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戦争に関する物品

  • ID:7833

戦争に関する物品の紹介

戦時中に使用されていたものや、戦争に関する物品について紹介しています。


戦争に関わりの深い物品

薬きょう(やっきょう)(神足空襲時に発見)

薬きょうの画像

神足空襲があった日に発見された薬きょう(やっきょう)。
薬きょうとは金属製の円筒で、鉄砲の発射薬を詰めるための容器である。

消火弾(しょうかだん)

消化弾の画像

ガラス製小型の密閉容器に消火薬液をつめた手投げ式の消火器。外筒から取り出して投げると、ガラスが割れ、中の薬剤が火災による熱で消化ガスを発生させる。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

竹やり(たけやり)

竹やりの画像

簡単に作ることができる武器として、女性や子どもも本土決戦(ほんどけっせん)の際には竹やりを用いて戦うように訓練された。
展示の竹やりには、より殺傷能力(さっしょうのうりょく)が高くなるように先端に切っ先(きっさき)が取り付けられている。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

防空用(ぼうくうよう)カバー

防空用カバーの画像(護国灯火覆明記)
防空用カバーの画像

夜間爆撃の投下目標(とうかもくひょう)になることを防ぐ目的で、電球の明かりが必要以上に周囲に漏れないようにした紙製の笠。
さまざまな種類のものが作られ、左側の画像には「護国灯火覆」という名称が記されている。

(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

帝国在郷軍人会の徽章(ていこくざいごうぐんじんかいのきしょう)

帝国在郷軍人会の徽章の画像

陸軍省の指導のもと発足し、現役を離れた軍人によって構成される組織を帝国在郷軍人会(ていこくざいごうぐんじんかい)という。軍隊教育や救護事業などを行った。
画像は帝国在郷軍人会(ていこくざいごうぐんじんかい)の役員の徽章(きしょう)。


出征(しゅっせい)関連

召集令状受領証(しょうしゅうれいじょうじゅりょうしょう)

召集令状受領証(画像)

召集令状(しょうしゅうれいじょう)(赤紙(あかがみ))が本人または家族に交付されると、受け取ったものは受領証(じゅりょうしょう)に署名・捺印(なついん)の上、令状配達人(れいじょうはいたつにん)に渡した。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

出征の幟(しゅっせいののぼり)

出征の幟

出征(しゅっせい)は名誉なこととされ、祝と書かれました。町内会の人たちに駅まで見送られ、軍歌や万歳に送られ故郷を後にしました。
旧姓 井上国蔵さん(北羅国蔵さん)は1937年、18歳の時、赤紙(あかがみ)で招集(しょうしゅう)され滋賀県大津市より京都第九連隊に入隊、工兵(こうへい)として中国にわたり鉄船を並べて橋をかけたり、塹壕(ざんごう)を作ったりした後、二等兵、伍長(ごちょう)を経て、終戦間際には軍曹(ぐんそう)になられました。
1945年に終戦を迎え、1年後に日本(舞鶴港)へ戻られました。
(市内在住 北羅邦治氏 提供)

日の丸寄せ書き(ひのまるよせがき)

日の丸寄せ書きの画像

兵士が出征(しゅっせい)する際、戦地における無事を祈って、日の丸に寄せ書きをしたもの。
戦後アメリカ兵が本国へ持ち帰ったものが返還される例もある。

タスキ

タスキの写真

出征(しゅっせい)する兵士が、村で行われる壮行式(そうこうしき)などで着用(ちゃくよう)した。
兵士は、軍服(ぐんぷく)の上に、自分の名前が書かれた赤いタスキなどをかけて、村人に見送られながら戦地へとおもむいた。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

慰問袋(いもんぶくろ)

慰問袋の画像

戦地にいる兵士を慰(なぐさ)め、士気(しき)を高めるために送られた袋。
袋の中には、日用品、食料品、薬品、絵やお守りなどのほか、兵士の出身地に関係するものも入れられた。
兵士にとっては、自分の村の状況を知る上で重要なものであった。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

軍服(ぐんぷく)(上下)

軍服(下)の画像
軍服(上)

日本陸軍の軍服(ぐんぷく)。旧日本軍において軍服は将校准士官(しょうこうじゅんしかん)以上は自費購入。下士官以下の者については官給品(かんきゅうひん)だった。
また、軍帽(ぐんぼう)、襟章(えりしょう)、肩章(けんしょう)、夏衣(なつごろも)、冬衣(ふゆごろも)にわたる細かい規定が存在し、明治以来数度にわたる改定が行われた。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

鉄帽(てつぼう)

鉄帽の画像

1930年(昭和4年)頃に制式採用された陸軍のヘルメット。クロムモリブデンという特殊鉄板が使われている。
終戦までがほとんどが90式(きゅうまるしき/皇紀(こうき)2590年に由来)と呼ばれるものだったが、改良された98式(きゅうはちしき)もある。(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

軍帽(ぐんぼう)

軍帽(陸軍)の画像
軍帽(海軍)の画像

左は陸軍軍帽(ぐんぼう)。あごひものボタンに桜花(おうか)があるので、将校准士官軍帽(しょうこうじゅんしかんぐんぼう)。下士官兵軍帽(かしかんぐんぼう)には模様がない。右は海軍軍帽。前章(ぜんしょう)には乗組艦艇などの名称も記載されたが、防諜(ぼうちょう)のため1942年末から「大日本帝国海軍(だいにほんていこくかいぐん)」のみとなった。夏服である二種軍装(にしゅぐんそう)の場合、白いカバーをつけて着用する。

(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

防寒手袋(ぼうかんてぶくろ)

防寒手袋の画像

満州(まんしゅう)などの寒冷地(かんれいち)で使用された防寒用(ぼうかんよう)の手袋。小銃(しょうじゅう)の射撃(しゃげき)ができるように親指だけでなく人差し指も独立して動かすことができる。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

ゲートル

ゲートルの画像

脛(すね)に巻いて使用する。脛(すね)を保護し、ズボンの裾(すそ)がからまないようにし、またうっ血(うっけつ)を防いで脚(あし)の疲労を軽減する等の目的がある。
日露戦争中に陸軍で採用され、日露戦後に制式化(せいしきか)された。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

軍靴(ぐんか)

軍靴の画像

軍靴(ぐんか)は軍服(ぐんぷく)と同じように被服廠(ひふくしょう:大日本帝国陸軍(だいにほんていこくりくぐん)の組織で軍服を製造)で製造され、備蓄(びちく)された。
陸軍には軍靴(ぐんか)・革具(かわぐ)の修理を専門に行う装工兵(そうこうへい)もいた。

奉公袋(ほうこうぶくろ)

奉公袋の画像

陸軍において入営(にゅうえい)および、戦地に赴く(おもむく)ために必需品を入れておいた袋。
袋の中には、軍隊手帳(ぐんたいてちょう)、召集令状(しょうしゅうれいじょう)、貯金通帳など必要と定められたものが入れられた。海軍においては応召袋(おうしょうぶくろ)と呼ばれた。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

軍隊手帳(ぐんたいてちょう)

軍隊手帳の画像

陸海軍の下士官・兵に交付された手帳で、入隊前の経歴、服役期間(ふくえききかん)や除隊(じょたい)までの履歴が記され身分証明書にもなった。
軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)などが載せられ、兵士はそれを暗記することを要求された。
戦後には傷病兵(しょうびょうへい)の年金申請に必要な書類としても扱われた。

戦傷奉公杖(せんしょうほうこうづえ)

戦傷奉公杖の画像

この杖は、戦地で負傷した陸軍兵士に送られた。
握り部分は、羽根が後ろに曲げられた荒鷲(あらわし)の形をしているのが特徴である。
彫刻家(ちょうこくか)日名子実三(ひなごじつぞう)氏がこれをデザインした。
海軍の戦傷奉公杖(せんしょうほうこうづえ)も同氏のものが用いられた。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

従軍記章(じゅうぐんきしょう)

従軍記章の画像

従軍記章(じゅうぐんきしょう)とは、戦争に関わった人物に対して、それを顕彰(けんしょう)するために与えられたもの。たとえば「明治三十七八年従軍記章(じゅうぐんきしょう)」(日露戦争)、「昭和六年乃至(ないし)九年事変(じへん)従軍記章(じゅうぐんきしょう)」(満州事変(まんしゅうじへん)・上海事変(しゃんはいじへん))など、戦争や事変(じへん)ごとに作られ授与された。掲載の従軍記章(じゅうぐんきしょう)はいずれも造幣局製(ぞうへいきょくせい)で、「支那事変(しなじへん)」(日中戦争)時のものである。「支那事変従軍記章(しなじへんじゅうぐんきしょう)」の表面には菊御紋(きくごもん)、八咫烏(やたがらす)、軍旗(ぐんき)、軍艦旗(ぐんかんき)などがあしらわれ、表面には支那事変(しなじへん)の文字が記されている。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

暮らしと戦争に関する物品

戦時国債(せんじこくさい)

戦時国債の画像

日清戦争や日露戦争により日本では多くの費用を必要としました。
そのため、政府は国民に「貯蓄債建」や「報国債権」という名前の国債を発行しました。

生活の節制(せっせい)を求める張り紙

生活の節制を求める張り紙の画像

乙訓郡国民精神総動員本部(こくみんせいしんそうどういんほんぶ)が作成した張り紙。戦時中はさまざまな標語を記した張り紙が配布された。
作成された年月は不明であるが、日中戦争初期のものと思われる。

愛国婦人会(あいこくふじんかい)の会員認定証

愛国婦人会の会員証画像
愛国婦人会の会員認定証の画像

1901年(明治34年)に奥村五百子(いおこ)によって夫人の軍事援護事業(ぐんじえんごじぎょう)を目的に創立された愛国婦人会(あいこくふじんかい)の会員認定証。

主な活動としては戦時の遺族救済など社会活動や慈善事業(じぜんじぎょう)を主としていました。

大日本国防婦人会(だいにほんこくぼうふじんかい)の旗

大日本国防婦人会の旗の画像

戦時中において、戦争に後方から協力した婦人団体である「大日本国防婦人会」の旗。
主な活動としては出征兵士(しゅっせいへいし)の見送り、留守家族の支援、傷病兵や遺骨の出迎えなどを行った。

誉の家(ほまれのいえ)表札

誉の家表札の画像

戦死者の家は「誉の家(ほまれのいえ)」とよばれ、このような表札が掛けられた。
軍人の遺族であることが名誉なこととされ、遺族は扶助(ふじょ)などを支給されたが、一方で模範的(もはんてき)な国民としての立ち居振る舞い(たちいふるまい)を求められることになった。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)