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その他の文書(戦時中の文書)

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その他の文書(戦時中の文書)

出征軍人調査簿

出征軍人調査簿の画像

1904年にはじまった日露戦争では現在の長岡京市域でも出征する人々がいました。
この調査簿では海印寺村、乙訓村における出征者数・戦死者数・戦死者数・兵糧・等級・付属隊・徴収年月などが記されています。

乙訓郡尚武会乙訓村支会規則

乙訓郡尚武会乙訓村支会規則の画像

軍隊や軍人の援護をする尚武会が各地につくられ、長岡京市地域でも発足されました。
画像は乙訓村における尚武会の規則で、兵員入退営時の祝宴や送迎、餞別金と慰労金の贈与など様々な活動をしていました。

慰問袋をおくりませう

慰問袋をおくりませうの画像

村では小学校、婦人会などの各種団体が分担し、集団で慰問袋の送付に取り組みました。部隊を指定すれば、村出身の兵士に慰問袋を送ることが可能でした。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

アルミ貨で航空機を造らう

アルミ貨で航空機を造らうの画像

1944年末からB29による本土空襲が本格的に開始されたため、航空機の増産が必要不可欠となりました。
アルミの原料となるボーキサイト鉱石は、戦時中、主として東南アジアから輸入していましたが、もはやそれも危険になったため、アルミ貨の回収までせざるをえなくなりました。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)

蚕には代用食がありません

蚕には代用食がありませんの画像

1944年になると繊維品の供給がきわめて不足することが明らかとなり、衣料の配給の見通しが立たなくなりました。そのため繊維品の増産、野生の藤蔓・葛・桑皮などの採集が要請されました。また、その一環として繭の増産も進められました。
(京丹後市教育委員会所蔵:説明文は平成27年度京丹後市企画展参考)