寺へとダッシュで避難!

 「仏像を抱いて大原野へ飛べ!」「えっ!?さすがに飛ぶのは無理っすよ!」「いいから飛ぶんだぁ!」

 こんなやりとりがあったかもしれません。ちなみに、このときは近隣の村々も戦火を避けるため野山に隠れ、楊谷寺や善峰寺も本尊とともに避難したようですが、結局この周辺が焼かれることはありませんでした。

今週(7月3日~7月8日)の長岡京市の歴史「長州が来たりて宿をとる」

光明寺本堂の写真

光明寺本堂の写真(『長岡京市史資料集成2 長岡京市の寺社』より転載)

時は幕末

 「なんやものものしいなぁ」「長州のお人らが100人くらい来とるらしいで」「なにしてんねやろなぁ」

 洛中を追放された長州軍は池田屋事件をきっかけに再び政治の主導権を握ろうと京都へ押し寄せました。元治元年(1864)6月末、長州軍は天王山、天竜寺、伏見長州藩邸などに陣をおき、入京のチャンスを待ちます。7月3日の夕方には100人ほどの部隊が粟生光明寺にもやってきて、宿所としました。お堂の前には大砲を並べ、昼夜を問わず10人ほどが見回りをしていました。

結局、7月8日の朝には山崎が手薄ということで、米やら薪やらお金やらを光明寺に渡し、そこを引き払いました。歴史的大事件である、禁門の変(蛤御門の変)のおよそ10日前の出来事でした。

今週(6月28日)の長岡京市の歴史「肥取り物語」

鞆岡達雄家文書の写真(一部)

鞆岡達雄家文書より一部抜粋

時は江戸時代

「なんや最近、畑の肥料が足りんなぁ」「よその国のもんが京の下肥買ってっとるらしいで」「そら難儀やな、何とかならのかいな」

 当時、肥料として使われていた下肥(糞尿)は京都から問屋を通して買っていました。ところが、他国の買い付け人が問屋を通さず大量に買い取ってしまい、山城国中で肥料が不足してしまいます。

 そこで、今から294年前の享保9年(1724)6月、山城国中の村々が、幕府に他国の買い付け人が勝手に下肥を買っていかないようにお触れを出してほしいと願いでました。そして、担桶(大きい桶)に身分証明の焼印を押すことや、お屋敷や町方に迷惑をかけないことなどの条件付きで、その願いが聞き届けられることになりました。

 山城国中の村々はその条件を了解すると共に、それぞれ代表者の署名をつけましたが、その村の数はなんと152ヶ村にまで上りました。6月28日付けの史料には、調子村、友岡村、下海印寺村、奥海印寺村、開田村、古市村、神足村、勝竜寺村などの名前もありました。

今週(6月22日)の長岡京市の歴史「ちょっと今から山陵いってくる」

土御門天皇金原陵の写真

金ヶ原にある土御門天皇陵

時は鎌倉時代

「そんな急いでどないしたん?」「蒙古っちゅうとこから手紙が届いてな。宋も高麗もやられて、次は日本らしいわ」「そら一大事やなぁ」「そういうことやでな、ちょっと今から山陵いってくる!」

 今から750年前の文永5年(1268)1月、蒙古(モンゴル帝国)のフビライ=ハンから手紙が届きました。
「日本は昔から中国と国交があるのに、私の代になってからはそれがない。たぶんまだ代替わりを知らないからだと思うから知らせておく。これから国交をもって仲良くしたい。武力を使いたくないのでよく考えておくように。」
 手紙を受け取った朝廷はびっくり仰天。連日会議が開かれ、遂に6月22日、国家の一大事として山陵使(告陵使)の派遣が行われました。当時、天皇の即位や国家の一大事は御陵に報告することになっており、長岡京市にある土御門天皇の御陵である金原陵(かねがはらりょう)にも山陵使が派遣されたのでした。


今週(6月12日)の長岡京市の歴史「玉撃ちぬ」

恵解山古墳と立命館中学・高等学校敷地の調査で見つかった銃弾の写真

恵解山古墳と立命館中学・高等学校敷地の調査で見つかった鉄砲玉(上:恵解山古墳出土 下:立命館敷地出土)

時は戦国時代も末

 何やら勝龍寺のほうが騒がしいですね。

 「構えー!撃てー!」 (ドン)

 「構えー!撃てー!」 (ドン)

 本能寺の変で、織田信長を討った明智光秀は、その後、乙訓の地へ足を踏み入れ、来る山崎合戦に備えます。そして、今から436年前の天正10年(1582)6月12日、ついに、両軍の足軽があいまみえ、山崎合戦の前哨戦が始まります。舞台は勝龍寺の西側。両軍はお互いに鉄砲を撃ち合いました。(兼見卿記「別本」天正10年6月条より)

 実は恵解山古墳と立命館中学・高等学校建設に伴う発掘調査で、いくつか鉄砲玉が見つかりました。よく見てみると、恵解山古墳から見つかった鉄砲玉のほうが、立命館で見つかったものよりもかなり大きいようです。この差が何を表しているのかは、難しい問題ですが、もしかしたら、この鉄砲玉たちは当時の撃ち合いの時に使われたものかもしれません。

今週(6月8日)の長岡京市の歴史「寺破れて田んぼあり」

海印寺があったとされる場所の一つ、奥海印寺大見坊周辺の写真

海印寺があったと考えられる奥海印寺明神前・大見坊付近

時は平安時代のはじめ

道雄というお坊さんの夢に長岡の風景が現れます。「なにここ!?めっちゃええとこやん!ここにお寺建てたいわぁ」

 道雄はこの夢を見たあと、すぐに現地を訪れ、そこにお堂を建てることを決めました。そうして建てられたお堂が「海印寺」といって、現在の奥海印寺付近にあった大寺院です。道雄は公的な費用でもって、十院ものお堂を建てて、「海印三昧寺」と総称しました。道雄のがんばりもあって海印寺は、今から1167年前の嘉祥4年(851)3月22日に定額寺(官寺に準じる寺)となりましたが、そのわずか3か月後の(改元して)仁寿元年(851)6月8日、道雄はこの世を去りました。

 ちなみに、海印寺はその後衰退と繁栄を繰り返し、応仁の乱の際に焼失したものと考えられ、今では寂照院を残すのみとなっています。寺破れて田んぼありといったところでしょうか。

 

今週(5月21日)の長岡京市の歴史「そして子どもでいっぱいになった」

現在の今里保育園の写真

現在の今里保育園

時は昭和まっただ中

 「長岡京市って知ってる?めっちゃ住みやすいところらしいで。大阪にも行けるし京都にも出やすいし」「え、ほんまに?おれも子ども生まれて新しいところ探してたし住んでみよかな・・・」

 世の中はまさしく、第二次ベビーブーム。1970年の長岡京市の人口は1920年の人口(当時は新神足村、乙訓村、海印寺村)の10倍を記録しました。この時期、長岡の地は京都と大阪のベッドタウンとして宅地化が進み、若い世代がどんどんと入ってくるなど、大きな変化を迎えておりました。そんな中、今から48年前の昭和45年(1970)5月21日、町立今里保育園が開所しました(現「今里こども園」)。その後も、子どもの数は増えていき、友岡保育所(1972)、滝ノ町保育所(1973)と保育所も開所しました。 

今週(5月13日・5月16日)の長岡京市の歴史「ガマと共に去りぬ」

ガマガエルが移動しているイラスト

時は長岡京遷都前夜の頃

「ゲコゲコゲコ(次の都は長岡かな)」「ゲーコゲコ(うん、そやな)」「ゲコ!ゲコゲッコー!(ほな、みんな行くで!)」

 今から1234年前の延暦3年(784)5月13日、2万匹のガマガエルが移動し、これが遷都の予兆であると、摂津にあるお役所が、宮中へ報告しました。報告を聞いた宮中は「なんやて!?」と、さぞ驚いたことでしょう。早急に長岡京への遷都の準備を開始します。そして3日後の5月16日、遷都先の下見のため、藤原小黒麻呂らを長岡村へ向かわせました。(続日本紀より)

 まさに、平城京・難波宮の時代がガマと共に去ろうとしてしている出来事でした。

今週(5月9日)の長岡京市の歴史「軍忠状大作戦」

粟生の観音寺の写真

粟生の観音寺(長岡京市所蔵)

時は鎌倉時代も末期
 「こないだのいくさ、リアルガチでがんばったんやけど、ご褒美もらえんのやろか・・・。そや!証文(上司のハンコ)もろとこ。」
 元弘3年(1333)4月、久我縄手(鳥羽方面から大山崎まで続く道)で鎌倉幕府軍と討幕軍が激突しました。開田林太郎兵衛尉実広も、粟生の子守勝手神社近くの観音寺に陣を張り、討幕軍の武将として戦います。
 5月7日、足利高氏(尊氏)によって、ついに京都の六波羅探題が陥落。京都方面での戦はひと段落を迎えます・・・と、思った矢先!今度は戦に参加した武将たちによる手柄の取り合い合戦が始まります(むしろ本番?)。武将たちは自分の功績を「軍忠状」としてまとめ、我先にと、上司に提出しました。
 実広も、さっそく軍忠状をつくり、上司へ提出します。今から685年前の元弘3年(1333)5月9日のことでした。六波羅探題陥落後、わずか2日後のスピード提出でした。
 ちなみに、実広はその後も同じように軍忠状を提出して、その手柄を認めてもらっています。これぞ、まさしく「軍忠状大作戦」。

現代版!長岡京市日めくり「弟国宮遷都1500年記念シンポジウム」

弟国宮遷都1500年記念シンポジウムのポスターの写真

時は現代、平成30年5月2日

 今日から、ちょうど一月後の6月2日(土曜日)。「弟国宮遷都1500年記念シンポジウム」を開催します!

「弟国宮?長岡京じゃなくて?」「弟国宮ってどこにあったの?」「あの人のお話聞いてみたかってん!」というそこのあなた!ぜひ、足をお運びください。

日時:平成30年6月2日(土曜日) 午後1時00分~午後4時30分 ※会場は午後0時30分

場所:長岡京市中央生涯学習センター(バンビオ)3階メインホール

内容:第一部 基調講演  第二部 シンポジウム

備考:定員先着300人、参加費無料

※手話通訳・要約筆記のサポートが必要な方は、5月25日(金曜日)までに生涯学習課までお問い合わせください。

シンポジウムの情報については、弟国宮遷都記念事業ページのイベント情報にても公開中!


今週(4月26日)の長岡京市の歴史「天気かくのごとし」

光格天皇の綸旨

光格天皇綸旨『光明寺文書』より

時は江戸時代後期
 光明寺に一通の綸旨(りんじ:天皇からの手紙)が届きました。その綸旨にはこのように書かれています。
 「『光明寺をもっかい指名するし、国家安泰と皇位の延長を祈ってね』って天皇が言ってたよ(天気かくのごとし)。」by 左中弁昶定
 実は光明寺はかつても天皇の勅願所(ちょくがんしょ)でしたが、火災等により、なかなかその役割を果たせないでおりました。しかし、光明寺のマッハな対応により、今から226年前の寛政4年(1792年)の4月26日、光格天皇により再び勅願所とする綸旨が下されました。この綸旨は、再び天皇の勅願所となったことと同時に、名実ともに光明寺が復興したことを示します。
 綸旨をゲットした時、光明寺の再建・復興に携わった方々の心模様は、さぞ晴れ晴れとしたものであったことでしょう。

今週(4月15日)の長岡京市の歴史「縁の下の鉄器持ち」

恵解山古墳で出土した鉄器と、その図面を書く調査員の写真

恵解山古墳で出土した鉄器と、その図面を書く調査員

時は昭和
 今から38年前の昭和55年(1980)4月15日。長岡京市にとって大きな歴史的発見となる発掘調査がスタートしました。久貝・勝竜寺にまたがる恵解山古墳の発掘調査です。
 調査の結果、700点以上もの武器が出土し、全国的にも重要な古墳であることがわかりました!が、しかし!その頃現場では・・・
 「じゃあ、今から700点以上の武器の図面書く人と、夜の見張り番決めるで!決め方はもちろんクジ引きや!文句がある人は挙手!(0,5秒後)よし!誰もいない!はい、順番に好きなやつ引いてって!」
 と、命がけのクジ引きの真っ最中でした。
 大発見の裏側には、このような苦労があったようです。さしずめ、当時の調査員は縁の下の鉄器持ちといったところでしょうか。

今週の長岡京市の歴史「類稀なる」

角宮神社の絵図

角宮神社本殿指図(『長岡京市史 建築美術編』転載)

時は江戸後期、もう数年で黒船来航のころ
 「ついに完成してん!立派なお社やろ?二つ並んで、覆屋に納められて。」「でもこの二つ、ちょっとつくりが違うんやね。」「え?知らんかったん?向かって左側が角宮社で、右側のもう一つが春日社やで。」「そうなんやぁ。しかし、すごい立派やね。」「せやろ。村の人たちみんなで協力して、めっちゃ大事にしてんねん。」
 今から167年前、こんな風に井ノ内のみなさんは自慢していたかも知れません。嘉永4年(1852)4月、井ノ内で角宮神社が再建されました。流造の角宮神社本殿と春日造の春日神社本殿が二棟並ぶ形式で、他に例をあまり見ない、類稀なるものです。
 角宮神社といえば、弟国宮の推定地のひとつでありますが、今度6月2日(土曜日)には弟国宮遷都1500年記念シンポジウムを開催します。そしてさらに、本日はシンポジウムのちょうど50日前になっています。類稀なるマニアックなシンポジウム。ぜひ、皆様ご参加ください。

今週(4月1日)の長岡京市の歴史「ちなみに・・・」

第十小学校に伴う発掘調査で見つかった墨書土器

時は昭和、ちょっと前
 「今年から、新しい小学校やね。」「せやせや、三小から十小かぁ。三小もそんな古くなかったけど。」「僕なんか七小やったから、まだできて6年やったで。」
 今から38年前、長岡第十小学校付近の子どもたちは、こうして新しい友達をつくっていったかも知れません。昭和55年(1980)4月1日、現在の小学校10校体制で最後の増設となった、長岡京市立長岡第十小学校が井ノ内に開校しました。長岡第七小学校につづいて、長岡第三小学校から2度目の分離校として、691人の児童でスタートしました。
 ちなみに、長岡京市では昭和42年(1967)の第三小学校を皮切りに、わずか十数年で、第十小学校までの8校が開設しました。
  ちなみに、新しい学校が続々と開校するなか、長法寺小学校は昭和47年(1972)に、神足小学校は昭和49年(1974)に百周年を迎えています。
 ちなみに、この長岡第十小学校建設にともなう発掘調査で、「弟国」と墨書のある土器片が見つかっています。今年遷都1500年を迎える弟国宮と同様、「乙訓」と書き改められる以前の表記のものです。また、2棟目の上級貴族のものと思われる大型建物跡(西側の脇殿)が発見された、昨年の十小放課後児童クラブ等の建設にともなう発掘調査は記憶に新しいところです。学校の開設・建設に関わったたくさんの人々の努力がしのばれる一方、そこでは歴史的な発見も相次いだことがうかがえます。
 ちなみに・・・・これくらいにしておきましょうか。


今週(3月28日)の長岡京市の歴史「竹は竹屋」

竹林への土入れの様子の写真

竹林への土入れの様子

時は大正時代
 長岡京市といえば「竹」ですが、そのイメージもすっかり根付いてきました。しかし、竹というのは、管理がそれはもう大変。行政も頭を悩ませていたようですね。
遂に、今から96年前の大正11年(1922)3月28日、乙訓郡長は、次年度より竹林のエキスパートを新たに職員として採用するという申請を京都府へ提出しました。(京都府庁文書)

何事にも、専門があるものですね。餅は餅屋、竹は竹屋。あなたは何屋?

今週(3月19日)の長岡京市の歴史「災い転じて地を移す」

移転前の神足小学校の写真

移転前の神足小学校の様子(写真は神足校百年史より転載)

時は昭和のはじめころ
 「この度は、神足尋常小学校(現神足小)の所在地変更について、関係書類を添えて申請申し上げます。(中略)。神足尋常小学校は神足駅に隣接し、云々。そこで、昭和9年(1934)9月21日の台風で倒壊した校舎の復旧費用に多少の増額がなされた折には、子どもの教育にとって、もっと良い位置に学校を建てようと思います。」(京都府庁文書)

 神足小学校は当時、今よりも東側にあり、列車が通過する時の音が、大きく聞こえていたようですが、昭和9年の台風(室戸台風)の際、校舎が倒壊してしまいます。そして、この書類が今から83年前の昭和10年(1935)3月19日に京都府へ提出されました。台風という災いを転じて、より良い教育を目指して現在地へと校舎を移した、神足小学校の歴史の大きな一幕でした。

今週(3月15日・17日)の長岡京市の歴史「帰ってきたアミダ」

乗願寺本堂の写真

乗願寺の阿弥陀如来坐像

時は江戸時代
 「そういや、最近、浄土谷の乗願寺に新しい本堂ができたって知ってる?こないだ行ったんやけど、もう工事も終わっとって仏さんも帰ってきてたで。あの仏さん初めて見たけど、浄土谷の大仏(おおぼとけ)っていうんやな。2m以上はあったで。すごかったなぁ。」
 おそらく、今から226年前、この話があったのではないでしょうか。寛政3年(1791)の3月17日、浄土谷の乗願寺では、本堂が建てられ、その間、大仏は違う所に据えられていました。そして、寛政4年(1792)の3月15日、浄土谷の大仏は乗願寺へ帰ってきます。それ以来、大仏はずっとこの長岡京市に腰を据え、そして今でも、あなたのとなりで、あなたを見守ってくれています。

今週の長岡京市の歴史「これからの遷都の話をしよう」

継体大王が営んだ、弟国宮推定地の一つである角宮神社の写真

継体大王が営んだ弟国宮推定地の一つである角宮神社

時は古墳時代の後期
 ヤマト政権では、武烈大王のあと、後継者がおらず、越前を治めていたヲホド王を新しい大王として迎えることになりました。
 しかし、中央にいた豪族は継体大王を、こころ良く思わなかったのでしょうか、継体大王はすぐに大和の地へは入らずに、樟葉宮(枚方市)、筒城宮(京田辺市)と遷都を繰り返し、力を蓄えていきます。そして、今から1500年前の継体12年(518)3月、継体大王は乙訓の地において「弟国宮」を造営したと日本書紀には記されています。
 「いよいよ大和まではあと一歩と迫った。だが、もし今、大和へ入ったなら、私をこころ良く思わない豪族からの反発は回避できないだろう。さて、どのように大和へ入るのがベストなのか。みなの意見を聞かせてほしい。」
 川と山に囲まれた要衝の地、乙訓。継体大王はここで、8年の時を過ごします。その間、きっと、これからの遷都の話をしたのではないでしょうか。

今週(3月2日)の長岡京市の歴史「小塩記念日」

小塩荘が広がっていた乙訓地域の航空写真

かつて小塩荘が広がっていた乙訓地域の航空写真(写真右手に伸びるのが桂川)

時は南北朝時代
 長岡京市を含む乙訓一帯には小塩荘(おしおのしょう)という、随心院が管理する荘園が広がっていました。ところが、領主の光明峯寺は、責任者の随心院を無視し、武士と結託して好き放題。困ったのは本家本元の九条家。全力でその暴挙を取り締まりにいきます。そして今から515年前の文亀3年(1503)3月2日・・・
 「いやー、それにしても、あの光明峯寺の騒動は大変やったわ。このことは忘れんようにバッチリ記録しときますわ。これからも小塩荘は随心院が中心でがんばってや。何かあったらすぐ言うんやで。これからも頼むで。」(随心院文書の口語訳)
 と九条家が言ってくれたから、3月2日は小塩記念日。

今週の長岡京市の歴史「雨にも負けず」

今里5丁目樋ノ尻にある道標の写真

時は江戸時代
 今里樋ノ尻の交差点で誰かが道に迷っています。
「光明寺ってどっちやったっけ。何この交差点。どっちいったらええか全然わからへん・・・。お、あの石なんか書いたあるな。右、光明寺・左、やなぎ谷。」
 今でこそ、道路には様々な情報が溢れていますが、実は江戸時代にもすでに道を示す標識がありました。今から262年前の宝暦6年(1756)の2月、滝ノ町から今里へ続く道にある、樋ノ尻の交差点に、この道標は立てられました。そして、雨にも負けず、風にも負けず、今もなお、光明寺・楊谷寺への道を人々へ示しています。そんな優しい道標のように私はなりたい。

今週の長岡京市の歴史「筍取物語」

開田区有文書の写真

筍出荷依頼状(開田区有文書):長岡京市史資料編三より ※赤字は現代語訳です

時は江戸時代も幕末
 今は昔、筍取の翁といふ者ありけり・・・ではなく、今から159年前の安政6年(1859)の2月、天満の大坂青物市場から奥海印寺村ほか、長岡京市内の村々へこんな手紙が届きました。
「西岡の方々にはタケノコの出荷で長年お世話になっております。おかげさまで昔にも増してガンガン売れております。特に近頃はうちの市場以外でもよく売れるんだとか。そこで!今年はそのタケノコをうちに多く出荷してもらえますでしょうか!マジでがんばって売りまくりますから!ホンマお願いします!」

 さて、この依頼に対する西岡タケノコ農家の対応は、定かではありませんが、この時すでにこの地域のタケノコは、事前に手紙を出してまで多く仕入れようとするほどに、人気だったようですね。これぞまさしく、筍(竹)取物語といったところでしょうか。

今週(2月5日)の長岡京市の歴史 「この乱世の片隅に」

勝竜寺の写真

現在の勝龍寺(本堂)

時は戦国時代のはじめごろ

 応仁の乱により、世はまさしく乱世。畠山義就(西軍)は勝龍寺に陣を据え、山崎に陣を構える山名是豊(東軍)と対峙していました。ついに戦いが幕を開けると、そこからは終日に渡るドンパチ。また、場所を古市・井ノ内・石見などへ移しては戦い、周辺はたびたび炎に包まれました。畠山義就が勝龍寺に陣を構え、山名是豊との戦いに至ったのが、今から548年前の文明2年(1470)2月5日のことでした。(野田泰忠軍忠状より)

 この時期、応仁の乱の戦場は、洛中からその周辺へと移りつつありました。そのような流れの中で、長岡京市も戦場と化し、この乱世の片隅で、その戦禍にさらされることになってしまったのでした。

 

 

今週の長岡京市の歴史 「鬼は外、福は内」

長法寺南原古墳から出土した遺物の写真

(長法寺南原古墳の銅鏃3点:1月30日(火曜日)~4月22日(日曜日)図書館1階で左端1点のみを展示)
 ※図書館の休館日は展示もお休みです。

 時は古墳時代のはじめころ

 乙訓地域は当時の首長のお墓である古墳が数多く築かれました。長岡京市にある長法寺南原古墳(全長62mの前方後方墳)もそのような首長のお墓の一つです。

「わしが死んだら、丘の上に古墳を築いて葬ってくれ。埋める時は悪霊払いのために鏡や、なにか尖ったもの・・・そうじゃな、銅製の矢じりなどを入れるように。なぜかって?。鬼は外、福は内じゃ・・・。」

 というやり取りはなかったと思いますが、1934年(昭和9年)の1回目の調査で古墳内部の竪穴式石室から鏡や銅製の矢じり(銅鏃)などが発見されました。長法寺南原古墳が築かれたのが、今から1600年ほど前のことでした。

 1月30日(火曜日)から4月22日(日曜日)まで、図書館の1階で、長法寺南原古墳の銅製の矢じり(銅鏃)を展示します。2月3日(土曜日)は節分です。ぜひ、この機会を逃さず、鬼は外、福は内!

今週(1月21日)の長岡京市の歴史「トーイン矢の如し」

東院の復元図

(画像は向日市埋蔵文化財センター提供。 出典:向日市埋蔵文化財調査報告書第56集)

時は長岡京期も末ごろ

 桓武天皇は着々と遷都の準備を進めます。先週は部下に候補地の偵察をさせました。だいたい目星をつけた天皇は、いよいよ遷都にのりだします。「そろそろ、新都の工事を始めようか。けど、新都を建てるには今の都の木材を持っていかないといけないなぁ。けど、持っていったら、おれの家がなくなるなぁ。仮の家を作って、都ができるまではそこで暮らすか」

 ということで、桓武天皇は「東院」という仮の住まいをつくり、そこで2年間遷都までの時をすごしました。その「東院」へ桓武天皇が移った日が1225年前の1月21日でした。

 「東院」は仮の住まいではありますが、かなりの規模であったと考えられます。とはいえ桓武天皇の滞在期間はわずか2年。まさしく東院(光陰)矢の如し。

 

 

 「遷都はつらいよ」(1月15日)

京都盆地

                   京都盆地を南から見る(真ん中辺りの道路が烏丸通り)

時は長岡京期も末ごろ
 桓武天皇(当時の天皇)は頭を悩ませていました。「平城京から長岡京に遷都をしてはや10年。近頃、都ではよからぬことばかりが起こる。そろそろ新しい都へ移るべきか・・・。さて、どこへ移ろうか・・・。」
 桓武天皇は次の都へ移る準備のため、山背国葛野郡宇太村(現在のJR二条駅北側周辺)へ藤原小黒麻呂と紀古佐見を派遣します。今から1225年前の1月中頃のことでした。

 遷都により、長岡京はたった10年でその終わりを告げてしまいます。10年となると、その土地にずいぶんと愛着も出てくるころでしょうか。慣れ親しんだ土地を離れることになった人々は「遷都はつらいよ・・・」と声を漏らしたのではないでしょうか。

 「藤孝、出陣するってよ」(1月8日)

細川藤孝

時は室町時代の末ごろ
 力を失っていた室町幕府将軍の足利義昭。上洛して本国寺で新たな畿内支配の開始だ!・・と思った矢先、敵対勢力である三好三人衆が猛ダッシュで京都へ攻め入ります。あっという間に寺を包囲し、義昭はとたんにピンチへ。
 そこで、援軍として細川藤孝(上画像:天授庵提供)らが出陣。本国寺での合戦で三人衆を破り、さらに追撃を開始。長岡京市にある勝龍寺城まで軍を進めたのが、449年前の1月8日でした。
 この記録が、藤孝と勝龍寺城との関係を示す、最初の確実な史料となっています。

 1月8日は成人式。今年も多くの成人が誕生しました。成人になられた皆様、おめでとうございます。
 ちなみに、449年前の1月8日、藤孝は36歳でした。鎧が重く感じるようになってくる頃でしょうか・・・。

1月4日

弟国宮遷都1500年記念日めくり

新年、明けましておめでとうございます!

実は、2018年は「弟国宮遷都1500年」を迎える年になっております。それを記念して、このページでは歴史日めくりという形で毎週、長岡京市や長岡京市に関連する過去の出来事を振り返っていきたいと思います。

日めくりは来週の9日より、本格スタートをいたします!

皆様、どうぞご覧下さい。今年も一年よろしくお願いいたします。

今年は、「弟国宮遷都1500年」。

平成30(2018)年は、弟国宮遷都1500年。

くわしくは、こちらのページをごらんください。

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