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「長岡京」とは

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「長岡京」とは

今から1200余年前の延暦(えんりゃく)3年(784)11月11日、桓武(かんむ)天皇の命によって奈良の平城京から遷(うつ)された都です。

日本史にその名を長くとどめることはありませんでしたが、研究が進むにつれ、諸制度の改革や蝦夷(えぞ)の統治など国家の建て直しをはかり、平安京の基礎をつくった貴重な時代であったことが明らかになってきました。

 

古代都城の位置

古代都城位置図

「長岡京」の姿

この都は、東西4.3km、南北5.3kmと平城京、平安京に匹敵する広大なもので、向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部の地域に及んでいます。
政治の中心である長岡宮(ながおかきゅう)は向日市、経済の中心である市(いち)は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎町大山崎・京都市伏見区淀にあり、諸国から多くの人々が往来する日本の政治・経済・文化の中心地となりました。

しかしながら、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良(さわら)親王の死、その怨霊(おんりょう)などから、延暦13年(794)10月22日に平安京へ都が遷されました。

主な建物は壊され新しい都へと移され、徐々に田園地域へと姿を変え、10年間の都の歴史は地中で長い眠りにつき、やがて「幻の都」と呼ばれるようになりました。

長岡京復元想像図

「長岡京」復元想像図

「長岡京」の条坊

長岡京は北や西からひろがる段丘上に位置し、京都盆地を一望できます。
また、淀川等の大きな川が流れ、水陸交通の便利な都でした。都のなかには、碁盤の目のように配置された道路が造られました。長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれていました。東西方向の大路は、九条まで造られたことがわかっており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。

長岡京条坊復元図

「長岡京」条坊復元図