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乙訓寺 おとくにでらコース1

[2013年3月13日]

モデルコース

乙訓寺(おとくにでら)→大正寺(たいしょうじ)→長岡第三小学校→今里車塚古墳(いまざとくるまづかこふん)→長岡京貴族の邸宅跡(ながおかきょうきぞくのていたくあと)<長岡第十小学校>→新経尼の供養塔(しんきょうにのくようとう)→角宮神社(すみのみやじんじゃ)→赤根神社(あかねじんじゃ)→乙訓寺

全行程:3,300m所要時間:3時間

コース紹介の写真

牡丹(ぼたん)の寺乙訓寺(おとくにでら)

聖徳太子が開いたという。延暦4年(783)に早良親王が幽閉され、弘仁2年(811)に空海(弘法大師)が別当を務めた寺として有名で、乙訓随一の大寺院として栄えた。
中世の戦火で焼けた寺は、江戸時代の元禄8年(1695)に5代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興された。重要文化財の毘沙門天像がある。

長岡京貴族の邸宅跡(ながおかきょうきぞくのていたくあと)

長岡第十小学校内
グランドの北東端から大規模な建物跡が発見された。南北に庇の付く南北4間(13.8メートル)、東西7間(21メートル)と推定される建物。柱を埋めた穴の中には直径40センチの大きな柱が残っていた。大臣クラスの邸宅または役所の中心的な建物と見られる。

木の埴輪がでた 今里車塚古墳(いまざとくるまづかこふん)

5世紀前半、(古墳時代中期)に造られた全長約75メートルの前方後円墳で、周囲に濠を巡らす。市内では恵解山古墳に次ぐ大規模なもの。葺石でおおわれていた墳丘はすでに削り取られている。
周濠の中から埴輪や土器のほかに「木製の埴輪」が出土し、全国的に注目された。

新経尼の供養塔(しんきょうにのくようとう)

今から200年まえの出来事。物集女村の崇恩寺住職である新経尼は、庭の柏の大きな葉がはらりと落ちるのを見た。「もしや瀬兵衛さんの身に」と一目散に井ノ内村に向かって走り出した。「日ごろ恩義になっている瀬兵衛さんが死ぬ前に一言お礼を」と念じて走った。瀬兵衛さんの家から程遠くない所で、新経尼はついに力尽きて息をひき取った。それと同じ時刻に瀬兵衛さんも帰らぬ人となった。
この宝筐印塔は石田家の遺族が頭首の瀬兵衛と不思議な縁で結ばれていた新経尼を供養するため、亡くなった的田川わきに建てたものという。的田川はいつしか「燈呂川」と呼ばれるようになった。

角宮神社(すみのみやじんじゃ)

乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちのじんじゃ)ともいわれる。祭神は火雷神で、祈雨に霊験ある神として広く知られる。
「山城国風土記」逸文の賀茂伝説によれば、この神は下賀茂神社に祭る玉依姫の夫神、上賀茂神社に祭る別雷神の父神とされ、社格の高い神社であった。
かつては井ノ内宮山にあり、文明16年(1484)にこの地へ再興されたという。

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