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年表(古代・中世)

  • ID:1016
年表(古代・中世)1
西暦年号事項資料編No.
507継体天皇1大迹王(継体天皇)を大伴氏らが擁立する 
518継体天皇123継体天皇が筒城宮から弟国宮に遷るという古代編3
 (年未詳) このころ稲荷塚古墳・長法寺七ツ塚古墳群がつくられる 
588崇俊天皇1法興寺(飛鳥寺)を建立する(日本書紀) 
 (年未詳) このころ大原古墳群などの築造が始まる
このころ今里大塚古墳がつくられる
このころ畿内において陶棺が使用される
 
593推古天皇1摂津難波の荒墓に四天王寺を建立する(日本書紀) 
601推古天皇92斑鳩宮の造営が始まる(日本書紀) 
604推古天皇144憲法十七条を制定する 
624推古天皇329寺院の縁起、寺院の数、僧尼の人数などが調査される(日本書紀) 
 (年未詳) このころ鞆岡廃寺が創建される 
645皇極天皇46中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺する 
645大化112難波長柄豊碕に遷都する 
650白雉212孝徳天皇、大郡から新宮に遷り、難波長柄豊碕宮と号する(日本書紀) 
653白雉4孝徳天皇が退位しようとして山崎に宮を造る古代編5
663天智天皇28倭・百済軍、唐・新羅連合軍と白村江で戦い、敗北する 
667天智天皇63近江大津宮に遷都する 
670天智天皇92庚午年籍がつくられる 
672天武天皇16壬申の乱がおこる 
672天武天皇17壬申の乱で大海人皇子方の将軍大伴吹負の別将らが「山前」に至り河南に布陣する古代編6
672天武天皇1飛鳥浄御原宮に遷都する 
 (年未詳) このころ乙訓寺が創建される 
676天武天皇511新城に造都を計画し、計画地内を耕作しないため荒地と化す(日本書紀) 
682天武天皇113造都のため新城に遣わしてその地形を見させる(日本書紀) 
684天武天皇133京師に巡行し、宮室の地を定める(日本書紀) 
689持統天皇36浄御原令を施行する 
689持統天皇39庚寅年籍がつくられる(日本書紀) 
689持統天皇310高市皇子が藤原の宮地をみる(日本書紀) 
691持統天皇510使者を遣わして新益京を鎮め祭らせる(日本書紀) 
691持統天皇512宅地班給の詔が下る(日本書紀) 
692持統天皇61天皇が新益京の路をみる(日本書紀) 
692持統天皇65藤原の宮地を鎮め祭らせる(日本書紀) 
692持統天皇69寺院の数(およそ545寺)が調査される(扶桑略記) 
694持統天皇84藤原宮に遷御する 
701大宝13大宝律令を制定する 
702大宝27乙訓郡火雷神を大幣・月次幣の例に入れる古代編9
707慶雲42諸王臣五位已上に遷都をはかる(続日本紀) 
708和銅12平城遷都の詔を出す(続日本紀) 
710和銅33平城京に遷都する 
711和銅41山背国相楽郡・綴喜郡などに都亭駅を設置する(続日本紀) 
713和銅65郡郷名に好字がつけられる(続日本紀) 
713和銅611平城宮の朝堂がはじめてみえる(日本三代実録) 
713和銅6この年に編さんされた山城国風土記に、乙訓郡社坐火雷神の名がみえる古代編10
715霊亀11元明天皇が大極殿に御し、朝を受ける(続日本紀) 
717霊亀3この年以降、天平12年までの間、郷里制が施行される 
718養老2藤原不比等らが養老律令を撰定する 
723養老74三世一身法を制定する 
725神亀29行基が山崎橋架橋を開始する古代編11・12
726神亀310藤原宇合を知造難波宮事とする(続日本紀) 
729天平12長屋王の変がおこる 
731天平3行基が山崎院を建立する古代編13
735天平74乙訓神に神戸6戸が宛てられる古代編14
740天平129藤原広嗣の乱がおこる 
740天平1212恭仁京に遷都する 
741天平132国分寺・国分尼寺建立の詔が出る 
741天平136乙訓郡山埼里の戸主間人造東人とその奴の名がみえる古代編16
743天平155墾田永年私財法を制定する 
743天平1512紫香楽宮を作るため恭仁宮の造作を停止する(続日本紀) 
744天平162難波宮に遷都する 
745天平175平城京に還都する 
749天平勝宝17孝謙天皇が大極殿において即位する(続日本紀) 
749天平勝宝111南薬園新宮において大甞祭が行われる(続日本紀) 
749天平勝宝111山崎里戸主間人造東人とその婢、羽束里戸主長岡坂本国麻呂とその奴の名がみえる古代編19
752天平勝宝44東大寺大仏開眼供養が行われる 
757天平宝字17橘奈良麻呂の変がおこる 
758天平宝字28淳仁天皇が大極殿において即位する(続日本紀) 
758天平宝字211淳仁天皇が乾政(太政)官院に御し、大甞祭を行う(続日本紀) 
764天平宝字89恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱がおこる 
767神護景雲14東院の玉殿あらたに成り、その殿舎に琉璃の瓦を葺く(続日本紀) 
768神護景雲212宇治宿禰の墓誌がつくられる古代編21
770宝亀110光仁天皇が大極殿において即位する(続日本紀) 
771宝亀211光仁天皇が太政官院に御し、大甞祭を行う(続日本紀) 
772宝亀33井上内親王が皇后を廃される(続日本紀) 
772宝亀35他戸親王が皇太子の地位を奪われ、庶人とされる(続日本紀) 
773宝亀41山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となる(続日本紀) 
773宝亀412乙訓社で狼・鹿・狐が日間にわたって吠え鳴く古代編22
774宝亀57陸奥国の蝦夷によって桃生城が攻撃される(続日本紀) 
774宝亀56乙訓社に犲狼の怪異がある古代編23
775宝亀64井上内親王・他戸親王が没する(続日本紀) 
776宝亀78乙訓郡の人羽栗翼に臣の姓が与えられる古代編24
779宝亀107藤原百川が没する(続日本紀) 
780宝亀113陸奥国で伊治砦麻呂の乱がおこる(続日本紀) 
781天応14桓武天皇が大極殿において即位する(続日本紀) 
781天応16持節征東大使藤原小黒麻呂の帰京の願いに対して勅を出す(続日本紀) 
781天応111桓武天皇が太政官院に御し、大甞祭を行う(続日本紀) 
782延暦11氷上川継事件がおこる 
783延暦210桓武天皇が交野に行幸する(続日本紀) 
784延暦3513日、摂津職が長岡遷都の予兆として蝦蟇2万匹ばかりが移動したことを報告する古代編25・26
784延暦3516日、遷都のため、中納言藤原小黒麻呂らが、乙訓郡長岡村の地を視察する古代編25・26
784延暦3610日、中納言藤原種継らを造長岡宮使に任命し、都城・宮殿の造営を開始する古代編27~30、
784延暦3623日、長岡京の宅を造営するために、公卿・内親王らに諸国の正税68万束を賜う32
784延暦3628日、新京の宮城に入るため接収される百姓の私宅の代償として、当国の正税を賜う33
784延暦31111日、桓武天皇が長岡京に移幸する(長岡京遷都)古代編38~41
784延暦31120日、長岡遷都のため、賀茂上下二社および松尾・乙訓二神に叙位を行う古代編38~41
784延暦31124日、高野新笠と皇后藤原乙牟漏が、平城宮より長岡宮に移る古代編38~41
784延暦31128日、使者を派遣して、賀茂上下二社及び松尾・乙訓二社を修理させる古代編38~41
785延暦41大極殿で元旦朝賀、内裏で節日饗宴を行う 
785延暦41造宮資材運搬のため、摂津国神下・梓江・鰺生野を掘開し、淀川を三国川と結ぶ古代編45
785延暦47長岡宮の造営のために、諸国の百姓31万4000人を和雇する古代編46
785延暦48長岡宮の太政官院の垣を築いた大秦公宅守に、従五位下を授ける古代編47
785延暦4923日、藤原種継が射殺される。同日、藤原種継を射殺した賊のうち多治比浜人を大枝山にて処刑する古代編50~57
785延暦4924日、大伴継人・竹良ら党与数十人を断罪し、藤原種継を射殺した伯耆桴麻呂・牡鹿木積麻呂を山崎橋の南の河のほとりで斬る古代編50~57
785延暦4928日、皇太子早良親王が内裏より東宮へ帰り、即日乙訓寺に幽閉される。その十余日後、親王は淡路に移送中に高瀬橋のほとりで死去する古代編50~57
785延暦410使者を山科・田原・後佐保の各山陵に遣わして、皇太子早良親王の廃立を報告する古代編58
785延暦41110日、長岡京の南郊の交野に天神をまつる(続日本紀)古代編59
785延暦41125日、安殿親王(のちの平城天皇)を皇太子とする古代編59
786延暦55左右京および東西市の人に物を賜う古代編60
786延暦57太政官院が完成し、百官初めて朝座につく古代編61
786延暦59壱志濃王を山背国班田長官に、多治比継兄を次官にそれぞれ任命する古代編62
786延暦510上毛野公我人を西市正に任命する古代編63
787延暦66桓武天皇の皇子である岡成なる人物が長岡朝臣の姓を賜る(続日本紀) 
787延暦610水陸の便によって長岡に遷都した旨の詔を出す古代編65
787延暦611長岡京の南郊の交野に天神をまつる(続日本紀)古代編66
788延暦75皇后藤原旅子死去する(続日本紀) 
788延暦79水陸の便によって都を建つ旨の詔を出す(続日本紀) 
788延暦711長岡京右京条坊にある家地1所を、石川朝臣吉備人が御山造少阿麻女に売与する古代編69
788延暦712征東大使紀古佐美、征夷のため出発する(続日本紀) 
789延暦82西宮より東宮へ遷御する古代編71
789延暦86征東将軍が北上川畔において大敗した由を奏上し、桓武天皇がその戦略を叱責する古代編72
789延暦89大納言藤原継縄らを太政官曹司に遣わして、征東将軍らの敗軍の状を勘問させる古代編74
789延暦812皇太后高野新笠が長岡宮の中宮において死去する古代編76
790延暦93皇后藤原乙牟漏が死去する古代編79
790延暦99皇太子安殿親王の病気のため、京下七寺において誦経を行わせる古代編83
790延暦912光仁天皇の妃高野新笠の母土師真妹に、大枝朝臣の姓を賜る古代編84
791延暦104使者を派遣して、山背国内の諸寺の塔の修理を行わせる古代編87
791延暦107大伴弟麻呂を征夷大使に、百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足を副使にそれぞれ任ずる古代編88
791延暦109平城宮の諸門を解体して運び、長岡宮に移建させる古代編89
792延暦11610日、皇太子の病気を卜したところ早良親王の祟りであると出たため、諸陵頭らを淡路国へ遣わしてその霊をなぐさめる古代編96~98
792延暦11617日、淡路国の早良親王の墓にから濠をめぐらして、穢れることを防がせる古代編96~98
792延暦116雷雨が激しく洪水となり、式部省南門が倒壊する古代編96~98
792延暦118京域に近接しているため山背国紀伊郡深草山の西面に死者を埋葬することを禁ずる古代編100~102
792延暦1189日、大雨により洪水がおこる古代編100~102
792延暦11811日、桓武天皇が赤目崎に行幸して、洪水のもようを視察する古代編100~102
792延暦1111征東大使大伴弟麻呂、陸奥へ出発する古代編110
793延暦12115日、遷都のため、大納言小黒麻呂らが、葛野郡宇太村の地を視察し、平安京の造営を開始する
21日、宮を解体するため、桓武天皇が東院に移る
古代編111~113
793延暦122征夷副使坂上田村麻呂が陸奥へ出発する古代編115
793延暦1231日、桓武天皇が葛野へ行幸し、新京を巡覧する
12日、五位以上及び諸司の主典以上に役夫を進上させ、新京の宮城を築かせる
古代編116・118
793延暦126諸国に新宮の諸門を造営させる古代編119
793延暦128長岡京下の諸山に死者を埋葬することや、樹木を伐採することを禁止する古代編121
793延暦129菅野真道・藤原葛野麻呂らを遣わして新京の宅地を班給させる古代編124
793延暦1211桓武天皇が新京を巡覧する古代編126
793延暦1212新京に遷都されるという理由で、長岡京の百姓が支払った宅地の買得料を取り返すことを禁止する古代編127
794延暦131宮殿取り壊しのため、廃朝する古代編128
794延暦136征夷副将軍坂上田村麻呂らが蝦夷を制圧する古代編136
794延暦137長岡京の東西両市を新京に移す古代編138
794延暦131022日、桓武天皇が新京へ遷り、28日、遷都の詔がでる古代編144・146
794延暦1310征夷大将軍大伴弟麻呂が戦果を報告する古代編144・146
794延暦1311山背国を改め山城国と称し、新京を平安京と号する古代編147
795延暦141旧長岡京の地8町が勅旨所の藍圃、近衛府の蓮池にあてられる古代編149
795延暦145長岡旧宮を文室八多麻呂ら18人に守衛させる古代編150
797延暦161旧長岡京の地1町を菅野真道に賜う古代編151
797延暦162旧長岡京の地2町を大伴親王(後の淳和天皇)に賜う古代編152
797延暦163旧長岡京の地5町を多治比邑刀自に、1町を大田親王に賜う古代編153
797延暦168山城国府を長岡京の南に移す古代編154
799延暦181旧長岡京の地1町を藤原奈良子に賜う古代編155
799延暦182和気清麻呂が死去し、その薨伝に長岡廃都をひそかに進言したと記されている古代編156
799延暦188旧長岡京の地1町を菅野池成に賜う古代編158
804延暦2311乙訓郡の畠6町を甘南備内親王に賜う古代編161
805延暦2412乙訓郡の畠1町を讃岐千継に賜う古代編162
806大同19山崎津などの酒家の酒造りを禁止する古代編163
799延暦18この年、空海が唐より帰国する 
809大同42乙訓郡の地6町を大原内親王に賜う古代編164
809大同43長岡京の地4町を坂本親王に賜う古代編165
810弘仁19薬子の変にさいし、山崎橋・与渡市津などに兵を派遣する古代編168
811弘仁21乙訓郡の地1町を百済王教法に賜う古代編169
811弘仁22乙訓郡の薬園1町を施薬院に賜う古代編170
811弘仁27乙訓郡の地4町を藤原冬嗣に賜う古代編171
811弘仁28乙訓郡の地2町などを甘南備内親王に賜う古代編172・173
811弘仁28乙訓郡の地1町を春日内親王に賜う古代編172・173
811弘仁210空海が乙訓寺の別当として、高雄山寺から乙訓寺に入る古代編174
812弘仁32乙訓郡の荒地各1町を上毛野穎人・朝原諸坂・佐太豊長に賜う古代編176
812弘仁33乙訓郡の陸田1町9段を春日内親王に賜う古代編177
812弘仁310最澄が乙訓寺の空海のもとに立ち寄り、教えを受ける(伝教大師消息) 
816弘仁72嵯峨天皇が小野石子の長岡第に行幸する古代編186
822弘仁138乙訓神社などに位を授ける古代編189
823弘仁146祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編190
838承和58雨が止むのを祈るため乙訓神社などに奉幣する古代編203
840承和74祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編205
840承和75乙訓郡物集村で淳和天皇の葬送を行い、大原野の西山嶺上で散骨する古代編206
841承和84祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編207
842承和93祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編209
842承和93渤海客徒賀福延らが山崎より平安京に入る古代編210
842承和97祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編211
842承和97承和の変にさいし、大枝道・山崎橋・淀渡などが固められる古代編212
850嘉祥37山城国火雷神に神階を進める古代編219
851嘉祥43乙訓郡木於山峰の海印三昧寺が定額寺となり、また年分度者があてられる古代編221
851仁寿16雨が止むのを祈るため乙訓神社などに使者を派遣する古代編222
851仁寿16海印寺の創立者である道雄が死去する古代編223
854斉衡110神足神社を官社とする古代編224
855斉衡29伊豆国大興寺が海印寺の別院となる古代編225
858天安27乙訓神社などに雨を祈る古代編226
859天安31乙訓火雷神など京畿七道諸神の神階を進める古代編229
859貞観17乙訓社などに神宝幣帛を奉る古代編230
859貞観19長雨を止めるため乙訓神社などに奉幣する古代編231
861貞観36河陽離宮を国府として使用することを山城国が奏言する古代編233
862貞観410乙訓郡の八条榎小田里、同条衾手里、七条石域道里の地1町4段200歩を、太政官が貞観寺の私地であると認定する古代編234
864貞観611延暦7年に長岡京に遷都してから77年が経ったと大和の国司が報告する古代編236
867貞観99五穀豊穣のため乙訓神社などに奉幣する古代編237
873貞観155祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編242
873貞観157祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編243
877貞観176祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編244
877貞観177祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編245
877元慶16祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編246
878元慶26祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編248
879元慶35祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編249
880元慶45祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編251
882元慶65真言宗の試度は海印寺その他の寺の例をみて、本寺で行えと諭す古代編255
883元慶75祈雨のため乙訓神社などに奉幣する古代編257
883元慶79雨が止むのを祈るため乙訓神社などに奉幣する古代編259
890寛平25海印寺に夏講供講を置く古代編265
892寛平47海印寺で受戒した僧侶は、延暦寺と同じく12年間の籠山修行が義務づけられていた古代編267
894寛平611大井・淀・山崎などの津を検非違使に巡察させる古代編268
902延喜23荘園整理令が出される 
908延喜811河陽離宮の雑舎を山城国の管理下に置く古代編272
927延長512『延喜式』が完成し、乙訓郡の神社・陵墓などが列記される古代編279~290
931承平17禅定法皇(宇多法皇)の血脈に密厳寺開田院の名がみえる古代編293
931承平112群盗横行のため、淀・山崎などの地を固める古代編295
935承平52紀貫之が土佐国からの帰途、山崎に上陸し、島坂を経て京都に入る古代編296
939天慶24京中の盗人を捕えるため、大枝山・山崎・淀等を固めよと命じる古代編298
952天暦66大枝堺・山崎堺などに四堺祭使が派遣される古代編306
1019寛仁312藤原実資が山城国神足園などを僧良円に与える古代編329
1069延久12荘園整理令が出される 
1086応徳311白河上皇が院庁を開く(院政の始まり) 
1113永久112大枝陵・宇波太陵・石作陵・高畠陵の陵戸田が認定される(柳原家記録) 
1123保安48富坂荘預僧豪祐が臨時雑役の免除を申請する(三鈷寺文書) 
1151仁平16藤原頼長の春日社詣の雑役を負担する荘園の中に「鞆岡」の名がみえる(台所別記) 
1153仁平34「東大寺諸荘園目録」に海印寺の名がみえる(守屋孝蔵氏所蔵文書) 
1160永暦12東大寺上座円尊の家地田畠処分状に海印寺田1町1段がみえる中世編2
1167仁安23別当勝慶が海印寺を祈祷所として藤原基房家に寄進する中世編3
1176安元2法皇寺政所が牟佐田里33坪内畠1段余を某に宛行う中世編4
1180治承4冬ごろ、禎喜僧正が乙訓寺において反平氏勢力追討成功を祈る 
1187文治39摂関家政所下文に鷹飼忠武の名がみえる調子家1~3
1189文治512海印寺領田の所当物を東大寺大仏殿の仏供不足分にあてる中世編8
  (年未詳) このころ中院流家領目録草案に小塩荘・開田・浄土谷の記載があり、抹消されている中世編9
1192建久37源頼朝が征夷大将軍となる 
1198建久910後鳥羽上皇が西山開田院に行幸する中世編10
1201建仁111後鳥羽上皇が西山開田院に行幸する中世編11
1212建暦21源空(法然)が没する 
1213建暦32慈円の譲状に、延暦寺東塔無動寺領として乙訓荘がみえる中世編12
1216建保46主殿寮要劇田坪付注進状に、五条神足里などが記される中世編13
1218建保64下毛野能武が鷹飼職に補任される調子家4
1219承久112宰相中将家が乙訓郡長井荘内の田地1町を売却する中世編14
1220承久23参議藤原経通が海印寺俗別当に任ぜられる中世編15
1221承久35承久の乱がおこり、閏10月、土御門上皇が土佐に流される 
1223貞応2このころ光林寺阿弥陀如来像造立のための結縁勧進がなされる建築・美術編
1228安貞21法然の遺体を粟生野で荼毘に付し、そのあとに墓堂を建てる中世編16
1230寛喜24沙弥信阿の三鈷寺宛寄進状に古市村の地名がみえる中世編17
1231寛喜310土御門上皇が阿波国で没する 
1232貞永18貞永式目(御成敗式目)が制定される 
1233天福112金原御堂の落慶供養のため、承明門院らが現地に訪れる中世編18
1242仁治34天皇即位を報告する山陵使派遣先に、金原陵が加えられる中世編19・20
1242仁治310金原御堂で土御門院の国忌が行われる中世編21
1244寛元210金原御堂で土御門院の国忌が行われる中世編22
1245寛元33天変の祈りにより、金原陵などへ山陵使が派遣される中世編23
1248宝治212下毛野能武の譲りにより子息武貞が鷹飼職に補任される調子家7
1250建長211九条道家初度処分状により、小塩荘が光明峯寺の根本所領となる九条家1
1251建長33開田准后法助が開田荘を仁和寺に施入する(仁和寺御伝) 
 (年未詳)このころ法助付法弟子頼助が開田院に居住する中世編169
1252建長42九条道家が、光明峯寺・同寺領は九条・一条両家のうち家の長者が管領すべきことを定める九条家2
1253建長510近衛家所領目録の中に鞆岡荘と調子荘がみえる中世編24
1258正嘉27勝龍寺が乙訓郡内の私領田地三ヵ所を購入する中世編25
1265文永211宗性が海印寺の復興を企て、元通り東大寺尊勝院の末寺とする中世編26・27
1268文永56モンゴル来襲のことにより、金原陵ほかに山陵使が派遣される中世編28
1270文永72後嵯峨上皇院宣により、九条家の小塩荘領有が認められる随心院1
1274文永119宗性が海印寺にて「白氏文集要文抄」を抄写する中世編30
1275文永12禅爾が海印寺造営材木取立のため上洛する中世編31
1276建治29宗性が海印寺にて「白氏文集要抄」の抄写の続きを行う 
1276(建治2) このころ禅爾が海印寺にて夏安居の修行をする中世編32
1295永仁39東大寺僧某が海印寺において「時分義」を書写する中世編33
1301正安3 九条忠教が、弘安の寄付にまかせて小塩荘安武名内1町5段半を定智上人に安堵する(東福寺文書) 
1312正和18幕府が、海印寺ほか五ヵ荘の地頭職を停止する中世編34
1319元応15勝龍寺の梵鐘が造られる建築・美術編
1324元亨43開田御領供田乙訓郡長井里36坪内2段が開田薬師如来に売り渡される(長福寺文書) 
1333元弘34名越高家軍を迎撃するため、赤松円心が久我縄手などに陣を張る中世編35
1333元弘35六波羅探題が陥落し、鎌倉幕府が滅亡する 
1333元弘35林実弘が軍功を上申する中世編36
年表(古代・中世)2
西暦年号事項資料編No.
1336建武38林真弘が峯堂の警固につく中世編37
1336建武311足利尊氏が建武式目を制定し、室町幕府を開く 
1336建武311光厳上皇が長井荘を仁和寺宮法守法親王に寄進する(仁和寺文書) 
1336建武312後醍醐天皇が吉野に移り、南北朝内乱が始まる 
1337建武48神足信朝が石清水八幡宮放生会警固役をつとめる中世編38
1338建武56林真弘が軍功を上申する中世編39
1338暦応110神足信友が足利直義の石清水八幡宮参詣に随従する中世編40
1338暦応111林宗兼・神足信友らが足利直義の今熊野社参詣に随従する中世編41・42
1344康永33刑部卿寺主が小塩荘預所職に任命される随心院2
1344康永310御成敗式目写の紙背に結縁交名が書かれ、寂照院仁王像の像内に納められる寂照院1~3
 (年未詳)このころ愛若丸が小塩荘下司代職に任じられる随心院16
1352観応39幕府の命令で小塩荘半済分が光明峯寺雑掌に返還される随心院3
1353文和23小塩荘所出の当年分馬飼料が、東寺御影供進物として随心院に寄進される随心院4
1353文和26南朝後村上天皇の綸旨により、小塩荘に対する現地の武士の押妨が止められる随心院5
1354文和33一条経通が小塩荘安武名内1町5段半を東福寺に寄進する中世編44
1354文和311法観が開田御領供田乙訓郡長井里36坪内2段を買い取る(長福寺文書) 
1364貞治311後光厳天皇の綸旨により随心院の光明峯寺管領が認められる随心院6
1380康暦210見忠らが小塩荘ミつとき名内田地1段を売却する中世編46
1385至徳22九条経教が光明峯寺寺務職を随心院門跡に委ねる随心院9
1386至徳310法皇寺知事が調子荘内八角堂下地淀田の本所役請文を出す調子家18・19
1387至徳45長井荘が天竜寺に18石9斗1升の年貢を納める荘園としてみえる(天竜寺文書) 
1389康応17九条経教が光明峯寺を随心院に付属させ、両供をも委ねる随心院10・11
1390明徳13調子武遠が調子さんしうに調子荘縄下の下作職を宛行う調子家20
1392明徳38九条経教が光明峯寺寺務職を随心院門跡の相承とする随心院12
1392明徳35~11月、山城守護畠山基国被官人が小塩荘内切田・八名を押妨する随心院13
1393明徳44足利義満が、仁和寺領開田荘に段銭・人夫以下の臨時課役をかけることを停止する中世編47
1394応永17足利義満が開田院から半済を徴収することを禁ずる中世編48
1394応永18山城守護が調子荘内知行分を調子武音に引き渡す命を遵行する調子家24
1394応永111足利義満が光明峯寺の監督権を九条経教に返還する(九条家文書) 
1394応永112調子武音が伯耆権守に任じられる調子家25
1395応永21足利義満の太政大臣拝賀式に下毛野武音が随身として従う(荒暦) 
1398応永52実舜が長井里35坪の開田御領安友名田1段を質物として米を借りる(長福寺文書) 
1400応永71三鈷寺当知行目録中に長井荘・古市の地名がみえる中世編49
1400応永77足利義満が小塩荘預所職を三位上座仲舜に返付する随心院17
 (年未詳)3このころ山城守護奉行人が小塩荘切田・八名外の段銭を免除する随心院18
1408応永159幕府が辻本舜全を退けて、小塩荘預所職を随心院に付属させる随心院19
1408応永1510栄祐が鞆岡荘内石田の田3段の作職を山崎右衛門九郎に宛行う中世編50
1410応永1711調子武遠が調子荘ほかを武俊に譲与する調子家43
1411応永188足利義持が小塩荘預所職を随心院が領知することを承認する随心院20
1418応永2512山城守護一色義範が守護代に開田荘の課役免除を命ずる中世編53
1420応永274長井荘の課役免除が認められる(天竜寺文書) 
1422応永2911調子武俊が宝寿丸に調子荘内私領6段を52貫600文で売却する調子家53・54
1422応永29向日神社造立棟札に「今里」がみえる(向日神社棟札) 
1428正長19正長の土一揆がおこる 
1430永享27足利義教の右大将拝賀式に下毛野武春が随身として従う(後愚昧記) 
1430永享27調子武春が武俊の遺跡・御恩を安堵される調子家68
1435永享712調子武冬が山崎澄心庵春首座に、調子字ハサマの田1段を10貫文で売却する調子家69
1441嘉吉18嘉吉の一揆がおこる 
1447文安47西岡辺より一揆がおこり、8月、幕府が西岡に兵を派遣するとの噂がある中世編56~58
1447文安48十輪院朗厳譲状に左衛門督僧都性恵所持の小塩荘内下地名主職のことがみえる九条家3
1452享徳111三鈷寺領当知行目録中に景石・今里・開田などの地名がみえる中世編59
1453享徳28光明峯寺寺僧等が、小塩荘勘料を得て寺堂修復を行いたい旨を言上する随心院22
1454享徳310徳政一揆がおこる(康富記) 
1457康正31将軍足利義政の八幡社参のため、上久世・下久世より人夫を勝龍寺に派遣するよう、守護方より命令がある中世編60~62
1457長禄110西岡の馬借を中心に土一揆おこる(経覚私要抄) 
1457長禄1 幕府は鎮圧に失敗する(山科家礼記) 
1458長禄21将軍足利義政の八幡社参のため、上久世・下久世より人夫を勝龍寺に派遣するよう、守護方より命令がある中世編64~66
1458長禄27足利義政の内大臣拝賀式に下毛野武冬が随身として従う(慈照院贈相国義政公記) 
1458長禄27~8月、西岡辺の土民が一揆を企てる徴候があるため、幕府が張本の輩を注進させる中世編67・68
1459長禄39幕府が西岡辺の徳政一揆の動きにそなえる中世編69
1459長禄3930日、上久世・下久世両荘から、土一揆に加担したものがいない旨の起請文が出される(当時百合文書ね・を) 
1461寛正23東岩倉寺領として海印寺荘が記される(大覚寺文書) 
1461寛正25調子武春が山崎口紙駄別課役銭代官職に補任される調子家78
1462寛正33今里能勢之堀内為頼が今里荘名主職を禅衆庵住持に売り渡す売地の南に「法皇寺田」の名がみえる中世編70
1462寛正39京都西方の土一揆が洛中を攻めるが、10月末、幕府軍に鎮圧される(東寺執行日記) 
1465寛正611幕府政所執事伊勢貞親が、西岡被官らに土一揆に同意しないよう命じ、また土一揆が鎮まるまで、西岡被官人を在京させようとする中世編72・73
1466寛正71足利義政の命により小塩荘預所職が伊勢備前守に与えられ、随心院・光明峯寺供僧が預所職相伝の三位上座に替地を与える九条家4
1467文正21応仁の乱がおこる 
1467応仁16幕府が西岡・中脈地頭御家人らに、西軍の進路を塞ぐよう命ずる中世編74・75
1467応仁16久我縄手・物集女縄手で合戦が行われる中世編86
1467応仁18幕府が西岡・中脈御家人に、同地の所領の半済分を恩賞とすることを約束する中世編76・77
1467応仁19応仁の乱によって京都や西岡辺で火事がある中世編78・79
1468応仁23細川勝元が上野荘等への半済催促の停止を神足氏らに命ずる中世編80
1468応仁210東軍の西岡被官衆が寺戸山に陣取る 
1470文明22畠山義就(西軍)勝龍寺を陣城とする中世編81
1470文明24大山崎住人らが山名是豊(東軍)に属し勝龍寺などを攻める中世編82・83
1470文明24上里・石見・井内館が放火され、向日河原で合戦が行われる中世編86
1470文明24畠山義就(西軍)奉行人が勝龍寺の鐘を合図に鐘つきするよう東寺に要請する中世編84
1471文明32~7月、善峰の麓や粟生、勝龍寺で合戦が行われる九条家5
1473文明59光明峯寺が、畠山義就家臣遊佐越中守の代官職を止め、小塩荘を寺家衆僧に預けるよう言上する九条家5
1474文明63野田泰忠が文正2(1466)年以来の軍功を上申する中世編86
1477文明912畠山義就の河内下国により、応仁の乱が終息する 
1477文明912小塩荘が一条兼良に与えられる中世編87・88
1478文明102足利義政が随心院の小塩荘領有を認める随心院23
1478文明104勝龍寺蓮池坊栄堯が願主となり、聖観音立像を修復する建築・美術編
1478文明109細川聡明丸(政元)奉行人が、山名政豊被官神足因幡入道跡の小塩荘下司職・同散在について神足友善の違乱を禁ずる中世編90
1480文明124一条兼良が光明峯寺・小塩荘の概略を書き記す中世編91
1480文明128向日神社で土一揆の企てがなされ、鐘をついて蜂起する(山科家礼記) 
1483文明155松殿忠顕が小塩荘の概況と年貢納入の実態を語る中世編92
1483文明1510妙見宮再興の棟札に高橋勘解由左衛門尉俊長の名がみえる(佐藤年秀家文書) 
1484文明168密厳院智海が大内氏に光明峯寺再建のための助力を求める九条家6
1485文明176~7月、一条家が小塩荘当年分年貢の配分を決める中世編94
1485文明178京都や奈良で徳政一揆が蜂起し、西岡の一揆勢が東寺に立て籠もる(東寺執行日記・東寺百合文書け) 
1486文明188山城国一揆がおこる 
1486文明1810神足氏・野田氏・高橋氏らが、久我家領東久世荘代官入部に協力を命じられる中世編96~100
1486文明18小塩荘が光明峯寺に返還され、九条家の管領下に入る(後慈眼院殿雑筆) 
1487長享111乙訓惣国が、守護礼銭のための郷々出銭に荘園領主の協力を要請する中世編101~107
1489延徳112小塩荘が一条冬良に再び返却される中世編108・109
1490延徳28随心院が幕府に、一条家に与えられた小塩荘の返付を求める九条家7
1493明応24細川政元が政権を握る 
1493明応26乙訓寺の狛犬台座修理銘に「法皇禅寺」と記される建築・美術編
1493明応29山城国一揆が解体する 
1495明応45幕府が前典薬頭秀直の高畠荘知行権を認め、百姓・神足氏らの年貢未進狼藉を禁ずる中世編113・114
1495明応41012日、一条冬良が小塩荘を光明峯寺に永代寄進し、別当職が随心院に与えられる随心院25・26
1495明応41015日、一条冬良が薬師寺安芸守に随心院へ小塩荘返却のことを告げ、借物返済について指示する九条家8
1495明応412幕府が神足孫左衛門ほかに、一条家が随心院に小塩荘を去り渡したことを伝える九条家9
 (年未詳)このころ小塩荘に細川氏家臣天竺上野介の違乱があり、薬師寺氏への借銭返済が進まない九条家10
 (年未詳)12このころ九条政基が小塩荘の武家代官を退け直接支配をすることにつき随心院の同意を求める随心院27
1496明応58幕府奉書を得た細川弥六が小塩荘代官に就任しようとするが、随心院・九条家が一体となってこれを退ける(九条家文書) 
 (年未詳)4このころ薬師寺元長が、牛瀬村桂地蔵河原用水を引く件で神足氏・高橋氏・物集女氏らの協力を要請する中世編115
1497明応610薬師寺元長が小塩荘代官職に就任し、七ヵ条の請文を提出する九条家12
1497明応610勝龍寺領久貝・中上野・神足などが公事免除・守護使不入の地であることが認められる中世編116
1497明応612光明寺住持空撮に香衣が許される 
1497明応612長井荘の課役免除が認められる(天竜寺文書) 
1498明応72細川政元が香西元長に、乙訓郡など五郡内の寺社本所領から五分一済を徴収することを認める中世編118~121
1498明応710開田天満宮造立棟札に中小路氏の名がみえる長岡天1・2
1498明応711乙訓郡の国人らが向日宮で寄合し、守護に出銭して郡を国持ちにしようとする中世編122~124
1498明応712乙訓惣国が、礼銭によって五分一済の回避をはかる中世編125~130
1499明応810幕府が、西岡・中脈被官人が細川政元の下知と号して半済を徴収することを停止する中世編131~133
1501文亀19光明寺舜空上人に香衣が許される中世編134
 (年未詳)このころより御厨氏・飯川氏が小塩荘代官職を主張し相論がおこる(後慈眼院殿雑筆) 
1501文亀19下海印寺内瑞泉庵の檀那職をめぐり、神足孫三郎と中嶋彦三郎が争う(調子八郎家文書) 
1501文亀110九条尚経が芝堯快を小塩荘預所職に補任する九条家13
1501文亀111神足春治が、大岡荘年貢の件や中嶋との公事などについて無量寿院に礼状を書く中世編135
1501文亀11213日、飯川山城守が小塩荘などに今後干渉しない旨の放状を出し、九条家はその返礼を約束する九条家14~16
1502(文亀2)1217日、小塩荘への御厨氏の押妨に関連して、沢蔵軒宗益・薬師寺元一・安富元家ら、細川政元家臣の関与をうける九条家19・20
1503文亀33小塩荘訴訟が無事落居し、九条家と随心院が喜びの書状をかわす随心院28・九条家21
1503文亀312九条尚経が小塩荘・光明峯寺につき新制を定め、随心院の遵守を求める随心院29・30
 (年未詳)10このころ小塩荘下司神足友春が、荘内の堤修復費用の算用について預所堯快に尋ねる随心院31
1504永正194日、薬師寺元一が反乱をおこす中世編136
1504永正196日、西岡衆が薬師寺元一に応じたため、細川政元が淀及び神谷城を攻める九条家23~25
1504永正1924日、小塩荘下司神足友春が薬師寺元一の反乱に関係し、小塩荘神足抱え地が細川政元より没収されようとする 
1504永正110九条尚経が、小塩荘神足氏抱え地分についての武家の支配を退け、九条家領としたい旨を随心院に告げる随心院33
1504永正110九条家が秋岡景久を小塩荘内神足氏抱え地分の代官に任命する 
1504永正110 九条家26・27
1504永正111九条家が香西元能を小塩荘内神足氏抱え地分代官職に任命する九条家28・29
1505(永正2)8小塩荘代官香西元能が神足氏の先例と称して年貢を送らず、九条家と随心院との間に紛争が起こる九条家30・31
1505永正29九条尚経が家司白川冨秀・信濃小路長盛の両人を小塩荘内神足氏抱え地分の奉行職に任じ、支配の原則を定める九条家32~34
1505永正21013日、九条政基が小塩荘に下向し、7日間の在荘日記を記す九条家36~39・41~48・50~52
1505永正210小塩荘より九条尚経に現地状況を報告し、月末に帰京する九条家36~39・41~48・50~52
1505(永正2)このころ九条政基が滞在した城の指図が作成される九条家40
1505(永正2)このころ水垂・樋爪の九条家被官衆の名簿が作成される九条家49
1506永正311九条家と随心院の間に小塩荘年貢勘定をめぐる紛争がおこり、九条家は光明峯寺知行分年貢の抱え置きを百姓中に命ずる九条家54・55
1506永正312九条政基が、小塩荘代官職を武家方と契約したことについて随心院門跡を非難する随心院35
1507永正46細川澄之・香西元長らが細川政元を暗殺し、8月、細川高国らに討たれる 
1507永正410九条家が小塩荘直納代官に一宮次郎三郎と竹原定雄を任命する九条家56・57
1507永正411小塩荘の年貢納帳が作成される九条家58
1507永正411幕府が治部兵衛大夫に西岡上馬場郷内新跡闕所分を安堵する中世編137
1508永正53幕府が神足氏の勝龍寺領守護人夫役賦課を停止する中世編138
1508永正53細川高国が挙兵し、5月、大内義興との連合政権が成立する 
1508永正510善峰寺領に対する灰方公文の違乱停止が、物集女氏・高橋氏・神足氏らに伝達される中世編139
1508永正510光明峯寺供僧らが代官職をめぐる随心院の違乱を九条家に訴える九条家60・61
1508永正511九条政基が随心院に、小塩荘に武家代官を入れるべきではなく随心院・九条家一致して年貢収納にあたるべきことを述べる随心院36・37
1508永正511小塩荘預所芝堯快が九条家に随心院の不法を訴える九条家62・63
1508永正512山城守護大内氏が小塩荘を守護代に預けるよう随心院に求める随心院47
1508永正512九条家・光明峯寺が小塩荘につき随心院を訴える九条家65・66
1508永正51229日、幕府が小塩荘をめぐる訴訟につき糾明中のため、現状を維持するよう名主沙汰人中・随心院・神足宮千代に通達する九条家73~75
1509永正62小塩荘をめぐる九条家と随心院の相論に、随心院が反論する随心院48
1509永正612九条家が薬師寺万徳丸を小塩荘直納代官に任ずる九条家79・80
1509(永正6)12このころ九条家が神足宮千代に随心院代官石田方の年貢催促を止めさせる九条家81
1509永正76幕府が治部兵衛大夫入道に西岡馬場新跡の下地を安堵する中世編140
1510永正81仏陀寺彦致が法然三百年忌のため光明寺住持となり、香衣の勅許をねがう中世編141
1510永正86仁和寺領今里林条居屋敷が能勢三郎左衛門に売却される中世編142・143
1514(永正11)6井内盛利ほかが富坂荘の年貢について清和院と契約する中世編146
1518永正1511小塩荘内神足・古市の百姓らが幕府へ納める草は自領内で刈り取るよう、幕府の命令が出される中世編147
1519永正166宝積寺梵鐘再興にあたり、大工神足掃部清原春広が鋳造する中世編149
 (年未詳)8このころ九条家代官矢野治清が殺害される九条家84
1522大永2小塩荘帳が作成される九条家85
1525大永58海印寺観音・不動などの霊験によって、唐瘡等即時平癒の夢告がある中世編150
1527大永72柳本賢治らの攻撃により、戦火が西岡・西院に及び、野田城が落城する(言継卿記) 
1527大永72細川高国政権が崩壊し、3月、細川晴元が堺に政権をたてる 
1527大永74堺幕府が治部又太郎に西岡馬場新跡散在田畠などを安堵する中世編151
1527大永76九条家が一宮左近将監を小塩荘代官に任ずる九条家86・87
1528(大永8)7このころ細川高国・同晴元の抗争によって、西岡被官衆も二派に分裂する中世編152・153
1528大永88西岡で高国方と晴元方の合戦があり、鶏冠井氏が討ち死にする(実隆公記) 
1531享禄410随心院が薬師寺国長を小塩荘代官とし、高橋出羽守を下代とする随心院54~56
1532享禄56摂津国衆・一向一揆が三好元長を敗死させ、堺政権が崩壊する 
1532天文18~9月、細川晴元と一向一揆との戦いに、西岡衆が法華一揆と共に晴元方に加わる(言継卿記・祇園執行日記) 
1532天文110細川晴元が一宮宮房丸を小塩荘代官とする随心院57・58
1533天文25細川晴国が挙兵する 
1533天文25~11月、晴国が野田弾正忠に参陣を求め、当知行分を安堵する中世編155~157
 (年未詳)5このころ細川晴元被官茨木長隆が調子式部丞に合力を要請する調子家85
1533天文26晴国方との合戦に際して、細川晴元配下の赤沢景盛が調子彦三郎の奔走を認め、一層の働きを頼む調子家87
1534天文311神足氏支配下の神足古市境関および諸散在領の半済が免除される(神足氏関係古文書) 
1536天文59細川晴元が入京する 
1537天文64治部光任が家領西岡馬場新跡および諸散在領の代官に神足与三郎を補任する(神足氏関係古文書) 
1538天文79細川晴元の山崎築城により、山城下五郡に段銭がかけられる中世編160
1539天文87細川晴元が、洛中洛外を除き西岡面ばかりを対象にした徳政令を下す(親俊日記) 
1540天文92調子彦三郎武吉が瑞泉庵に対する中嶋彦三郎の違乱について言上する(調子文書) 
1540天文988細川晴元が千鶴丸に開田荘内今里分を安堵する中世編161
1540天文999細川晴元が高雄尾崎坊を小塩荘代官に任ずる(神足氏関係古文書) 
1541天文108治部光任知行分西岡古市への能勢十郎の押領が停止される中世編163
1542天文115光明寺住持に香衣が勅許される中世編164
1543天文127細川氏綱が挙兵する 
1544天文1311小塩荘内馬場新跡本役米が随心院に与えられる随心院59
  (年未詳)9このころ茨木長隆が小倉宮の松の木の購入を望み、代価について調子彦三郎に問い合わせる調子家86
  (年未詳)9このころ細川晴元内衆平井直信が調子氏に、晴元所望の楓の木を京まで運ぶ人夫について問い合わせる調子家88
1547(天文16)3このころ野田弾正忠が細川氏綱から参陣を求められる中世編165
1547天文168細川晴元が小塩荘を随心院に安堵する随心院60~62
1548天文1710光明寺舜叔に香衣が勅許される光明寺1
1549天文186細川晴元政権が崩壊し、7月、三好長慶が細川氏綱を擁して入京する 
1549天文1812小塩荘の段米が免除される随心院63
1550天文195神足代官治家らが三好長慶に摂津・京都の戦況を知らせる中世編167
1550天文1911東寺領の段米催促に三好長慶配下の神足方の者が付けられる中世編168
 (年未詳)6このころ物集女氏ら三好長慶方の山城国人が、東寺に勝龍寺城普請に人夫を提出するよう要求する中世編166
1552天文2110~11月、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、三鈷寺・善峯寺などが炎上する(言継卿記) 
1553天文228三好長慶が摂津芥川城に入城、三好長慶政権が成立する 
1553天文2211三好長慶被官四手井家保が、随心院の本間帯刀に九条家への斡旋を感謝する随心院64
 (年未詳)12このころ瑞泉庵檀那職について調子武吉の主張を認める三好遠江守の書状が出される(調子八郎家文書) 
1554天文236三好長慶が今井用水をめぐる今里と上植野の争いに裁許状を下す今里村1・2
1556弘治29随心院が芝重快を小塩荘代官に任ずる中世編170
1557弘治35四手井家保が小塩荘の納米の状況を注進する九条家89
1560永禄39四手井方の命令に対し、随心院が小塩荘公用銭を四手井方に渡さず従来どおり随心院に納めるよう、古市の政所百姓中に命じる随心院66
 (年未詳)10このころ四手井家保が小塩荘上使芝右近の借銭を随心院に懸けようとし、松永久秀が斡旋してそれを止める随心院67~69
1561永禄45三好長慶・細川晴元の和睦が成立する 
1562永禄53三好義興・松永久秀が山崎に撤兵し、松山新介・池田衆らが西岡に陣をすえ、今村慶満・高野瀬備前守らが勝龍寺城に籠もる中世編171
1562永禄510光明寺登順に香衣が勅許される中世編172
1562永禄511顕空登順が光明寺衆僧より霊宝・寺領を受け取る光明寺2
1563永禄61~閏12月、二条殿内御乳が小塩荘納物の米銭・麦などを受け取る随心院70~82
1563永禄63南禅寺大寧院末寺法皇寺・末寺領西岡散在田畠等が安堵される中世編173
1563永禄63正親町天皇より光明寺に浄土根元地の綸旨が下る光明寺3・4
1564永禄78勝龍寺専勝坊雄善が願主となり、聖観音立像を修復する建築・美術編
1564永禄712将軍足利義輝が光明寺の寺領を安堵する光明寺5
1565永禄85三好三人衆・松永久秀が将軍足利義輝を暗殺する 
1565永禄812三好氏家臣和久是徳が、三好義継より松永派四手井家保跡の小塩荘知行を申し付けられ、地子収納を本間氏に申し入れる随心院84
1566永禄93和久是徳が小塩荘警固役に任ぜられ、4~10月、和久是徳が小塩荘年貢納入につき随心院本間加賀に申し入れる随心院85~95
1566永禄97三好勢によって勝龍寺城が落城し、石成友通が入城する中世編174・175
1566永禄97光明寺を中心にして西山派寺院の綱紀を正す旨の綸旨が出され、顕空登順がその旨をふれる光明寺6・7
1566永禄910光明寺登順に紫衣される中世編176・光明寺8
 (年未詳)10このころ細川昭元奉行人飯尾為房が、調子式部丞に楓の木進上を感謝する調子家89
1567永禄103勝龍寺城に入城した石成友通が、西岡表の明き所の差配を勝龍寺城より申し付けようとする随心院96
1567永禄10このころ小塩荘への海沼弥三郎の違乱がある随心院96~100
1568永禄11926日、織田信長入京、勝龍寺城で合戦がある中世編178~182
1568永禄11927日、義昭らは陣を寂照院に進め、28日、西岡を焼き討ちする中世編178~182
1568永禄1111南禅寺大寧院末寺法皇寺・末寺領西岡散在田畠等が安堵される中世編183
 (年未詳)11このころ信長代官日乗朝山が、随心院門跡領の代官得分は従来どおり三分一にするよう龍雲院へ伝える随心院101
1569永禄1215日、三好三人衆が足利義昭を本国寺に襲い合戦となり、細川藤孝は義昭を助けて三好三人衆と戦う中世編184
1569永禄1218日、敗退した三人衆方追撃のため、細川藤孝・三好義継・池田勝正らが勝龍寺城に進駐する中世編184
1569永禄12米田求政が勝龍寺城に来て、細川藤孝の旗下に属すると伝える細川家32
1570元亀18足利義昭が一宮より帰り勝龍寺城に入る中世編185
1571元亀22細川藤孝が勝龍寺城に帰城する中世編186
1571元亀22細川藤孝が大原野勝持寺での千句に参加する(勝持寺文書) 
1571元亀23勝龍寺城において舞曲十番が催される中世編187
1571元亀210細川藤孝が桂川より西の在所から人夫を徴発し、勝龍寺城を普請する細川家1・33
1572元亀39織田信長が、革嶋一宣に細川藤孝との与力関係の継続を命ずる中世編191
1573元亀41顕空登順の光明寺退山後、頓空が入山し、一老宗舜に寺務の執行を申しつける光明寺9・10
1573元亀42細川藤孝が勝龍寺城に帰城する中世編186
1573元亀42~3月、細川藤孝と革嶋秀存が起請文をかわす(革嶋家文書) 
1573元亀4710日、織田信長は細川藤孝の忠節を賞し、桂川から西の地一の領知を認める細川家6・36
1573元亀47このころ細川藤孝が姓を長岡に変える細川家6・36
1573元亀4718日、槇島城の足利義昭が降伏し、室町幕府が滅亡する 
1573元亀4727日、長岡藤孝が元勝龍寺城主石成友通を淀に討つ中世編192
1573元亀48~10月、長岡藤孝が知行地桂川西地内の権門領や武士領の安堵を行う(東寺文書・清和院文書・愛宕山尾崎坊文書)中世編193・細川家38・志水家13
1573天正112明智光秀が奥海印寺12石内の光明寺領を安堵する光明寺11
1574天正25九条稙通が小塩荘を兼孝に譲与し、由緒目録を作成する九条家90・91
1574天正25このころ長岡藤孝が小塩荘代官となる九条家90・91
1574天正25長岡藤孝が光明寺境内の被官人を自らの給人に組みこもうとする企てをとりやめ、寺領を安堵する光明寺12・13
1574天正26長岡藤孝が、勝龍寺城殿主(天守)において、三条西実澄より古今集切紙を伝授される中世編194
1574天正29長岡藤孝が河内の一向一揆攻撃に参加する細川家10・11
1575天正33織田信長は大坂本願寺合戦に備え、丹波国船井・桑田両郡の国人を長岡藤孝の指揮下とする細川家12
1575天正36長岡藤孝の奉行人が革嶋と大岡との水論を裁く中世編195・196
1575天正39長岡藤孝が松井康之に命じ、物集女宗入を滅ぼす細川家39・48・49
1575天正310長岡藤孝が織田信長より、物集女宗入を滅ぼしたことを了承される細川家13
1575天正310長岡藤孝が信長に播磨・丹波・丹後での戦況報告をする細川家14・15
1575天正312吉田兼見が勝龍寺城におもむき、沼田丸で長岡藤孝と面会する中世編197
1576天正44~7月、長岡藤孝が大坂石山本願寺攻撃に参加する細川家16・17
1576天正410長岡藤孝が日本書紀神代巻中の不明な点を質問するため、吉田兼見を勝龍寺城に招く中世編198
1577天正52長岡藤孝が紀州雑賀一向一揆攻撃に参加する細川家18
1577天正510長岡忠興・藤孝の大和国片岡城攻撃の戦功に対し、信長の感状が与えられる細川家21~23
1577天正512勝龍寺城新造御殿において長岡藤孝が里村紹巴らを招いて連歌の会を催す細川家41
1577天正53長岡藤孝が信長より、丹波国出陣のために道路を整備するよう命じられる細川家24
1578天正68長岡忠興と明智光秀娘玉との婚礼が勝龍寺城にて行われる細川家46
1578天正610勝龍寺城において、囲碁の会が行われる中世編199
1580天正83大坂石山本願寺が信長に降伏し、信長の畿内平定が完成する 
1580天正88長岡藤孝・忠興が信長から丹後国を賜り、勝龍寺城を離れる中世編205・細川家42
1581天正93藤孝丹後移封により空城となった勝龍寺に城代矢部・猪子が入り、藤孝の家老松井康之が丹後に移る中世編206・細川家43
1581天正99正親町天皇より光明寺へ紫衣の綸旨を賜る光明寺14・15
1582天正1062日、本能寺の変がおこる
9日、明智光秀が細川忠興・藤孝に覚書をだす
12日、勝龍寺の西で足軽が出会い鉄砲を撃ち合う
13日、山崎の合戦で光秀敗れ、勝龍寺に逃げこみ、夜陰逃亡する
中世編207~211