【あなたはどっち!?】乙訓古墳群or勝龍寺城~長岡京市は大河ゆかりの地です~
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今年7月、大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産への登録が決定しました。
古墳文化が花開いた時代に、かつてない巨大な前方後円墳をはじめとするさまざまな形状の古墳がつくられました。
古墳は、古代のリーダーの墓。当時の技術の粋をつくし、民の力が集結されて築造されたものです。
そんな古墳を語る上で、重要な史跡が実はここ乙訓にも存在します。乙訓古墳群です。
「長岡京市は古墳のまち」
そして、いよいよ来年放送される明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」。
勝龍寺城は、光秀の盟友・細川藤孝の城であり、藤孝の子・忠興へ光秀の娘・玉(のちのガラシャ)が嫁いだ城です。
また、本能寺の変の後、光秀最後の戦い・山崎勝龍寺城合戦の舞台となり、最後に逃げこんだ城です。
「長岡京市は大河ゆかりのまち」
さあ、あなたはどっちを楽しみますか?
この際、どっちも!

国史跡乙訓古墳群「恵解山古墳」


乙訓地域最大の前方後円墳!
恵解山古墳は、乙訓古墳群で最大の全長128mの前方後円墳です。乙訓全域を支配した首長の墓と考えられています。古墳表面は葺石がふかれ、埴輪が並べられていました。死者を埋葬した竪穴式石室はが後円部にあったとみられています。

水鳥形埴輪や鉄製武器も見つかる!
昭和55年の発掘調査では、前方部で約700点もの鉄製武器を収めた施設が見つかり、全国的に注目されました。
また、古墳左右のくびれ部にある造り出しでは、水鳥形埴輪など、古墳での祭祀を物語る遺物が出土しました。
現在は、史跡公園として整備され、一般に広く開放されています。

実は、全国的に貴重な古墳群。百舌鳥・古市古墳群との関連も!
「乙訓古墳群」は、乙訓地域(京都市・向日市・長岡京市・大山崎町)に広がる古墳の集まりです。古墳時代の早い段階から終末期まで(3世紀~7世紀)、少しずつ場所を変えながらも連続して築かれました。これだけ長期にわたって同じエリアで古墳がつくられたことは、全国的にとても珍しく、古墳時代を知る上でその重要性は極めて高いものであることから、平成28年に国史跡に指定されました。
このたび世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」は、大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にある49基の古墳の集まりです。古墳時代の最盛期(4世紀後半から5世紀後半)にかけてつくられました。恵解山古墳の副葬品埋納施設や副葬品のあり方は、百舌鳥・古市古墳群と共通する要素も多く、当時の政権との強い結びつきも考えられています。

さらにくわしく知る!

大河ゆかりの勝龍寺城


戦国武将・細川藤孝(幽斎)の城
勝龍寺城は、京都盆地の南西に位置し、小畑川や西国街道に隣接した交通の要衝に築かれた城です。
明智光秀の盟友・細川藤孝(幽斎)は、織田信長から西岡(現在の乙訓地域)を与えられ、勝龍寺城主となり、元亀2年(1571)に近世的な城郭へとつくり替えました。

光秀の娘・玉(ガラシャ)輿入れの城
信長のすすめにより、藤孝の子・忠興のもとに、光秀の娘・玉が嫁ぎ、幸せな新婚生活を過ごした城とも言われています。園内には、忠興・玉の像があります。

山崎合戦で敗れた光秀が最後に逃げ込んだ城
天正10年(1582)、本能寺の変の後、羽柴秀吉と対決した光秀最後の戦いは、山崎から勝龍寺城の間がその舞台となりました。また、戦いに敗れた光秀が逃げ込んだ城でもあります。

光秀の坂本城と同じ型の軒丸瓦が見つかる
昭和63年の大規模発掘調査では、多くの遺物が見つかり、なかでも軒丸瓦は、光秀が築いた坂本城(滋賀県大津市)と同じ型のものが見つかっています。
公園内の管理棟2階にある歴史資料展示コーナーでは、土器や瓦などのほかに、藤孝の書状も展示しています。

ぜひ、見てみて!ここも見どころ

北門跡には450年前の石垣がそのまま!
公園整備前の発掘調査で北門跡の石垣が見つかり、現在もその一部がそのまま保存されています。当時、石垣を作るために周辺地域からかき集めた石材が使われていて、その中には石仏や五輪塔なども見られます。
ぜひ注目してください!

2年前に見つかった藤孝の書状!
勝龍寺城主・藤孝が城米の取り扱いについて、恐らく京都の東寺宛てに書いた手紙です。文中には、信長や光秀、連歌師の里村紹巴が登場します。
複製を公園管理棟2階歴史資料展示コーナーで常設展示しています。

さらにくわしく知る!

「あなたはどっち!?」歴史再発見情報誌「moshi-mosu2」でくわしくご紹介しています
ぜひ、大河ゆかりの地・特設ページ「いざ、勝龍寺城へ」(長岡京市のホームページです。)もごらんください。
