年表(近世・近代)
- ID:966
西暦 | 年号 | 月 | 事項 | 資料編No. |
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1582 | 天正10 | 7 | 羽柴秀吉が山城国の指出を命じ、山崎に築城する | |
1582 | 天正10 | 10 | 羽柴秀吉代官杉原家次が光明寺の寺領を安堵する | 光明寺16 |
1583 | 天正11 | 9 | 羽柴秀吉代官小野木重次が光明寺の寺領を安堵する | 光明寺19 |
1585 | 天正13 | 11 | 羽柴秀吉が神足内27石を向日神社に領知し、その後25石が勝竜寺内に変更される | 中世編213・214 |
1585 | 天正13 | 11 | 羽柴秀吉が神足内20石を大原野春日社に領知する(大原野神社文書) | 中世編213・214 |
1585 | 天正13 | 11 | 羽柴秀吉が馬場村内236石を天竜寺に領知する(天竜寺文書) | 中世編213・214 |
1586 | 天正14 | 4 | 羽柴秀吉が細川幽斎に、勝竜寺・神足など西岡内3000石を宛行う | 細川家28・29 |
1587 | 天正15 | 8 | 細川玉が洗礼を受け、ガラシャと名乗る | |
1589 | 天正17 | 11 | 調子庄の検地帳が作成される | 調子村1 |
1592 | 天正20 | 3 | 友岡村の指出帳が作成される(鞆岡達雄家文書) | |
1592 | 天正20 | 3 | 豊臣秀吉が朝鮮征討のため肥前名護屋に向かう(文禄の役) | |
1597 | 慶長2 | 1 | 豊臣秀吉が朝鮮再征を命ずる(慶長の役) | |
1600 | 慶長5 | 7 | 大坂城下細川邸でガラシャが自害する | |
1600 | 慶長5 | 7 | 八条宮智仁親王が細川幽斎から古今伝授をうける | |
1600 | 慶長5 | 9 | 関ヶ原の戦い | |
1601 | 慶長6 | - | 徳川家康が公家などへ領知を行う | |
1601 | 慶長6 | 8 | 粟生村の指出帳が作成される(粟生区有文書) | |
1601 | 慶長6 | 9 | 板倉勝重が京都所司代になる | |
1601 | 慶長6 | 10 | 正親町家が調子家に、調子村正親町家領の管理を依頼する | 調子家106 |
1603 | 慶長8 | 2 | 徳川家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く | |
1605 | 慶長10 | 9 | 板倉勝重が下海印寺村3ヵ寺に上竹赦免状を出す | 下海印1 |
1605 | 慶長10 | 9 | 板倉勝重が今里村法皇寺に上竹赦免状を出す(猪熊文書) | 下海印1 |
1605 | 慶長10 | 9 | 板倉勝重が今里村2ヵ寺に上竹赦免状を出す(今里区有文書) | 下海印1 |
1605 | 慶長10 | 12 | 板倉勝重が井ノ内村2ヵ寺に上竹赦免状を出す | 井ノ内2 |
1611 | 慶長16 | 4 | 光明寺と禅林寺が輪番に綸旨の取次ぎをする旨の裁許状が下され、両本山体制ができる | 光明寺24・25 |
1612 | 慶長17 | 3 | キリスト教が禁止される | |
1612 | 慶長17 | 6 | 板倉勝重が光明寺に禁制を出す | 光明寺26 |
1613 | 慶長18 | 6 | 光明寺など紫衣勅許寺院の法度が定められる | 光明寺27 |
1613 | 慶長18 | 9 | 板倉勝重が浄土谷村楊谷寺に禁制を出す | 浄土谷1 |
1613 | 慶長18 | 11 | 板倉勝重が柳谷の神足村請山について裁定を下す | 神足村1 |
1614 | 慶長19 | 4 | 楊谷寺本堂が建立され、棟札が作られる | 光明寺28 |
1614 | 慶長19 | 7 | 立願山楊谷寺縁起が写される(高松宮家伝来禁裏本) | |
1614 | 慶長19 | 10 | 大坂冬の陣 | |
1614 | 慶長19 | 10 | 板倉勝重が浄土谷村に禁制を出す | 浄土谷2 |
1614 | 慶長19 | 10 | 板倉勝重が今里村法皇寺に禁制を出す(猪熊文書) | |
1614 | 慶長19 | 10 | 板倉勝重が井ノ内村に禁制を出す | 井ノ内3 |
1615 | 慶長20 | 4 | 大坂夏の陣 | |
1615 | 元和1 | 7 | 武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度が定められる | |
1615 | 元和1 | 7 | 光明寺が無住のため西山派諸法度が禅林寺に下される | 光明寺29 |
1617 | 元和3 | 6 | 板倉勝重が今里村上ノ井手への井ノ内村の新儀妨害を裁許する | 今里村9 |
1617 | 元和3 | 9 | 徳川秀忠が公家衆・諸大名に領知の判物・朱印状を与える | |
1619 | 元和5 | 3 | 板倉勝重が開田村の八条宮家領栗林への立ち入りを禁ずる制札を出す(桂宮家文書) | |
1620 | 元和6 | 11 | 板倉重宗が京都所司代になる | |
1622 | 元和8 | 8 | 京都所司代板倉重宗が調子村へ定書を下す | 調子村2 |
1623 | 元和9 | 7 | 楊谷寺観音講規約が作られる | 楊谷寺1 |
1623 | 元和9 | 8 | 粟生・今里・井ノ内共同墓地に笠塔婆が造立される | 建築・美術編 |
(年未詳) | ─ | このころ天神山に開田天神が遷座する | 長岡天6 | |
1633 | 寛永10 | 3 | 永井直清に山城国長岡の勝竜寺など2万石が与えられる | |
1633 | 寛永10 | 4 | 永井直清入封のため勝龍寺城造作が始まるが、7月、水入り地のため城の北側に屋敷(神足館)を造ることが許可される | 永井家1~4 |
1634 | 寛永11 | 1 | 徳川家光の上洛に際して、村々に治安維持の触状が出される | 井ノ内4 |
1634 | 寛永11 | 7 | 徳川家光が上洛する | |
1635 | 寛永12 | 10 | 板倉重宗がキリシタン禁止のため南蛮起請文の雛型を達し、友岡村百姓らが南蛮起請文を提出する | 友岡村3・4 |
1636 | 寛永13 | 6 | 井ノ内・石見・今里三ヵ村の入会山、および井ノ内・今里両村の入会山の境界が、近郷村々の扱いで定められる | 井ノ内5・6 |
1636 | 寛永13 | 12 | 友岡村茶屋町への来住者について身元請状が出される | 友岡村5・6 |
1637 | 寛永14 | 5 | 板倉重宗が開田村の八条宮家領天神山および栗林・松林への立ち入りを禁ずる制札を出す(桂宮家文書) | |
1637 | 寛永14 | 9 | 開田の名寄帳が作成される(中小路忠雄家文書) | |
1637 | 寛永14 | 10 | 島原・天草の一揆がおこる | |
1638 | 寛永15 | 5 | 友岡村茶屋町への来住者について身元請状が出される | 友岡村7 |
1638 | 寛永15 | - | 開田天神境内の東にため池(八条ヶ池)が開かれる | 長岡天6 |
1639 | 寛永16 | 7 | 鎖国が完成する | |
1640 | 寛永17 | 7 | 今里村上ノ井手への井ノ内村の妨害が裁許される | 今里村9 |
1640 | 寛永17 | 10 | 調子家が瑞泉寺に屋敷地を寄進し、武清を出家させて開基とする | 調子家109 |
1641 | 寛永18 | 6 | 今里村上ノ井手について、井ノ内村からの訴えが退けられる | 今里村9 |
1642 | 寛永19 | 12 | 友岡村が村法度を定める | 友岡村8 |
1643 | 寛永20 | 3 | 田畑永代売買禁止令が出される | |
1643 | 正保1 | 12 | 国絵図・郷帳の作成が命じられる | |
1646 | 正保3 | 3 | 国絵図作成に際し、長法寺村は書上げを京都所司代に提出する | 長法寺2 |
1646 | 正保3 | 4 | ~5月に長講堂で、6月に御所で奉行所の見分を願い出、今里村が井ノ内村の訴えに反論する | 建築・美術編 |
(年未詳) | - | このころ、光明寺本堂(御影堂)が建立される | 建築・美術編 | |
1647 | 正保4 | 8 | 今井用水について、井ノ内村が奉行所の見分を願い出、今里村が井ノ内村の訴えに反論する | 今里村10・井ノ内8 |
1649 | 慶安2 | 2 | 慶安の御触書が出される | |
1649 | 慶安2 | 7 | 永井直清が高槻へ転封を命じられ、9月、入城する | 永井家33 |
1650 | 慶安3 | 8 | 友岡村が墓所・茶屋町の由来について奉行へ返答書を提出する | 友岡村10 |
1651 | 慶安4 | 1 | 金ヶ原地蔵院半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1651 | 慶安4 | 10 | 調子村正親町家領の名寄帳が作成される | 調子村3 |
1651 | 慶安4 | 11 | 光明寺に倍山俊意が入山する | 光明寺32 |
1653 | 承応2 | 8 | 光明寺喚鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1656 | 明暦2 | 1 | 開田村八条宮家領内の新田開発について取り決める | 開田村1 |
1656 | 明暦2 | 2 | 角宮神社に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1656 | 明暦2 | 8 | 光明寺の廟堂が建立される | 建築・美術編 |
1657 | 明暦3 | 5 | 光明寺梵鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1664 | 寛文4 | 10 | 楊谷寺梵鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1665 | 寛文5 | 7 | ~11月、徳川家綱が公家・寺社領に領知の判物・朱印状を与える | |
1665 | 寛文5 | 9 | 今里村役人が伏見宮家領や平尾山などについて書き上げる | 今里村11 |
1665 | 寛文5 | 10 | 長法寺村の小百姓が庄屋の年貢不正を訴える | 長法寺3 |
1668 | 寛文8 | 7 | 京都町奉行がおかれる | |
1669 | 寛文9 | 4 | 長法寺村が奥海印寺村による荒芝地押領をを訴え、11月、荒芝地を両村入組地とすることと裁許される | 長法寺4・6 |
1669 | 寛文9 | 8 | 長法寺村が村法度を定める | 長法寺5 |
1669 | 寛文9 | 9 | 小塩村鴫谷山の入会権を今里村など4ヵ村に認める裁許が下され、山論絵図が作成される | 今里村12 |
1671 | 寛文11 | 10 | 宗門人別改帳の作成が命じられる | |
1672 | 寛文12 | 4 | 井ノ内村庄屋が新田の用水の取り方について今里村に約束する | 今里村13 |
1672 | 寛文12 | 5 | 角宮神社に石灯籠が寄進される | |
1672 | 寛文12 | 6 | ~7月、山崎宿の助郷が西岡の村々に割り付けられ、1271疋の寄馬を出す(大山崎町史) | |
1675 | 延宝3 | 12 | 友岡村で宗門改帳が作成される | 友岡村12 |
1676 | 延宝4 | 6 | ~9月、開田天神の本社・末社が八条宮家によって造営される | 長岡天6 |
1677 | 延宝5 | - | 友岡村30石が光明寺領となる | 光明寺47 |
1679 | 延宝7 | 2 | 今里村・長法寺村などで上竹藪の場所が確定され、手引帳が作成される | 今里村16・長法寺8・9 |
1679 | 延宝7 | 3 | 勝竜寺墓地にお迎仏が造立される | 建築・美術編 |
1679 | 延宝7 | 6 | 友岡村・勝竜寺村など幕府領で検地が行われる(鞆岡達雄家文書・中山寛家文書) | |
1679 | 延宝7 | 8 | 奥海印寺墓地にお迎仏が造立される | 建築・美術編 |
1680 | 延宝8 | 5 | 奥海印寺村で新開畠に伴う井溝の埋立てをめぐり争論がおこる | 奥海印1 |
1681 | 延宝9 | 6 | 友岡村庄屋が、代官へ提出した判鑑帳・人別帳など村方支配の基本帳簿の手控えを作成する | 友岡村15~24 |
1681 | 延宝9 | 9 | 普明寺(大正寺)半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1684 | 貞享1 | - | 飛賀山の土砂留めが井ノ内・今里・粟生三ヵ村に命じられる(中山寛家文書) | |
1687 | 貞享4 | 9 | 井ノ内村旧地蔵院半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1687 | 貞享4 | 3 | 神足村が土砂留めを命じられ、柳谷請山に松苗を植える | 神足村1 |
1688 | 貞享5 | 7 | 浄土谷村が観音山をめぐり楊谷寺住持と争う | 浄土谷7 |
1688 | 貞享5 | 8 | 三尊寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1689 | 元禄2 | 5 | 八条宮家より祝詞師石原定近が開田天満宮に遣わされ、遷宮が行われる(桂宮日記) | 長岡天6 |
1690 | 元禄3 | 8 | 井ノ内・今里・粟生三ヵ村が砂留のため飛賀山を三つ分けする | 今里村17 |
1691 | 元禄4 | 3 | 開田天満宮境内に春日・八幡の小祠が建てられる | 長岡天6 |
1692 | 元禄5 | 12 | 旧浄光寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1692 | 元禄5 | 6 | ~8月、隆光が京都文殊院屋敷を乙訓寺の替え地として南禅寺に寄付し、乙訓寺の建立を願い出る | 乙訓寺27 |
1693 | 元禄6 | 7 | 浄土谷村が量空是海に楊谷寺境内地を寄付し支配を任せる | 楊谷寺2 |
1693 | 元禄6 | 11 | 金ヶ原村鎮守の棟札が作られる | |
1694 | 元禄7 | 1 | ~7月、乙訓寺へ桂昌院らから再興造営料が施入される | 乙訓寺28 |
1694 | 元禄7 | 3 | ~5月、楊谷寺が開帳を行う | 楊谷寺7 |
1694 | 元禄7 | 11 | 井ノ内村地蔵院仲間が村内諸行事饗応の次第を書き留める | 井ノ内9 |
1695 | 元禄8 | 5 | 21日、乙訓寺が竣工し、什宝目録が作成される | 乙訓寺1・2 |
1695 | 元禄8 | 8 | 柳谷楊谷寺門前で弥兵衛が茶屋営業をはじめる | 浄土谷8 |
1695 | 元禄8 | 10 | 京都町奉行松前嘉広が乙訓寺に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1696 | 元禄9 | 2 | 念仏講中が粟生・今里・井ノ内共同墓地に六地蔵を造立する | 建築・美術編 |
1696 | 元禄9 | 9 | 隆光大僧正が乙訓寺縁起を執筆する | 乙訓寺2 |
1696 | 元禄9 | 10 | 乙訓寺梵鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1696 | 元禄9 | 11 | 開田村年貢のうち50石が天満宮社用として下げ渡され、その配分が定められる(桂宮日記) | 長岡天6 |
1697 | 元禄10 | 4 | 国絵図の改訂・郷帳の提出が命じられる | |
1697 | 元禄10 | 11 | 山崎宿の助郷が西岡の村々に割り付けられる | 井ノ内10 |
1698 | 元禄11 | 1 | 国絵図作成に際し、長法寺村は書上げを京都代官に提出する | 長法寺15 |
1698 | 元禄11 | 3 | 下海印寺・金ヶ原両村百姓が、小倉神社領山が両村請作であることを申し立てる | 金ヶ原3 |
1698 | 元禄11 | 3 | 鷹司家領分井ノ内村の絵図が作成される | 井ノ内11 |
1698 | 元禄11 | 4 | ~9月、柳谷の神足村請山をめぐり、浄土谷村と争論がおこる | 神足村1 |
1698 | 元禄11 | 11 | 小畑川筋・柳谷川筋の土砂留場所の書上げ提出が命じられる | 長法寺16 |
1699 | 元禄12 | 1 | 鴫谷山絵図の本図を10年ずつ交互に保管するため、井ノ内村から今里村へ渡す | 井ノ内12 |
1699 | 元禄12 | 4 | 長法寺村と奥海印寺村が走田神社の屋根葺替の仕様書を作成する | 長法寺18 |
1699 | 元禄12 | 5 | 長法寺村と奥海印寺村が入組山管理のための掟を定める | 長法寺19 |
1699 | 元禄12 | 9 | 調子八角に丹波道・愛宕道を示す道標が造立される | 建築・美術編 |
1700 | 元禄13 | 3 | 長法寺村氏子中が走田神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1700 | 元禄13 | 9 | 春日神社に石鳥居が造立される | 建築・美術編 |
1701 | 元禄14 | 8 | 神足村と浄土谷村の山論が裁許される | 神足村1 |
1701 | 元禄14 | 12 | 浄土谷村が楊谷寺に薪山8ヵ所を寄進する | 楊谷寺4 |
1702 | 元禄15 | 2 | 菅原道真八百年遠忌に際し、開田天満宮で万灯会が行われる | 長岡天6 |
1702 | 元禄15 | 2 | 開田村宮仲間が天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1702 | 元禄15 | 12 | 友岡墓地に一石五輪塔が造立される | 建築・美術編 |
1704 | 元禄17 | 2 | 神足神社に石鳥居が寄進される | 建築・美術編 |
1704 | 元禄17 | 2 | 勝龍寺半鐘が鋳造される | |
1704 | 元禄17 | 2 | ~4月、井ノ内村年寄衆・村中が庄屋を訴える(石田政房家文書) | |
1704 | 宝永1 | 9 | 井ノ内村の証文類が、出役した領主の代官に差し出される | 井ノ内13 |
1704 | 宝永1 | 11 | 井ノ内村で徳物成帳が作成され、徳の経緯が記される(石田政房家文書) | |
1705 | 宝永2 | 9 | 護持院隆光が乙訓寺法度を定め、修法の定を下す | 乙訓寺3~8 |
1705 | 宝永2 | 9 | 乙訓寺に神足村・古市村の内100石が与えられ、12月、知行渡しが行われる | 乙訓寺3~8 |
1706 | 宝永3 | 12 | 神足村・古市村役人が、蔵入の時より高免の年貢納入を請け負い、京都代官より免定の覚が乙訓寺へ送られる | 乙訓寺13・14 |
1707 | 宝永4 | 8 | 金ヶ原・下海印寺共同墓地にお迎仏が造立される | 建築・美術編 |
1708 | 宝永5 | 2 | 石田七郎兵衛が角宮神社に石鳥居を寄進する | 建築・美術編 |
1708 | 宝永5 | 2 | 井ノ内村石田瀬兵衛・井内勘兵衛が光明寺に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1708 | 宝永5 | 2 | 井ノ内村石田瀬兵衛が赤根天神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1709 | 宝永6 | 3 | 徳川綱吉の法事で、乙訓寺が納経拝礼を行う | 乙訓寺15 |
1709 | 宝永6 | 4 | 妙見宮の神事をめぐり長法寺村社家と奥海印寺村年寄が争う | 長法寺24 |
1709 | 宝永6 | 10 | 勝竜寺墓地に前机が造立される | 建築・美術編 |
1710 | 宝永7 | 8 | 井ノ内村石田瀬兵衛が赤根天神社に石灯籠・石鳥居を寄進する | 建築・美術編 |
1710 | 宝永7 | 8 | 井ノ内村石田瀬兵衛が光明寺に石鳥居を寄進する | 建築・美術編 |
1710 | 宝永7 | 9 | 勝竜寺村が愛宕灯籠を造立する | 建築・美術編 |
1710 | 宝永7 | 12 | 領境の井堰をめぐる下海印寺村と奥海印寺村の水論が裁許される | 下海印6 |
1710 | 宝永7 | - | 観音寺還誉が神足・古市共同墓地に六字名号碑を造立する | 建築・美術編 |
1711 | 正徳1 | 5 | 石田瀬兵衛が角宮神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1711 | 正徳1 | 10 | 安楽寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1712 | 正徳2 | 7 | 浄土谷埋め墓にお迎仏が造立される | 建築・美術編 |
1713 | 正徳3 | 3 | 子守勝手神社に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1713 | 正徳3 | 5 | 楊谷寺に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1713 | 正徳3 | 6 | 子守勝手神社参道入口に石鳥居が建立される | 建築・美術編 |
1714 | 正徳4 | 10 | 長法寺村が大風による不作のため年貢免除を訴え出る | 長法寺26 |
1714 | 正徳4 | 11 | 浄土谷村が楊谷山を楊谷寺観音の薪山とする | 楊谷寺6 |
1716 | 正徳6 | 4 | 神足村と勝竜寺村が、樋爪村の新井路を潰して古井路に復するよう京都町奉行所へ訴える | 神足村2 |
1717 | 享保2 | 1 | 今里村下作百姓が村高持百姓中に詫状を出す(能勢久嗣家文書) | |
1717 | 享保2 | 8 | 光明寺の記録「雑記」が作成されはじめる | 光明寺40 |
1718 | 享保3 | 2 | ~4月、楊谷寺観音堂修理のため本尊・霊宝等の開帳を行う | 楊谷寺7~9 |
1718 | 享保3 | 7 | 久貝墓地に六地蔵石仏が造立される | 建築・美術編 |
1720 | 享保5 | 2 | 聖徳寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1721 | 享保6 | 3 | 享保4年の朝鮮人来朝の道中人馬費用を国役掛りとする触が出る | 神足村5 |
1721 | 享保6 | 10 | 常光寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1722 | 享保7 | 3 | 楊谷寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1723 | 享保8 | 7 | 京都町々屎小便の他国下しが禁止され、屎屋22軒・買子80人と定め、山城152ヵ村がくみ取りの責任区域を決める | 今里村21 |
1723 | 享保8 | 9 | 子守勝手神社社殿前に石鳥居が建立される | 建築・美術編 |
1724 | 享保9 | 6 | 山城152ヵ村が京都屎小便について約定書を作成する | 友岡村26 |
1726 | 享保11 | 2 | ~9月、今里村惣百姓が、村で慣例の「徳并見付」の廃止を庄屋へ申し付けてくれるよう領主に訴えようとする | 今里村22 |
1726 | 享保11 | 2 | 光明寺三万日廻向の間、境内に茶店を出すことの許可を求める | 光明寺42 |
1726 | 享保11 | 3 | 光明寺三万日廻向の間、井ノ内村が小畑川に土橋を架けて参詣人より橋銭を取る | 井ノ内14 |
1726 | 享保11 | 6 | 神足村・勝竜寺村と古市村の堤代銀をめぐる争論が和解する | 古市村2 |
1727 | 享保12 | 12 | 今井用水をめぐる井ノ内村と今里村との争論が和談する | 今里村23 |
1728 | 享保13 | 3 | ~5月、乙訓寺で本尊の開帳を行う | 乙訓寺18 |
1728 | 享保13 | 12 | 井ノ内村が飛賀山の持分の売買などを禁ずる | 井ノ内15 |
1731 | 享保16 | 7 | 聖徳寺に地蔵石仏が造立される | 建築・美術編 |
1732 | 享保17 | 7 | 乗願寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1734 | 享保19 | 3 | 開田村糀屋六右衛門が酒造株の借受を願い出る(桂宮日記) | |
1734 | 享保19 | 11 | 光明寺客殿より出火し、伽藍が焼失する | 光明寺44 |
1735 | 享保20 | 1 | 光明寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1736 | 享保21 | 3 | 友岡墓地に六字名号碑が造立される | 建築・美術編 |
1736 | 元文1 | 4 | ~6月、光明寺本殿再建のため江戸本所回向院で開帳を行う | 光明寺45 |
1737 | 元文2 | 3 | ~4月、光明寺本殿再建のため光明寺で開帳を行う。この間、井ノ内村が仮土橋を架けて橋銭を徴収することを願い出る(林三代次家文書) | 光明寺45 |
1738 | 元文3 | 6 | 井ノ内村氏子中が角宮神社に石灯籠を建立する | 建築・美術編 |
1738 | 元文3 | - | 夏の大雨で七ツ池の堤が切れる(桂宮日記) | |
1740 | 元文5 | 6 | 石田瀬兵衛が角宮神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1740 | 元文5 | 7 | 浄光寺に地蔵石仏が造立される | 建築・美術編 |
1741 | 寛保1 | 4 | 光明寺が高槻藩京屋敷より「円光大師石棺」を譲り受ける | 光明寺46 |
1746 | 延享3 | 2 | 光明寺の末寺帳が作成される | 光明寺48 |
1747 | 延享4 | 7 | 前年より調子村正親町家領内の調子家抱地をめぐる争論がおこり下作百姓らが吟味される | 調子家117~119 |
1748 | 延享5 | 3 | 朝鮮人来朝道筋の井路に組合九ヵ村で仮橋を架けるよう、水垂・大下津両村が願い出る | 勝竜寺1 |
1748 | 寛延1 | 8 | 長法寺村が今里村による草刈場押領を訴え出る | 長法寺31 |
1748 | 寛延1 | 9 | 円明寺村小泉新兵衛が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1749 | 寛延2 | 1 | 長法寺村と今里村が年貢山を折半することで和談する | 長法寺32 |
1751 | 寛延4 | 4 | 楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として修復される | 建築・美術編 |
1751 | 宝暦1 | 12 | 下海印寺子墓に地蔵石仏が造立される | 建築・美術編 |
1752 | 宝暦2 | 2 | 菅原道真八百五十年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる | 長岡天4 |
1752 | 宝暦2 | 2 | 山崎宿助郷について山崎宿と西岡村々との間で取り決める(大山崎町史) | |
1752 | 宝暦2 | 3 | 開田・今里共同墓地に六十六部供養碑が造立される | 建築・美術編 |
1752 | 宝暦2 | 4 | 光明寺御影堂(本堂)が上棟する | 建築・美術編 |
1753 | 宝暦3 | 10 | 長法寺村・奥海印寺村と今里村との平尾山争論が和談する | 長法寺34 |
1754 | 宝暦4 | 7 | 神足村六斎念仏講中が神足・古市共同墓地に棺台を造立する | 建築・美術編 |
1756 | 宝暦6 | 2 | 今里村に光明寺と善峰・柳谷を示す道標が造立される | 建築・美術編 |
1756 | 宝暦6 | 2 | 今里村の万里小路家領庄屋らが百姓と対立し、4月、和解する | 今里村27・28 |
1756 | 宝暦6 | 11 | 今里村の百姓らが村方の古例に合わない花山院領庄屋を訴える | 今里村29・30 |
1757 | 宝暦7 | 2 | 今里村の庄屋らが勤め方のよくない庄屋を排斥する惣百姓の訴えを支持し、3月、庄屋が引退する | 今里村31・32 |
1759 | 宝暦9 | 7 | 翌年の円光大師五百五十年遠忌のため、1人25銭の勧進を募る | 建築・美術編 |
1759 | 宝暦9 | 10 | 六斎講中が奥海印寺墓地に棺台を造立する | 建築・美術編 |
1760 | 宝暦10 | 3 | ~4月、乙訓寺で開帳を行う(乙訓寺文書) | |
1761 | 宝暦11 | 5 | 古市村と馬場村とが池床地について和解し、絵図を作成する | 馬場村2 |
1763 | 宝暦13 | 4 | 神足村微細絵図が作成される(長谷川太一家文書) | |
1763 | 宝暦13 | 4 | 上鳥羽村の住人が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1763 | 宝暦13 | 7 | 旧内裏常御殿の襖絵が光明寺に寄付される | 建築・美術編 |
1765 | 明和2 | 1 | 開田村の住人が京・伏見と総持寺・八幡を示す道標を造立する | 建築・美術編 |
1766 | 明和3 | 3 | 勝龍寺鐘楼が神足大工を棟梁として建立される | 建築・美術編 |
1766 | 明和3 | 6 | 今井用水をめぐる今里村と井ノ内村の争論が和解する | 今里村33 |
1767 | 明和4 | 3 | 光明寺殿鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1767 | 明和4 | 11 | 井ノ内村が博奕禁止・村方倹約などの法度を取り決める | 井ノ内16 |
1769 | 明和6 | 3 | 大藪村ほか13ヵ村惣代が要害堤の高さを唐街道と同じにすることを願い出る | 古市村4 |
1770 | 明和7 | 5 | 瀬田川の浚えについて、山城の川筋村々が川下からの浚えを願い出る(奥田信子家文書) | |
1770 | 明和7 | 8 | 井ノ内村が村内諸行事の倹約箇条を取り決める | 井ノ内17 |
1771 | 明和8 | 5 | 浄土谷村が仙洞御所へ楊梅・松茸の献上を再開するにあたり、御用札使用を許可される | 浄土谷9 |
1771 | 明和8 | 7 | 奥海印寺村が村追放などの取り決めをする | 奥海印2 |
1772 | 明和9 | 3 | 西国巡礼中の姉妹のうちの姉が長法寺村で病死する | 長法寺35 |
1773 | 安永2 | 7 | 西光寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1775 | 安永4 | 5 | 神足社中の扁額が奉納される | |
1776 | 安永5 | 11 | 神足神社に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1776 | 安永5 | 11 | 長岡天満宮の大修造が始まる(桂宮日記) | |
1776 | 安永5 | 12 | 井ノ内村が家出人の処分などについて取り決める | 井ノ内18 |
1777 | 安永6 | 3 | 走田神社に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1777 | 安永6 | 3 | 雅楽頭平儀重が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1777 | 安永6 | 6 | 井ノ内村が出奉公人に関する触状に請印をする | 井ノ内19 |
1777 | 安永6 | 8 | 井ノ内村が神座の維持運営について取り決める | 井ノ内20 |
1777 | 安永6 | 8 | 六斎講中が勝竜寺墓地に棺台を造立する | 建築・美術編 |
1777 | 安永6 | 10 | 久貝村西光寺住持が檀那中と不和になり、翌7年2月、本山光明寺より退院を申し付けられる | 光明寺55 |
1778 | 安永7 | 6 | 西岡下組大工仲間のなかに神足村の庄左衛門ら5人の名がみえる(向日市史) | |
1778 | 安永7 | 12 | 井ノ内村が村内の諸行事を五人組で協議するよう取り決める | 井ノ内21 |
1779 | 安永8 | 8 | 今里・井ノ内両村と粟生村との間で飛賀山をめぐる争論がおこる(今里区有文書) | |
1780 | 安永9 | 2 | 飛賀山争論で京都東町奉行の裁定が下り、絵図が作成される | 今里村34・35 |
1780 | 安永9 | 9 | 潤福寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1780 | 安永9 | 11 | 長岡天満宮に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1781 | 天明1 | 5 | 竹屋仲間の円明寺組に、調子・古市・開田・井ノ内各村の百姓の名がみえる(史料京都の歴史) | |
1781 | 天明1 | 8 | 六斎講中が開田・今里共同墓地に棺台を造立する | 建築・美術編 |
1781 | 天明1 | 8 | 中小路忠兵衛が開田・今里共同墓地に六字名号碑を寄進する | 建築・美術編 |
1781 | 天明1 | 9 | 中路喜六・中路儀右衛門が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1781 | 天明1 | ─ | 長岡天満宮の大修造がおおよそ終了する(桂宮日記) | |
1782 | 天明2 | 2 | 中小路忠兵衛らが長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1782 | 天明2 | 3 | ~4月、楊谷寺で本尊の開帳を行う | 楊谷寺16~18 |
1782 | 天明2 | 3 | 大坂万人講が楊谷寺に石灯籠を寄進し、柳谷への道標を造立する | 建築・美術編 |
1782 | 天明2 | 12 | 井ノ内村が五人組の過料について取り決める | 井ノ内22 |
1782 | 天明2 | - | この年より天明の飢饉が始まる | |
1783 | 天明3 | 2 | 桂材木仲間が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1783 | 天明3 | 3 | 桂船荷揚場役方が長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1783 | 天明3 | 4 | 井ノ内村に髪結を召し抱えるについての請状が出される(林三代次家文書) | |
1783 | 天明3 | 8 | 山城・摂津・河内の村々代表が淀川の浚えを願い出る(奥田信子家文書) | |
1783 | 天明3 | 10 | 調子家が調子村に対し、10月末まで米の売却を禁止する触を出す | 調子村7 |
1784 | 天明4 | 3 | 井ノ内村が田畑譲り替えの方法について取り決める | 井ノ内23 |
1785 | 天明5 | 3 | 小堀代官所が乙訓郡の村々に飢饉の備えを申し渡す(津田家文書) | |
1786 | 天明6 | 10 | 長法寺村が衛門内侍局に銀を融通するため平野屋から借銀する | 長法寺36 |
1787 | 天明7 | 5 | 飢饉により米価騰貴し、大坂・江戸で打ちこわしがおこる | |
1787 | 天明7 | 6 | 松平定信が老中となり、諸改革を始める(寛政の改革) | |
1787 | 天明7 | 6 | 京都で御所お千度参りが始まる(大島家日記) | |
1788 | 天明8 | 1 | 京都大火 | |
1788 | 天明8 | 4 | 京都大火に際し光明寺・禅林寺両山が類焼の末寺へ見舞金を下す | 光明寺56 |
1788 | 天明8 | 5 | 京都大火のため、山城の村々が京都町々屎尿の他国への積み下し禁止を願い出、摂河州37ヵ村と争論になる | 今里村36 |
1788 | 天明8 | 11 | 京都東町奉行より、京都屎尿の摂河州への一部移出を認める仲裁案が仰せ渡される | 今里村36 |
1788 | 天明8 | 12 | 神足村堺屋六郎兵衛が酒造株の営業状況を実相院門跡に届け出る(実相院文書) | |
1789 | 寛政1 | 6 | 井ノ内村が博奕禁止の触状に対し請印をする | 井ノ内24 |
1789 | 寛政1 | 7 | 長法寺村番人が村の墓地へ妻の埋葬が許可され感謝する | 長法寺38 |
1790 | 寛政2 | 12 | 長岡の今堀弥吉が長岡天満宮に算額を奉納する | 建築・美術編 |
1791 | 寛政3 | 1 | 馬場村領内樋普請について古市村より口上書が提出される | 古市村5 |
1791 | 寛政3 | 3 | 乗願寺本堂が上棟する | 建築・美術編 |
1791 | 寛政3 | 10 | 井ノ内村が村内諸行事の倹約を取り決める | 井ノ内25 |
1792 | 寛政4 | 4 | 光格天皇より光明寺へ御祈願の綸旨が出される | 光明寺58 |
1792 | 寛政4 | 2 | 今里村百姓が庄屋七人の勝手我儘を京都東町奉行に訴える | 今里村37 |
1793 | 寛政5 | 12 | 今里村の村役人と百姓たちとの紛争について和解が成立する | 今里村38・39 |
1797 | 寛政9 | 5 | 大津米荷物会所より通い札がおくられる | 井ノ内26 |
1798 | 寛政10 | - | 粟生・今里・井ノ内共同墓地に棺台が造立される | 建築・美術編 |
1799 | 寛政11 | 3 | 楊谷寺で御所献上物の一覧が作成される | 楊谷寺20 |
1799 | 寛政11 | 4 | 光明寺阿弥陀堂が上棟する | 建築・美術編 |
1800 | 寛政12 | 2 | 楊谷寺住持と浄土谷村役人・講中惣代が楊谷寺永代定式を定める | 楊谷寺21 |
1801 | 享和1 | 5 | 調子村と友岡村との境界をめぐる争論が起こる(調子八郎家文書) | |
1801 | 享和1 | - | 西国街道に愛宕・山崎・淀を示す道標が造立される | 建築・美術編 |
1802 | 享和2 | 1 | 調子八角に長岡天神への道標が造立される | 建築・美術編 |
1802 | 享和2 | 2 | 菅原道真九百年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる | 長岡天4 |
1802 | 享和2 | 3 | 井ノ内村が村内諸行事の出銭を取り決める | 井ノ内27 |
1803 | 享和3 | 2 | 井ノ内村が博奕禁止について取り決める | 井ノ内28 |
1803 | 享和3 | 2 | 長岡天満宮の奉射が再興される(桂宮日記) | |
1804 | 文化1 | 8 | 洪水で流された向日川筋の土橋の再架を願い出る | 馬場村3 |
1805 | 文化2 | 2 | 久貝墓地に村中が棺台を造立する | 建築・美術編 |
1805 | 文化2 | 2 | 寺社改めに際し、角宮をめぐり井ノ内村の宮年寄と向日神社神主六人部氏との争論がおこる(石田政房家文書) | |
1805 | 文化2 | 3 | 飛賀山内に今里村の用水池を造る | 今里村40 |
1805 | 文化2 | 11 | 今里村と馬場村が村境の悪水抜落口の争論について和解す | 今里村41 |
1806 | 文化3 | 2 | 長法寺村が疳症の病人を預かる | 長法寺39 |
1806 | 文化3 | 7 | 儒医の宇田貞蔵が神足村に移り住む(古義堂文庫) | |
1806 | 文化3 | - | 石田瀬兵衛と新経尼の宝篋印塔が造立される | 建築・美術編 |
1807 | 文化4 | 2 | 勝竜寺村小百姓らが庄屋の排斥を申し合わせ傘連判状を作成する | 勝竜寺3 |
1807 | 文化4 | 3 | ~12月、調子村で正親町家領庄屋に対する村方騒動が起こる(調子八郎家文書) | |
1808 | 文化5 | 7 | 神足社中の扁額が奉納される | |
1810 | 文化7 | 12 | 奥海印寺村が振舞等の取り決めをする | 奥海印3 |
1811 | 文化8 | 2 | 丹波荷物の運送をめぐり西岡馬持と淀宿馬持との争論が起こる | 長法寺48 |
1812 | 文化9 | 9 | 長法寺村・奥海印寺村が両村土砂留山の管理を仕来たり通り行うことの許可を願い出る | 長法寺40 |
1813 | 文化10 | 12 | 高瀬川屎船賃の増銭について取り決める | 今里村42 |
1814 | 文化11 | 1 | 京都千眼講中が楊谷寺に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1814 | 文化11 | 2 | 西岡馬仲間が丹波荷物の運送をめぐる訴訟の返答書を提出する | 長法寺41 |
1814 | 文化11 | 4 | 下植野村神木浜の問屋と西岡馬持が荷物運送の訴訟について和談する | 長法寺42 |
1814 | 文化11 | 7 | 馬場村弥右衛門が四国八十八ヵ所巡礼に出る | 馬場村4 |
1815 | 文化12 | 3 | 馬場村が用水について今里村へ掛け合う | 馬場村5 |
1816 | 文化13 | 3 | 大坂茶所講中が楊谷寺に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1816 | 文化13 | 4 | 御用瓦師仲間が取り決めをする | 奥海印4 |
1817 | 文化14 | 11 | 井ノ内村甚兵衛が竹屋仲間の印札を譲り受ける | 井ノ内29 |
1818 | 文政1 | 6 | 今里村の渋谷丹治が寺子屋(雷落庵)を開く(今里区有文書) | |
1819 | 文政2 | 4 | 瓦師仲間四組が瓦売場所について村分けをする | 奥海印5 |
1819 | 文政2 | 5 | 井ノ内村が竹の子盗人の処罰を村方で内済する | 井ノ内30 |
1821 | 文政4 | 2 | 乙訓郡村々が角倉役所へ惣代の交替を届け出る | 今里村43 |
1821 | 文政4 | 3 | 高瀬川積下し屎船の船賃を定める | 今里村44 |
1822 | 文政5 | 2 | 平野栄山講が楊谷寺に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1823 | 文政6 | 5 | 古市村助右衛門家で竹の子仕切控帳が作成される(奥沢康正氏収蔵文書) | |
1823 | 文政6 | 8 | 長法寺墓地に棺台が造立される | 建築・美術編 |
1823 | 文政6 | - | 大干ばつのため,光明寺境内に防災用のため池を造り手桶を置く | 光明寺64 |
1824 | 文政7 | 3 | 開田村黒池の傍らの友岡村領に、ため池を造ることが認められる(桂宮日記) | |
1824 | 文政7 | 8 | 楊谷寺茶所が神足大工を棟梁として建立される | 建築・美術編 |
1825 | 文政8 | 5 | 「向日里人物志」が作られ、岡本宣顕・宣盛、中小路宗房・宗孝らが記載される(鳥羽屋文書) | |
1825 | 文政8 | 8 | 今里・馬場・古市の悪水落方についての和解趣意書が示される | 今里村45 |
1825 | 文政8 | - | 走田神社の社殿が再建される(佐藤年秀家文書) | |
1826 | 文政9 | 2 | 今出川家が井ノ内村など7ヵ村に御用銀を課す(石田政房家文書) | |
1826 | 文政9 | 6 | 馬場村領内の今里村新規伏樋を取払うよう組合9ヵ村が願い出る | 古市村8 |
1827 | 文政10 | 2 | 伏見宮家領百姓らが、伏見宮家が十一屋への返済滞銀を支払うよう奉行所に訴える | 今里村46・47 |
1827 | 文政10 | 4 | 長法寺村の忠次郎ら8人が西国巡拝に出る | 長法寺43 |
1828 | 文政11 | 9 | 寂照院が光明寺・伏見・柳谷を示す道標を造立する | 建築・美術編 |
1830 | 文政13 | 1 | 井ノ内村が共有山林の保全について条目を定める | 井ノ内31 |
1830 | 文政13 | 2 | 勝竜寺村が久貝村の了解を得て犬川の井路を延ばす | 勝竜寺5 |
1830 | 文政13 | 3 | 阿波国から御蔭参りがおこり、向日町や開田村からも参宮に出る(鳥羽屋文書) | |
1830 | 文政13 | 7 | 京都大地震 | |
1830 | 文政13 | 11 | 長法寺村の宇田秀輔が村雲御所に出仕する(高橋淳夫家文書) | |
1830 | 文政13 | 12 | 子守勝手神社本殿が上棟する | 建築・美術編 |
西暦 | 年号 | 月 | 事項 | 資料編No. |
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1831 | 天保2 | 11 | 郷帳の提出が命じられる | |
1831 | 天保2 | 11 | 勝竜寺村と久貝村とが井手堀浚や通船について合意する | 勝竜寺6・7 |
1832 | 天保3 | 10 | 勝竜寺村船持らが屎浜普請を行い屎船を新造する | 今里村48 |
1833 | 天保4 | 12 | 古市村で隣家百姓の追放を免除するよう詫状が出される | 古市村9 |
1835 | 天保6 | 12 | 国絵図の作成が命じられる | |
1835 | 天保6 | 12 | 今里村が悪水抜の伏樋について組合9ヵ村へ一札を出す | 古市村10 |
1836 | 天保7 | 3 | 井ノ内村で月参講が結成され、定宿より請印を取る | 井ノ内32 |
1836 | 天保7 | 4 | 樋口八郎右衛門が赤根天神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1837 | 天保8 | 2 | 大塩平八郎の乱がおこる | |
1838 | 天保9 | - | 神足村の松橋周延が寺子屋(長松観)を開く(日本教育史資料) | |
1839 | 天保10 | 1 | 神足社中の扁額が奉納される | |
1839 | 天保10 | 3 | ~4月、京都市中で蝶々踊りが流行する(大島家日記) | |
1839 | 天保10 | - | 金ヶ原・下海印寺共同墓地に棺台が造立される | 建築・美術編 |
1840 | 天保11 | 4 | 神足村実相院領庄屋が退役後改名し名目銀貸付所を開設することについて、村方一統が難色を示す(実相院文書) | |
1840 | 天保11 | 9 | 井ノ内村で若連中の条目が定められる | 井ノ内33 |
1841 | 天保12 | 1 | 神木浜問屋に各村が納める浜銭が、小田子1荷1文増になる | 開田村2 |
1841 | 天保12 | 5 | 天保の改革が始まり、12月、株仲間解散令が出る | |
1841 | 天保12 | 12 | 神足村実相院領庄屋をめぐる騒動が内済される(岡本宣之家文書) | |
1841 | 天保12 | 12 | 走田神社に石灯籠が寄進される | 建築・美術編 |
1841 | 天保12 | 12 | 井ノ内村で株中の役介高となった絶家の田地・家屋敷等をもらい請け、隠居分家分としてもらいうける | 井ノ内34 |
1841 | 天保12 | - | 奥海印寺村に京道・柳谷を示す道標が造立される | 建築・美術編 |
1842 | 天保13 | 3 | 京大仏明暗寺院代より古市村へ虚無僧取締りの覚書が出される(古市区有文書) | |
1842 | 天保13 | 5 | 調子村で倹約令15カ条に請印する(鷹野武雄家文書) | |
1842 | 天保13 | 6 | 西岡郷中で孟宗藪に下肥を入れることの禁止を申し合わせる(大島家日記) | |
1842 | 天保13 | 8 | 井ノ内村が小畑川筋堤防修復のため各領主に入用銀を願い出る | 井ノ内35 |
1842 | 天保13 | 9 | 下海印寺村が領主伏見宮家への上納飯米搗立のため、水車小屋の設置を奉行所へ願い出る | 下海印7 |
1842 | 天保13 | 11 | 琉球人来朝参府に際して神足村などが縄引人足を出す | 勝竜寺8 |
1842 | 天保13 | 12 | 御用瓦師仲間へ下職人の取締りについて仰せ渡される | 奥海印6 |
1843 | 天保14 | 1 | 琉球人帰国に際して淀川沿岸村々が縄引人足を出す | 勝竜寺8 |
1843 | 天保14 | 2 | 井ノ内村甚兵衛が株仲間解散後の竹商売の継続を届け出る | 井ノ内36 |
1844 | 天保15 | 2 | 西向寺半鐘が鋳造される | 建築・美術編 |
1844 | 天保15 | 12 | 開田村勘兵衛らが天満宮境内で寒天製作を試みる(桂宮日記) | |
(年未詳) | - | このころ井ノ内村要助が聖天尊をまつり村中長久安全を祈念する | 井ノ内37 | |
1845 | 弘化2 | 1 | 長岡天満宮境内の長岡役所が焼失する | 長岡天5 |
1845 | 弘化2 | 9 | 勘兵衛らが寒天製作につき村方に迷惑をかけないことを約束する | 開田村3 |
1846 | 弘化3 | 12 | 瓦師惣左衛門が瓦職印札・建物一式を長兵衛へ譲り渡す | 奥海印7 |
1846 | 弘化3 | - | 秋、大川講が天神池東に役行者像を建立する | 建築・美術編 |
1847 | 弘化4 | 2 | 長兵衛が太鼓山に瓦師職場を建てるにつき、開田村用水池に障りのないことを約束する | 開田村4 |
1847 | 弘化4 | 3 | 能勢理左衛門が赤根天神社に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1847 | 弘化4 | 5 | 京千眼講が柳谷道への道標を造立する | 建築・美術編 |
1847 | 弘化4 | 5 | 長法寺村から今里村への出作百姓が領主に出作地を返上する | 長法寺46・47 |
1847 | 弘化4 | 8 | 神足村実相院領絵図が作成される | 乙訓寺24 |
1847 | 弘化4 | 9 | 楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として再興される | 建築・美術編 |
1848 | 弘化5 | 3 | 乙訓郡16ヵ村惣代が高瀬船仲間と屎荷代銀集め方を取り決める | 勝竜寺9 |
1848 | 嘉永1 | 6 | 勝竜寺村役人が小畑川尺ケ内堤決壊を高槻土砂奉行に届ける | 勝竜寺10 |
1848 | 嘉永1 | 12 | 神足村実相院領内の争論を神足掃部・宇田元吉が仲裁する(実相院文書) | |
1849 | 嘉永2 | 3 | 今里村が上里・石見両村の開発により今井用水に土砂が流れ込むことへの対策を訴え、7月、双方が和解する | 今里村51・52 |
1849 | 嘉永2 | 11 | 今里村が用水不足を補うため光明寺裏山にため池を造る | 今里村53 |
1849 | 嘉永2 | 12 | 粟生村がふろそ谷流水を今里村用水ため池に回すことを認める | 今里村54 |
1849 | 嘉永2 | 12 | 淀宿馬持が丹波路荷物の付送りにについて西岡馬持を訴える | 長法寺48 |
1851 | 嘉永4 | 3 | 株仲間再興令が出る | |
1851 | 嘉永4 | - | 春、石田市左衛門が角宮神社に狛犬を建立する | 建築・美術編 |
1851 | 嘉永4 | 4 | 角宮神社本殿・春日神社本殿が造営される | 建築・美術編 |
1851 | 嘉永4 | 5 | 開田村孫兵衛が四ツ成芝に用水池を造ることを願い出る | 開田村5 |
1851 | 嘉永4 | 11 | 風間八左衛門らが長岡天満宮に石灯籠を寄進する | 建築・美術編 |
1851 | 嘉永4 | - | 柳谷への道標が造立される | 建築・美術編 |
1851 | 嘉永4 | - | 長法寺村庄屋が村内の困窮者に施行米を与える(高橋淳夫家文書) | |
1852 | 嘉永5 | 1 | 調子村に正親町家より倹約触が達せられる(鷹野武雄家文書) | |
1852 | 嘉永5 | 2 | 菅原道真九百五十年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる(桂宮日記) | |
1852 | 嘉永5 | 4 | 調子下野守が山崎観音寺出作地一件について取調べを願い出る | 調子村12 |
1853 | 嘉永6 | 1 | ~2月、古市・神足・勝竜寺など組合村々が水垂村・大下津村内の前年流失した悪水抜門樋を伏せ直す | 勝竜寺11 |
1853 | 嘉永6 | 6 | ペリーが浦賀に来航する | |
1853 | 嘉永6 | 12 | 長法寺村が旱損のため年貢の免除を願い出る | 長法寺49 |
1853 | 嘉永6 | 12 | 寄宿仲間名前帳に粟生村丹波屋・中村屋、浄土谷村木屋・玉屋、長法寺村酒屋の名が記される(向日市史) | |
1854 | 嘉永7 | 3 | 日米和親条約が締結される | |
1854 | 嘉永7 | 4 | 京都大火、禁裏が炎上し桂宮家が仮御所となる | |
1854 | 嘉永7 | 6 | 15~23日、京都が大地震で揺れ続く(大島家日記) | |
1854 | 嘉永7 | 7 | 調子家と正親町家との間で百姓分けの取り決めがなされ、8人の百姓が正親町家領の八角に移り住む(正親町家役所日記) | 調子家125 |
1855 | 安政2 | 2 | 桂宮家が三本木奥田屋で長岡講を催す(桂宮日記) | |
1855 | 安政2 | 3 | 京御掃除講が楊谷寺参道の起点に石灯籠を建立する | 建築・美術編 |
1856 | 安政3 | 1 | 長法寺村の村掟と若連中定書が定められる | 長法寺50・61 |
1856 | 安政3 | 7 | 勝竜寺村百姓が、屎小便通船に際し用水に差し支えないようにすることを久貝村に約束する | 勝竜寺12 |
1857 | 安政4 | 3 | 小倉神社御旅所に石鳥居が建立される | 建築・美術編 |
1858 | 安政5 | 3 | 大阪月参講京橋組が楊谷寺に狛犬を寄進する | 建築・美術編 |
1858 | 安政5 | 3 | 長法寺村百姓らが下鴨神社競馬講銀として梨木家に銀を融通する | 長法寺51 |
1858 | 安政5 | 4 | 井伊直弼が大老に就任し、6月、日米修好通商条約に調印する | |
1858 | 安政5 | 8 | 京竹屋仲間に入株した竹屋が、不正路の商いによって村方より鎌留め処分をうけ詫状を出す | 今里村55 |
1858 | 安政5 | 11 | 井ノ内村の石田帯刀が四条家に出仕する(石田政房家文書) | |
1859 | 安政6 | 2 | 大坂青物市場の問屋仲間が西岡村々に竹の子の出荷を増やすよう依頼する | 開田村7 |
1859 | 安政6 | 7 | 乙訓寺が実相院門跡より領地絵図を借用し寺領の取調べを始める | 乙訓寺23 |
(年未詳) | - | このころ、乙訓寺が神足村実相領絵図を写し取り、乙訓寺領絵図を作成する | 乙訓寺24~26 | |
1860 | 安政7 | 3 | 上羽村の上羽心正堂の筆子が記される(佐藤久夫家文書) | |
1860 | 万延1 | 7 | 開田村と今里村が平尾用水ため池樋戸口の抜き方を取り決める | 開田村9 |
1860 | 万延1 | 8 | 西岡郷において勧化や配札などの廻村人の取締りを定める | 長法寺53 |
1860 | 万延1 | 12 | 井ノ内村が村内諸行事の倹約を取り決める | 井ノ内38 |
1861 | 文久1 | 4 | 中山家家司の田中河内介追放の達書が井ノ内村に届く | 井ノ内39 |
1861 | 文久1 | 7 | 乙訓寺が神足村内の寺領調査にかかった費用の借用を本山に願い出る | 乙訓寺23 |
1861 | 文久1 | 10 | 和宮が将軍家茂に降嫁し、江戸へ下向する | |
1861 | 文久1 | 10 | 和宮降嫁時の行列に山城国中から人足が動員され、古市村からは幡持ちや提灯持ちなど29人が勤める(奥沢康正氏収蔵文書) | |
1862 | 文久2 | 4 | 寺田屋事件で田中河内介が捕縛される | |
1862 | 文久2 | 5 | 御局会所と梨木家とが長法寺村の出入作訴訟について協議する | 長法寺54 |
1862 | 文久2 | 7 | 京都守護職の設置が決定され、12月、松平容保が着任する | |
1862 | 文久2 | 11 | 長法寺村内の梨木家領百姓と局領百姓との出入作訴訟が和解する | 長法寺55 |
1863 | 文久3 | 3 | 将軍家茂が上洛し、攘夷祈願の行幸に供奉する | |
1863 | 文久3 | 7 | 将軍上洛にかかわる幕府献納米のうち30俵を調子家が拝領する | 調子家123 |
1863 | 文久3 | 8 | 公武合体派のクーデターにより三条実美・四条隆謌ら7卿が長州へ下る(八月十八日の政変) | |
1864 | 元治1 | 3 | 伏見宮家役所が浪士取締りについての高札を下す | 下海印9 |
1864 | 元治1 | 5 | 光明寺山主が1月に再上洛した将軍家茂に二条城でお目見えする | 光明寺65 |
1864 | 元治1 | 6 | 長州藩兵が上洛、29日、野唯人が光明寺を陣所に借り受けに来る | 光明寺66 |
1864 | 元治1 | 7 | 3日、100人余りの長州兵が光明寺に進駐し方丈本堂を宿所として警固、8日、撤収する | 光明寺66・勝竜寺13 |
1864 | 元治1 | 7 | 上旬、城州・河州の守護職役知村々が、6月24日以来の過分の御用人足による疲弊を訴え、免除を嘆願する | 光明寺66・勝竜寺13 |
1864 | 元治1 | 7 | 19日、長州藩兵が御所諸門で幕府軍と交戦し敗退する(禁門の変) | 光明寺66・勝竜寺13 |
1864 | 元治1 | 7 | 21日、幕府軍が山崎に進攻して放火、光明寺の本尊や什物を避難させ、僧侶らが山奥で野宿する | 光明寺66・勝竜寺13 |
1864 | 元治1 | 7 | 幕府が第1次長州征伐を命じ、11月、長州藩が降伏する | 光明寺66・勝竜寺13 |
1864 | 元治1 | 8 | 西岡64ヵ村が花相撲などの興行の合力助成は村限りにすることを定める | 開田村11 |
1864 | 元治1 | 10 | 友岡村が、過分の人足がまかないきれないとして、淀宿助郷の休役を局役人に願い出る(鞆岡達雄家文書) | |
1865 | 元治2 | 1 | 山崎宿が、前年の焼失により人馬継立ができないとして近郷村々の助人馬を願い出る(向日市史) | |
1865 | 慶応1 | 5 | 千眼講が柳谷道に石灯籠を建立する | 建築・美術編 |
1865 | 慶応1 | 5 | 将軍家茂が3度目の上洛をし、長州再征を奏上する | |
1865 | 慶応1 | 8 | 井ノ内村で村方文書を改め目録を作成する(石田政房家文書・森本芳博家文書) | |
1865 | 慶応1 | 12 | 調子尚武が左近衛将曹に任じられる | 調子家124 |
1866 | 慶応2 | 8 | 家茂の死去により、第2次長州征伐を休止する | |
1866 | 慶応2 | 9 | 井ノ内村が、5月・8月と続いた水損のため救米を願い出る | 井ノ内40 |
1867 | 慶応3 | 6 | 神足村庄左衛門に西岡下組大工鑑札が与えられる(岩岸忍家蔵) | |
1867 | 慶応3 | 6 | 調子家が瑞泉寺の管理を山崎観音寺にゆだねる | 調子家123 |
1867 | 慶応3 | 10 | 開田村権三郎が桂宮家より長岡御調達金の内50両を拝借する | 開田村12 |
1867 | 慶応3 | 10 | 13日、中山忠能が井ノ内村など家領3ヵ村の村役人に、非常人足について申し渡す(中山忠能日記) | |
1867 | 慶応3 | 10 | 14日、薩長両藩に倒幕の密勅、将軍慶喜が大政奉還を上奏 | |
1867 | 慶応3 | 12 | 8日、中山家から井ノ内村に、翌日の非常人足18人が課せられる | 井ノ内41 |
1867 | 慶応3 | 12 | 9日、王政復古の大号令、小御所会議 | 井ノ内41 |
1867 | 慶応3 | 12 | 9日、長州藩兵が上洛し、光明寺に着陣する(復古記) | 井ノ内41 |
1867 | 慶応3 | 12 | 9日、京都町奉行所を廃止、13日、京都市中取締役所を設置する | 井ノ内41 |
1867 | 慶応3 | 12 | 末ごろ、四条隆謌ら5卿に帰京を命じられ、石田帯刀が大坂まで出迎える(石田政房家文書) | 井ノ内41 |
1868 | 慶応4 | 1 | 3~4日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争はじまる) | 井ノ内42~44 |
1868 | 慶応4 | 1 | 6日、幕府軍が敗退、石田帯刀が天王山で戦況の見分をする(石田政房家文書) | 井ノ内42~44 |
1868 | 慶応4 | 1 | 20日、石田帯刀が北陸征討に従軍し、京都を出発する(石田政房家文書) | 井ノ内42~44 |
1868 | 慶応4 | 1 | 中山家領3ヶ村が申し合わせ、家司大口大和守の非常人足に対する無理非道な使い方を訴える | 井ノ内42~44 |
1868 | 慶応4 | 3 | 3日、京都市中取締役所を京都裁判所と改称する | |
1868 | 慶応4 | 3 | 4日、御親征につき宮堂上方家領にも助郷役が課される | 井ノ内45 |
1868 | 慶応4 | 3 | 21日、天皇の大坂行幸に際し、調子氏が近衛府随身として供奉する | 調子家123 |
1868 | 慶応4 | 3 | 井ノ内村が中山家を通じて山崎宿駅助郷人足の免除を願い出る | 井ノ内46 |
1868 | 慶応4 | 4 | 江戸城開城 | |
1868 | 慶応4 | 4 | 井ノ内村の竹屋が、京都裁判所への御用竹の不足分を北摂から買い求め、材木会所を経ず直接調進することを願い出る | 井ノ内47 |
1868 | 慶応4 | 4 | 29日、京都裁判所を京都府庁と改称する | |
1868 | 慶応4 | 5 | 強雨により小畑川・坂川・風呂川が決壊し、今谷池の堤が切れる | 今里村60 |
1868 | 慶応4 | 6 | 山城国内小堀数馬預地が京都府管轄になる | |
1868 | 慶応4 | 7 | 江戸を東京と改める | |
1868 | 慶応4 | 7 | 石田帯刀が越後府執事に任じられる(石田政房家文書) | |
1868 | 慶応4 | 8 | 西岡64ヵ村が花相撲など興行の合力助成は村限りにすることを定める(開田区有文書・高橋淳夫家文書) | |
1868 | 慶応4 | 9 | 明治と改元する | |
1868 | 明治元 | 10 | 京都府が各町村に戸籍の作成を命じる | |
1868 | 明治元 | 11 | 山城8郷に会所代がおかれる(乙訓郡は向日町) | |
1868 | 明治元 | 12 | 奥海印寺村瓦師長兵衛が上植野村での瓦製造の許可を申請する | 奥海印11 |
1868 | 明治元 | 12 | 今谷池堤切れ被害に対する補償と再築について今里村と粟生村の和談が成立し、京都府が今谷池堤切れ被害に対する争論について裁許状を出す | 今里村61・粟生村3 |
1869 | 明治2 | 1 | 公家領・寺社領などの租税が京都府管轄になる | |
1869 | 明治2 | 1 | 庄屋は1村1人とし、従来の地頭庄屋は収納取立役と改称される | |
1869 | 明治2 | 3 | 7日、天皇が東京に向かい、28日、東京着(東京遷都) | |
1869 | 明治2 | 3 | 京都府が郡中制法・村庄屋心得条目などを制定する | |
1869 | 明治2 | 3 | 光明寺末寺53ヵ寺が、キリスト教の拒絶を仰せ付けてくれるよう嘆願する | 光明寺67 |
1869 | 明治2 | 5 | 18日、函館の榎本武揚らが降伏し、戊辰戦争が終わる | |
1869 | 明治2 | 6 | 17日、版籍奉還、公卿・諸侯を華族と改称する | |
1869 | 明治2 | 7 | 調子氏が左近衛将曹を廃され、京都府貫属士族となる(士族明細短冊) | |
1869 | 明治2 | 8 | カラ池(今谷池)を「議諚池」と名付け、今里・粟生両村で管理することを取り決める | 粟生村4 |
1869 | 明治2 | 8 | 井ノ内村が新政府の命令をうけ村内諸事の倹約を申し合わせる | 井ノ内50 |
1869 | 明治2 | 9 | 今里村で血判盟約書が作られる(樋口哲也家文書) | |
1870 | 明治3 | 3 | 井ノ内村伏原家領百姓が凶作のため植付け飯米の下行を願い出る | 井ノ内51 |
1870 | 明治3 | 10 | 光明寺が勤王献金や廃仏毀釈による疲弊のため、末寺から補助を募る | 光明寺68 |
1870 | 明治3 | 10 | 山城8郡に大庄屋がおかれる(乙訓郡は神足村岡本三郎兵衛) | |
1871 | 明治4 | 1 | 長岡天満宮の社司両人・宮仲間一統が天満宮の存続を願い出る | 長岡天7 |
1871 | 明治4 | 1 | 瓦師長兵衛の前々年の瓦製造枚数が京都府に報告される | 奥海印14 |
1871 | 明治4 | 2 | 会所代を出張庁と改称する | |
1871 | 明治4 | 2 | 山城国内の宮・華族家領上知が命じられる | |
1871 | 明治4 | 4 | 戸籍法が定められる | |
1871 | 明治4 | 5 | 今里村が京都府に社倉の設立を願い出る | 乙訓村2 |
1871 | 明治4 | 6 | 各村で村鑑明細帳が作成され、京都府に提出される | 今里村62・長法寺63・井ノ内52 |
1871 | 明治4 | 7 | 廃藩置県 | |
1871 | 明治4 | 7 | 出張庁を合併し、乙訓郡・紀伊郡を管轄する向日町支庁がおかれる | |
1871 | 明治4 | 10 | 京都府が社倉規則を布告する | |
1871 | 明治4 | 11 | 光明寺が京都府に境外山林の除地を願い出る | 光明寺69 |
1871 | 明治4 | 11 | 下海印寺村・金ヶ原村が京都府に、小倉神社境内除地として立ち入りを差し止められた持山の下げ渡しを願い出る | 京都府3 |
1872 | 明治5 | 2 | 奥海印寺・長法寺・今里3ヵ村の15名が京都府に、走田神社境外上地の入札値増しによる売払い下げを願い出る | 京都府4 |
1872 | 明治5 | 3 | 乙訓郡が淀支庁の管轄になる | |
1872 | 明治5 | 5 | 乙訓郡を6区に編成し、各区に区長・副区長、各村に戸長をおく | |
1872 | 明治5 | 6 | 古市村が水所で難渋のため国役堤防修繕入用金の軽減を願い出る | 新神足1 |
1872 | 明治5 | 7 | 15日、長法寺校が創立される(長法寺小学校所蔵資料) | |
1872 | 明治5 | 8 | 学制が公布される | |
1872 | 明治5 | 9 | 乙訓郡第四区副区長が各村戸長に、小学校創営金の取りまとめを通達する(海印時村役場文書) | |
1872 | 明治5 | 9 | 京都府が地券発行に着手する(1873年6月終了) | |
1872 | 明治5 | 10 | 上羽時三郎が長法寺小学校華道助教に任命される | 京都府5 |
1872 | 明治5 | 12 | 3日、太陽暦を採用し、この日を明治6年1月1日とする | |
(年未詳) | - | このころ、今里村の寺子屋の状況が調査される | ||
1873 | 明治6 | 1 | 徴兵令が定められる | |
1873 | 明治6 | 7 | 地租改正条例が公布される | |
1873 | 明治6 | 7 | 奥海印寺村が地券作成にかかわる諸入用帳を作成する | 海印寺1 |
1873 | 明治6 | 7 | 井ノ内村元庄屋・株中惣代が、中山家に田中河内介出勤時代の先納米の下げ渡しを嘆願する | 井ノ内53 |
1873 | 明治6 | 8 | 乙訓郡第四区副区長が各村戸長に、12日に長法寺校「開校式」を行う旨を通達する(海印寺村役場文書) | |
1873 | 明治6 | 9 | 21日、神足校が創立される(神足校百年誌) | |
1873 | 明治6 | 11 | 東海道線鉄道用地の買収費が開田村・神足村などに支払われる | 京都府7 |
1873 | 明治6 | 11 | 淀支庁が廃止され、乙訓郡など6郡が京都府の直轄となる | |
1873 | 明治6 | 12 | 乙訓郡が3区に編成される | |
1874 | 明治7 | 1 | 浄土谷小学の卒業証書が出される(湯川久司家文書) | |
1874 | 明治7 | 1 | 井ノ内村林三右衛門が、中山家に先納金の下げ渡しを嘆願する | 井ノ内54 |
1874 | 明治7 | 3 | 古市村が慶応4年および前年の水害による被害状況を報告する | 新神足3 |
1874 | 明治7 | 11 | 神足校の組村が小学校永続基立金仕法帳を作成する(増田幸子家文書) | |
1874 | 明治7 | - | 京都府公立小学校表に長法寺村の河原谷校が記される(文部省第二年報) | |
1875 | 明治8 | 1 | 古市村および奥海印寺村が前年の物産取調書を作成して京都府に提出する | 新神足4・海印寺2 |
1875 | 明治8 | 12 | 神足村と古市村が合併を願い出る | 新神足5 |
1876 | 明治9 | 3 | 長法寺小学の卒業証書に「乙訓郡楽信校」の校印が押される(能勢久嗣家文書) | |
1876 | 明治9 | 4 | 陵掌森田迂作が浄土谷村小学校教師の兼務を命じられる | 京都府9 |
1876 | 明治9 | 7 | 大阪-向日町間の鉄道敷設工事が竣工する | |
1876 | 明治9 | 9 | 大阪-京都間に鉄道が開通する | |
1876 | 明治9 | 9 | 古市村が9月18日の水害による田畑の被害状況を報告する | 新神足6 |
1876 | 明治9 | 9 | 神足村・古市村の合併が認められ、神足村となる(古市区有文書) | |
1876 | 明治9 | 9 | 今里村が地租改正による収穫基礎簿を作成する | 乙訓村5 |
1876 | 明治9 | 12 | 奥海印寺村が1873~1875年の民費課出表を作成する | 海印寺3 |
1877 | 明治10 | 1 | 地租が100分の3から2.5に引き下げられる | |
1877 | 明治10 | 3 | 奥海印寺村が地租改正の請書を作成する | 海印寺4 |
1877 | 明治10 | - | 京都府公立小学校表に浄土谷村の逢原校が記される(文部省第五年報) | |
(年未詳) | - | このころ、京都府の地誌編さん事業で、各村の村誌が作成される | 府地誌1・2 | |
1878 | 明治11 | 7 | 郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(三新法)が公布される | |
1878 | 明治11 | 10 | 神足村の松橋周延を講元として相続講仕法帳が作成される | 新神足7 |
1879 | 明治12 | 3 | 京都府管内に郡区町村制をしき、区を廃止して組を編成する | |
1879 | 明治12 | 3 | 初の府会議員選挙で、多貝藤右衛門・能勢清左衛門・樋口八郎右衛門が当選する(京都府議会歴代議員録) | |
1879 | 明治12 | 4 | 乙訓郡役所が向日町真経寺内におかれるが、紀伊・乙訓両郡合併により、紀伊郡上鳥羽村に変更になる | |
1879 | 明治12 | 12 | 組戸長役場区域改正により、乙訓郡が5組に編成される | |
1880 | 明治13 | 4 | 区町村会法が公布される | |
1880 | 明治13 | 12 | 長法寺村伍頭4人が村惣代に対して村政改革案を提出する | 乙訓村10 |
1881 | 明治14 | 1 | 紀伊郡との分離により、乙訓郡役所が向日町におかれる | |
1881 | 明治14 | 3 | 1871~1880年の乙訓郡社倉積立金穀の出納決算がまとまる | 乙訓村12 |
1881 | 明治14 | 5 | 京都教育会の第1回会議が開催される(大阪日報) | |
1881 | 明治14 | 6 | 乙訓郡の教育会分会結成の動向が報じられる | 新聞等2 |
1881 | 明治14 | 10 | 組戸長制廃止により、単独または連合の戸長役場がおかれる | |
1882 | 明治15 | 2 | 今里村が村会規則案をまとめ、京都府へ伺書を提出する | 乙訓村13 |
1882 | 明治15 | 3 | 神足村村会規則がまとめられる(林三代次家文書) | |
1882 | 明治15 | 6 | 乙訓郡役所が伝染病の取扱要綱を定め、各村に配布する | 乙訓村14 |
1882 | 明治15 | 7 | 乙訓郡公立小学校生徒心得及び罰則が京都府より許可される(今里区有文書) | |
1882 | 明治15 | 7 | 乙訓郡連合町村会議員名簿が作成される | 乙訓村15 |
1882 | 明治15 | 7 | 正木安左衛門が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) | |
1882 | 明治15 | 12 | 今里村のこの年の物産が報告される | 乙訓村16 |
1882 | 明治15 | 12 | 楊谷寺住職が浄土谷小学校へ300円を寄付する | 新聞等5 |
1882 | 明治15 | - | 京都府管内学区域並びに校数表に、浄土谷村の分校が記される | 京都府12 |
1883 | 明治16 | 2 | 今里村能勢清左衛門らを首唱者とする西岡学会の結成が京都府に届けられる(京都府百年の資料) | |
1883 | 明治16 | 4 | 乙訓郡の連合村会を5月1日に光明寺で開くことが報じられる | 新聞等6 |
1883 | 明治16 | 5 | 小倉神社の祭礼で能・狂言が奉納されることが報じられる | 新聞等7 |
1883 | 明治16 | 5 | 乙訓郡教育会規則がつくられる(今里区有文書) | |
1883 | 明治16 | 7 | 乙訓郡教育会の懇親会が向日町真経寺で開かれる | 新聞等8 |
1883 | 明治16 | 8 | 干ばつにより、今井用水の浚渫をめぐって今里村と井ノ内村・石見上里村との間で争いが起こり、9月、今里村が告訴に及ぶ | 新聞等9・乙訓村20 |
1883 | 明治16 | 9 | 下海印寺村小西与右衛門らが新しい用水路の開削に取りかかる(1887年5月落成) | 海印寺9 |
1883 | 明治16 | 10 | 今里村が干損につき倹約の盟約書をつくる | 乙訓村17 |
1883 | 明治16 | 11 | 今里村有志者が集書・閲覧のための結社設立をよびかける | 乙訓村18 |
1884 | 明治17 | 1 | 徴兵令の改正に伴い、徴兵逃れを防ぐため係官を派遣し説諭にあたらせる(京都滋賀新報) | |
1884 | 明治17 | 1 | 正木安左衛門、多貝藤右衛門らが同志社大学設立への参画する | 新聞等11 |
1884 | 明治17 | 3 | 今里村能勢清左衛門ら6名を総代として、乙訓郡茶業組合規約がつくられる(山本義篤家文書) | |
1884 | 明治17 | 7 | 戸長役場管轄区域全面改正により、神足村外5ヵ村連合戸長役場、長法寺村外7ヵ村連合戸長役場がおかれる | |
1884 | 明治17 | 9 | 今里・井ノ内・鶏冠井・上植野4ヵ村の鴫谷山入山を小塩村が妨害し、争論が起こる(今里区有文書) | |
1884 | 明治17 | 10 | 弘法大師千五十年遠忌に、乙訓寺での素人人形浄瑠璃の奉納を願い出る(今里区有文書) | |
1885 | 明治18 | 7 | 乙訓郡長が1日の暴風雨による被害状況を報告する | 京都府13 |
1886 | 明治19 | 3 | 長岡天満宮とその周辺の風光が報じられる(日出新聞) | |
1886 | 明治19 | 4 | 小学校令が公布される | |
1886 | 明治19 | 5 | 今里村など4ヵ村が鴫谷山入会権問題で小塩村と和解する | 乙訓村19 |
1886 | 明治19 | 5 | 大阪控訴院が今井用水について今里村の要求を認める判決を出す | 乙訓村20 |
1887 | 明治20 | 4 | 乙訓郡村道路保護規約がつくられる | 乙訓村22 |
1887 | 明治20 | 4 | 下海印寺村と金ヶ原村の入会山分割願いが認められる | 京都府15 |
1887 | 明治20 | 4 | 勝竜寺村の町村沿革取調書が提出される | 府地誌3 |
1887 | 明治20 | - | 今里村が沿革取調書を作成する | 乙訓村23 |
1887 | 明治20 | 5 | 京都府が高等小学校の設置区域・位置についての規則を公布する | |
1887 | 明治20 | 9 | 乙訓郡高等小学校が設立される(向日町向陽小学校の一部を借用) | |
1888 | 明治21 | 1 | 乙訓郡で地租減税の建白運動が起こり、調印者が60名を超える | 新聞等13 |
1888 | 明治21 | 2 | 乙訓郡農会が結成される | |
1888 | 明治21 | 2 | 京都府下の地租軽減運動が中途挫折する | 新聞等14 |
1888 | 明治21 | 4 | 市制・町村制が公布される | |
1888 | 明治21 | 9 | 乙訓郡の地租軽減運動の動向が報じられる(日出新聞) | |
1888 | 明治21 | 10 | 今里・井ノ内・粟生・長法寺4ヵ村総代が郡長に、8ヵ村合村を請願する | 乙訓村25・26 |
1888 | 明治21 | 10 | 同日、4ヵ村が合併の村名を乙訓村とする届書をつくる | 乙訓村25・26 |
1889 | 明治22 | 1 | 京都府下の交話会および乙訓郡限りの結社の動向が報じられる | 新聞等15 |
1889 | 明治22 | 1 | 乙訓郡の基本財産(社倉米代価)の状況や使途について、地域の動向が報じられる | 新聞等16 |
1889 | 明治22 | 1 | 乙訓郡の府会議員・連合戸長・総代・役場吏員らが、長法寺村で町村制研究会を開く | 新聞等17 |
1889 | 明治22 | 2 | 11日、大日本帝国憲法が公布される | |
1889 | 明治22 | 2 | 今里村が町村合併に先立ち、村持ち共有物について取り決める(今里区有文書) | |
1889 | 明治22 | 3 | 京都交話会が発会する | |
1889 | 明治22 | 4 | 1日、市制町村制施行により旧村が合併し、新神足村、海印寺村、乙訓村の3ヵ村となる | |
1889 | 明治22 | 5 | 長法寺・粟生・井ノ内の総代が村長・助役選挙について建議する | 乙訓村27 |
1889 | 明治22 | 6 | 新神足村会が区会条例を議決する | 新神足11 |
1889 | 明治22 | 6 | 元長法寺村外7ヵ村連合が合併後初の学校関係予算案をつくる | 乙訓村28 |
1889 | 明治22 | 6 | 長法寺区が合併後初の予算をつくる | 乙訓村29 |
1889 | 明治22 | 7 | 乙訓郡同盟会が向日町真経寺で結成される(日出新聞) |
西暦 | 年号 | 月 | 事項 | 資料編No. |
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1890 | 明治23 | 3 | 公友会が組織され、乙訓郡交話会員もこれに加わる | |
1890 | 明治23 | 6 | 城北青年会が今里の正木安左衛門を衆議院議員の候補者に推す | 新聞等18 |
1890 | 明治23 | 7 | 第1回衆議院議員選挙が行われる | |
1890 | 明治23 | 7 | 乙訓郡共有金を基金とする乙訓郡高等小学校の事務を処理する事務組合が成立する(向日市史) | |
1890 | 明治23 | 9 | ~12月、公友会が解散し、正木安左衛門、能勢清左衛門らが立憲自由党に入党する(日出新聞) | |
1890 | 明治23 | 10 | 教育勅語が発布される | |
1891 | 明治24 | 5 | 京都府が各町村に衛生組合設置を訓令する | |
1892 | 明治25 | 2 | 第2回衆議院選挙で、正木安左衛門が当選する(日出新聞) | |
1892 | 明治25 | 2 | 久貝六之進が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) | |
1892 | 明治25 | 4 | 粟生区が商議委員設置規定を定める | 乙訓村30 |
1892 | 明治25 | 5 | 山城自由倶楽部が結成される(1893年7月自由党山城支部となる) | |
1892 | 明治25 | 10 | 大字長法寺で愛心会が発足する(高橋淳夫家文書) | |
1892 | 明治25 | 11 | 下海印寺人民総代5名が小西与右衛門の功績上申書を作成する | 海印寺9 |
1893 | 明治26 | 4 | 浄土谷分校の称を廃し、長法寺校の分教室と改める(長法寺小学校所蔵資料) | |
1893 | 明治26 | 6 | 乙訓郡が各村の資力表(村有財産取調)が京都府に提出する | 京都府16 |
1894 | 明治27 | 8 | 日本が清国に宣戦布告し、日清戦争が始まる | |
1895 | 明治28 | 4 | 日清講和条約(下関条約)が調印される | |
1895 | 明治28 | 5 | 京都府が市町村避病院設置標準を制定する | |
1895 | 明治28 | 5 | 乙訓郡高等小学校が向日町大字鶏冠井小字楓畑に移転し、校舎が独立する(向日市史) | |
1895 | 明治28 | 8 | 神足区が衛生組合誓約書が調印する | 新神足12 |
1895 | 明治28 | 11 | ~12日、乙訓郡長が郡内各町村を巡視し、調書を作成する(1896年8月京都府へ提出) | 京都府19 |
1896 | 明治29 | 2 | 多貝虎太郎が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) | |
1897 | 明治30 | 1 | 大字井ノ内の南内畑・北内畑・上東ノ口・下東ノ口の区域で不動産保護のため同盟規約書をつくる | 乙訓村31 |
1897 | 明治30 | 2 | 神足区の下茶屋町で土地の売買に関する誓約書を調印する(下ノ町文書) | |
1897 | 明治30 | 2 | 井ノ内区長が夜学校の概況をまとめる | 乙訓村32 |
1897 | 明治30 | 5 | 乙訓郡長が京都府知事に、竹の子生産者たちの鉄道運賃低減請願につき副申する | 京都府20 |
1897 | 明治30 | 11 | 京都府が衛生組合設置規則を公布する | |
1898 | 明治31 | 5 | 乙訓郡尚武会規則が作成される(今里区有文書) | |
1898 | 明治31 | 7 | 古市区が乙訓郡長に衛生組合規約の認可を申請する(奥沢康正氏収蔵文書) | |
1898 | 明治31 | 8 | 下海印寺区が衛生組合規約を定める(下海印寺区有文書) | |
1899 | 明治32 | 1 | 開田で開かれている青年夜学会について報じられる | 新聞等20 |
1899 | 明治32 | 2 | 乙訓村山田利兵衛の稲作培養法が『京都府農会報』に紹介される | 新聞等21 |
1899 | 明治32 | 3 | 新神足村会が「伝染病貧民患者並びに死者に関する費用支給規則」を決議する(同年4月郡長認可) | 新神足13 |
1899 | 明治32 | 4 | 新神足村会が「伝染病予防救治に従事する町村吏員以下感染及び死亡手当規則」を決議する(同月郡長認可、奥沢康正氏収蔵文書) | |
1899 | 明治32 | 4 | 乙訓郡筍組合を設立し規約の認可申請をしたことが報じられる | 新聞等22 |
1899 | 明治32 | 4 | 浄土谷分教室を廃し長法寺校に合併する(長法寺小学校所蔵資料) | |
1899 | 明治32 | 5 | 乙訓村長が京都府内務部長に山田利兵衛の業績内容を報告し、6月、乙訓郡長がその行賞の必要を回答する | 京都府21・22 |
1899 | 明治32 | 6 | 農会法が公布される | |
1899 | 明治32 | 8 | 今里区長が乙訓村長に、乙訓寺が避病舎を断った旨を届けるが、村長が、乙訓寺に再度依頼するようもとめ、区長に届書を返戻する | 乙訓村33・34 |
1899 | 明治32 | 9 | 新郡制による郡会議員選挙が行われる | |
1899 | 明治32 | 10 | 今里区長が乙訓村長に、乙訓寺が避病舎を断った旨を再び届け、郡役所から乙訓村に代用場所も含めて照会がある | 乙訓村35・36 |
1899 | 明治32 | 10 | 神足区が風紀矯正及び博奕停止規約を定める | 新神足14 |
1899 | 明治32 | 10 | 京都府が就学督励について訓令する | |
1899 | 明治32 | 11 | 光明寺が、私立学校令により浄土宗西山派西部専門寮の設置を申請する | 京都府23 |
1900 | 明治33 | 2 | 乙訓郡向日町外9ヵ村組合立の伝染病院規定が郡長に許可される | 乙訓自1 |
1900 | 明治33 | 3 | 産業組合法が公布される | |
1900 | 明治33 | 3 | 神足区が軍隊接遇規約を定める | 新神足15 |
1900 | 明治33 | 4 | 乙訓村で政法研究会が組織されたことが報じられる | 新聞等23 |
1900 | 明治33 | 6 | 乙訓郡向日町外9ヵ村組合立伝染病院(乙訓病院)の管理規則が議決される | 乙訓自2 |
1900 | 明治33 | 8 | 小学校尋常科が4年制に統一され、義務教育の授業料徴収廃止が定められる | |
1900 | 明治33 | 8 | 神足区が青年会規約を定める | 新神足16 |
1900 | 明治33 | 9 | 京都府が小学校設備規則を公布する | |
1901 | 明治34 | 1 | 神足青年会が青年夜学会規約をつくる | 新神足17 |
1901 | 明治34 | 2 | 乙訓病院の落成式が行われる | 新聞等24 |
1901 | 明治34 | 2 | 愛国婦人会が設立される | |
1902 | 明治35 | 10 | 乙訓郡農会が調査した「乙訓郡孟宗筍栽培法」が『京都府農会報』に掲載される | 新聞等25 |
1903 | 明治36 | 1 | 今里区が乙訓村矯風会規約に調印する | 乙訓村37 |
1903 | 明治36 | 6 | 新神足村長が神足小学校校舎増築を申請する(後の教員室・雨天体操場に相当、中山弥太郎家旧蔵文書・神足校百年誌) | |
(年未詳) | - | このころ乙訓村が尚武会支会規則をつくられる | 乙訓村38 | |
1904 | 明治37 | 2 | 6日、海印寺村役場に海軍充員招集および第4師団第5動員が発令される | 海印寺11 |
1904 | 明治37 | 2 | 10日、日本がロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まる | |
1904 | 明治37 | 2 | 11~12日、今里区が乙訓寺区務所にて征露軍事資金の献納について取り決める(小山寛治家文書) | |
1904 | 明治37 | 2 | 17日、乙訓郡尚武会が戦時軍人接遇法を策定する(日出新聞) | |
1904 | 明治37 | 2 | 23日、神足小学校同窓会臨時総会で、応召の際の見送りなどについて決議されたことが報じられる(日出新聞) | |
1904 | 明治37 | 2 | 24日、海印寺村で各区長・村会議員・大地主協議会が開かれ、国債の応募割当が決められる | 海印寺11 |
1904 | 明治37 | 3 | 1日、今里区で国債の応募割当が決められる(小山寛治家文書) | |
1904 | 明治37 | 3 | 7日、乙訓郡尚武会海印寺村支会が応召の際の送与品を決める | |
1904 | 明治37 | 3 | 8日、海印寺村で最初の出征兵士が村を出る | 海印寺11 |
1904 | 明治37 | 4 | 第38連隊と第9連隊が西国街道を通過し、沿道の村々が歓迎する | 京都府24 |
1904 | 明治37 | 9 | 乙訓愛国婦人会第1回総会が光明寺で開催される(日出新聞) | |
1904 | 明治37 | 9 | 楊谷寺住職らが海印寺村長に宛て、柳谷山道道路改修の補助金申請書をつくる(楊谷寺文書) | |
(年未詳) | - | このころ、海印寺村農会が乙訓郡農会に、出征軍人家族に対する援助について届け出る | 海印寺12 | |
1905 | 明治38 | 4 | 乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合立の乙訓高等小学校が発足する(向日市史) | |
1905 | 明治38 | 4 | 長法寺小学校が出征軍人調査簿をつくる(長法寺小学校所蔵資料) | |
1905 | 明治38 | 8 | 新神足村役場吏員の発起で、出征兵士慰問の醵金を募る | 新神足19 |
1906 | 明治39 | 11 | 山城鑵詰株式会社が向日町で創業する(高橋淳夫家文書) | |
1907 | 明治40 | 3 | 新神足村の前年における日露戦後の役場事務報告がまとめられる | 市役所2 |
1907 | 明治40 | 3 | 小学校尋常科が6年になり、義務教育年限が延長される。それに伴い乙訓高等小学校の教育年限が3年に改められる | |
1907 | 明治40 | 4 | 山城鑵詰株式会社が大字調子の缶詰工場を買収し分工場をおく(高橋淳夫家文書) | |
1908 | 明治41 | 1 | 長法寺小学校が義務教育延長による校舎増築(北側校舎1棟)を申請する(京都府庁文書) | |
1908 | 明治41 | 3 | 新神足村で洛西馬車組合の開業式が行われる(日出新聞) | |
1908 | 明治41 | 10 | 乙訓高等小学校で乙訓郡報徳会が開催される(高橋淳夫家文書) | |
1908 | 明治41 | 12 | 新神足村会が神足小学校の小字下馬場への移転を議決し、郡長が府知事へ伺書を出す(長岡京市役所所蔵文書・京都府庁文書) | |
1909 | 明治42 | 1 | 今里信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1909 | 明治42 | 2 | 開田奥ノ町の青年夜学校の状況が報じられる(京都の部落史) | |
1909 | 明治42 | 2 | 神足区が中心会を組織し規約を定める | 新神足20 |
1909 | 明治42 | 3 | 新神足村会が乙訓郡長に、神足小学校移転計画中止を上申する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1909 | 明治42 | 4 | 古市区が納税申し合わせ規約を定める | 新神足21 |
1909 | 明治42 | 4 | 乙訓村・海印寺村学校組合長が長法寺小学校附設女子手芸学校の設置を申請する(同年5月認可) | 京都府26 |
1909 | 明治42 | 5 | 神足小学校の南側隣接地(運動場)が買収される(神足校百年誌) | |
1909 | 明治42 | 9 | 大字粟生で報徳会の発会式が行われる | 新聞等26 |
1909 | 明治42 | 10 | 大字粟生で婦友会の発会式が行われる(日出新聞) | |
1909 | 明治42 | 10 | 新神足村夜学会の発会式が行われる(日出新聞) | |
1909 | 明治42 | 10 | 大字長法寺で報徳会の発会式が行われる(日出新聞) | |
1909 | 明治42 | 10 | 乙訓村長が実業補習学校の設置を申請する(同年11月認可) | 京都府27 |
1909 | 明治42 | 11 | 古市区が勤倹貯蓄組合規約を定める(古市区有文書) | |
1909 | 明治42 | 11 | 新神足村長が義務教育延長による校舎増築(二階建東教室・中央教室など)を申請する | 京都府28 |
1910 | 明治43 | 4 | 新神足村長が神足女子裁縫学校の設置を申請する(同年10月認可) | 京都府29 |
1910 | 明治43 | 4 | 6日に粟生信用購買組合、23日に開田南信用購買販売組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1910 | 明治43 | 5 | 長法寺小学校の講堂兼雨天体操場が竣工する(長法寺校百年誌) | |
1910 | 明治43 | 11 | 帝国在郷軍人会発会式が行われる | |
1910 | 明治43 | - | 新神足村在郷軍人団が組織される(長岡京市役所所蔵文書) | |
1911 | 明治44 | 3 | 山城鑵詰株式会社の解散が報じられる(日出新聞) | |
1911 | 明治44 | 5 | 井ノ内信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1911 | 明治44 | 10 | 新神足村長が神足実業補習学校の設置を申請する(同年11月認可) | 京都府30 |
1912 | 明治45 | 1 | 新神足村長が義務教育延長による校舎増築(南教室)を申請する | 京都府31 |
1912 | 明治45 | 3 | 神足尋常小学校・神足女子裁縫学校・神足実業補習学校の前年における学事状況が新神足村会に報告される | 市役所3 |
1912 | 明治45 | 4 | 乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合乙訓女子高等手芸学校が設置される(乙訓自治会館文書) | |
1912 | 大正1 | 11 | 乙訓村消防組が出動規定を定める(高橋淳夫家文書) | |
1913 | 大正2 | 3 | 長法寺小学校の教員室と付属室が落成する(長法寺校百年誌) | |
1913 | 大正2 | 3 | 乙訓郡信用購買組合連合会の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1913 | 大正2 | 4 | 7日に海印寺村信用購買組合、28日に新神足村信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1914 | 大正3 | 6 | 今里の普明寺が大正寺と改名される(乙訓郡寺院明細帳) | |
1914 | 大正3 | 8 | 新神足村役場の大字神足小字馬場ノ辻27番地への移転を申請する | 京都府32 |
1914 | 大正3 | 10 | 神足小学校男子同窓会が新神足村青年会として会則を定め、各区に支部をおく(神足小学校所蔵資料) | |
1914 | 大正3 | 12 | 今里・開田の小作人らが小作米の減免を要求し、今里区の地主らの家へ押し寄せる | 乙訓村40 |
1915 | 大正4 | 1 | 今里区地主らが警察署長に、小作人を説諭する依頼書を作成する | 乙訓村40 |
1915 | 大正4 | 1 | 神足小学校の女子学友会が設立される(神足小学校所蔵資料) | |
1915 | 大正4 | 2 | 海印寺村が村内用水路の新設・改修工事を進めることを申請する | 京都府33 |
1915 | 大正4 | 11 | 大正天皇即位礼 | |
1915 | 大正4 | 12 | 今里区地主らが小作争議に関し一致協力するための契約をする | 乙訓村41 |
1916 | 大正5 | 2 | 今里の小作争議にかかわって「開田区小作人約定書」がつくられる(正木彰家文書) | |
1916 | 大正5 | 4 | 「山田翁農功碑」が建立される | |
1917 | 大正6 | 1 | 乙訓郡筍販売組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1917 | 大正6 | 8 | 新神足村長が小畑川および小泉川の浚渫を京都府に申請する | 京都府34 |
1917 | 大正6 | 9 | 新神足村会が区長設置規程を議決する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1917 | 大正6 | 9 | 向日町外9ヵ村病院組合が、乙訓病院を向日町大字寺戸に移転・改築することを議決する(1918年完成、乙訓自治会館文書) | |
1917 | 大正6 | 12 | 乙訓村・海印寺村学校組合長が、長法寺小学校附設実業補習学校を設置し、乙訓村立実業補習学校を廃止することを申請する | 京都府35 |
1917 | 大正6 | 12 | 乙訓郡尚武会規約が定められる | 乙訓自3 |
(年未詳) | - | このころ楽信青年団が設立される | ||
1918 | 大正7 | 3 | 新神足村長が小畑川堤防の嵩あげを京都府に要請する | 京都府36 |
1918 | 大正7 | 7 | 乙訓郡竹林同業組合が設立される | 海印寺14 |
1918 | 大正7 | 10 | 乙訓郡農会や乙訓村農会の概況が調査される | 京都府37 |
1919 | 大正8 | 9 | 新神足村長が神足実業補習学校と神足女子裁縫学校の合併・改組を申請する | 京都府38 |
1919 | 大正8 | 9 | 京阪電気鉄道株式会社が軌道敷設準備のため、海印寺村への立入測量の願書を出す | 京都府39 |
1919 | 大正8 | 12 | 長法寺信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) | |
1920 | 大正9 | 2 | 新神足村長が神足校運動場の拡張を申請する(1922年12月買収、京都府庁文書・神足小学校所蔵資料) | |
1920 | 大正9 | 3 | 専門学校令により、私立西山専門学校の設置が認可される | 京都府40 |
1920 | 大正9 | 6 | 乙訓村・海印寺村学校組合長が、女子手芸学校を廃し実業補習学校女子部への改組を申請する | 京都府41 |
1920 | 大正9 | 10 | 第1回国勢調査が行われる | |
1921 | 大正10 | 1 | 乙訓郡役所が井ノ内信用購買組合に、自作農創設のための日本勧業銀行の融資を奨励するよう通知する | 乙訓村44 |
1921 | 大正10 | 4 | 市制・町村制が改正され、町村の等級選挙制が廃止される | |
1921 | 大正10 | 4 | 乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合乙訓女子高等手芸学校が、同組合女子実業補習学校と改称する(乙訓自治会館文書) | |
1921 | 大正10 | 7 | 新神足村青年会が新神足村青年団と改称する(神足小学校所蔵資料) | |
1922 | 大正11 | 3 | 乙訓郡長が、次年度より竹林関係の技術職員を郡役所におくことを申請する | 京都府42 |
1922 | 大正11 | 5 | 乙訓郡の竹の子などの年間販売額が170万円と報じられる | 新聞等28 |
1922 | 大正11 | 8 | 新神足村が都市計画区域に指定される(長岡京の都市計画) | |
1922 | 大正11 | 9 | 京阪電気鉄道株式会社が路線延長のための立入測量を許可される | 京都府44 |
1922 | 大正11 | 9 | 京都電燈株式会社が葛野郡松尾村から海印寺村に至る洛西線の建設を申請する(1924年5月免許) | 京都府45 |
1922 | 大正11 | 9 | 五十棲駿夫が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) | |
1922 | 大正11 | 9 | 常光寺に置かれていた海印寺村役場の新築を申請する | 京都府46 |
1922 | 大正11 | 9 | 郡設長岡運動場が完成し、10月、同運動場で府下山城8郡連合青年会競技大会が開かれる(日出新聞) | 新聞等29 |
1922 | 大正11 | 10 | 長法寺校創立50周年記念式が行われる(長法寺小学校所蔵資料) | |
1922 | 大正11 | - | 神足小学校の女子学友会が新神足村処女会と改称し、組織を変更する(神足小学校所蔵資料) | |
(年未詳) | - | このころ郊外電車期成同盟会規約がつくられる | 乙訓村46 | |
1923 | 大正12 | 4 | 郡制が廃止される | |
1923 | 大正12 | 4 | 海印寺村役場が大字奥海印寺小字新度畑に新築移転をする | 京都府47 |
1923 | 大正12 | 6 | 新神足村長が老朽化した神足校舎の改築を申請する | 京都府48 |
1923 | 大正12 | 8 | 京都観京講が柳谷参道電灯線路工事有志連名額を奉納する | |
1923 | 大正12 | 9 | 1日、関東大震災 | |
1923 | 大正12 | 9 | 乙訓郡府会議員選挙で落選した候補者が、選挙無効を訴えて行政訴訟をおこす | 新聞等30・31 |
1923 | 大正12 | 10 | 長法寺小学校の奉安殿が竣工する(長法寺小学校所蔵資料) | |
1923 | 大正12 | 12 | 友岡区における小作争議が、地主側より小作料二割引の提示により解決する | 新聞等32 |
1924 | 大正13 | 3 | 長岡農振組合の缶詰工場が開田に竣工する(京都府農会報) | |
1924 | 大正13 | 8 | 柳谷登山鉄道新設のため土地立入測量の許可を申請する | 京都府50 |
1924 | 大正13 | 12 | 郡長の事務引継に際し、乙訓地域の諸問題についての概況がまとめられる | 京都府51 |
1925 | 大正14 | 4 | 新京阪鉄道株式会社が大阪市東成区城北町から京都市の四条大宮までの鉄道敷設を申請する(日出新聞) | |
1925 | 大正14 | 11 | 新神足村長が区長に旅団演習時の注意事項を通知する | 新神足22 |
1926 | 大正15 | 1 | 久貝で凶作のため、小作争議が起こる(京都府庁文書) | |
1926 | 大正15 | 4 | 青年訓練所令が公布される | |
1926 | 大正15 | 4 | ~5月、乙訓郡筍出荷組合連合会が主催して、東京で竹の子の宣伝販売活動が行われる(京都府農会報) | |
1926 | 大正15 | 5 | 乙訓村など4ヵ村長が、京都電燈計画の洛西線を省線向日町駅と連絡させるよう陳情する | 京都府52 |
1926 | 大正15 | 6 | 愛宕・乙訓・紀伊3郡内の産業組合を組織した城北部会の会則が議決される | 乙訓自4 |
1926 | 大正15 | 6 | 府県制・市制・町村制が改正され、普通選挙制が採用される | |
1926 | 大正15 | 7 | 郡役所・郡長が廃止される | |
1926 | 大正15 | 7 | 乙訓郡自治研究会が発足する | 乙訓自5 |
1926 | 大正15 | 7 | 新神足村実業補習学校および乙訓村・海印寺村学校組合実業補習学校に、それぞれ青年訓練所が附設される(神足小学校所蔵資料、長法寺小学校所蔵資料) | |
1927 | 昭和2 | 2 | 乙訓村で全村を区域とする産業組合設立の意見が広がり、既設組合を解散し乙訓村信用購買利用組合の設立を申請する(3月発足) | 京都府53 |
1927 | 昭和2 | 8 | 京都電燈株式会社の洛西線敷設権を新京阪鉄道株式会社に譲渡する申請が出される | 京都府54 |
1927 | 昭和2 | 9 | 府会最初の男子普通選挙選挙が行われる | |
1927 | 昭和2 | 12 | 井ノ内信用購買組合が、乙訓村信用購買利用組合に合併により解散することを決議する | 乙訓村47 |
1928 | 昭和3 | 2 | 帝国議会最初の男子普通選挙選挙が行われる | |
1928 | 昭和3 | 2 | 奥海印寺の土地を小作する開田の農民が争議を起こす(京都府庁文書) | 京都府55 |
1928 | 昭和3 | 3 | 新京阪鉄道が新設予定の洛西線について路線変更などを申請する | 乙訓自6 |
1928 | 昭和3 | 3 | 産業組合の城北部会が京都支会に、組合に関する情勢を報告する | 京都府56 |
1928 | 昭和3 | 5 | 今里で小作争議が起こる | |
1928 | 昭和3 | 5 | 新神足村主婦会の発会式が行われる(神足小学校所蔵資料) | |
1928 | 昭和3 | 11 | 神足小学校で奉安殿の落成式が行われる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1928 | 昭和3 | 11 | 新京阪鉄道京都西院-天神橋間が開通する(長岡天神駅の開設) | |
1928 | 昭和3 | 11 | 昭和天皇即位礼 | |
1929 | 昭和4 | 2 | 新神足村の前年における大礼御用材供納事務報告がまとめられる | 市役所6 |
1929 | 昭和4 | 9 | 長岡グランド株式会社建設の競馬場が完成する | 新聞等33 |
1929 | 昭和4 | 10 | ニューヨーク株式市場大暴落により世界恐慌はじまる | |
1930 | 昭和5 | 1 | 新神足村長らが神足駅新設に関する負担の承諾依頼状を郵送する | 市役所7 |
1930 | 昭和5 | - | 神足駅新設に関する収支予算書がつくられる | 市役所8 |
1930 | 昭和5 | 2 | 長岡天満宮周辺33haが京都都市計画西国風致地区に指定される | |
1930 | 昭和5 | 5 | 乙訓郡尚武会が町村長会例会に、駐満部隊慰問および見学旅行を提案する | 乙訓自7 |
1931 | 昭和6 | 3 | 新京阪鉄道の終点が西院から四条大宮に延長される(鉄路50年) | |
1931 | 昭和6 | 8 | 1日、省線に神足駅が開設される(長岡京市役所所蔵文書) | |
1931 | 昭和6 | 9 | 柳条湖事件が起こる(満州事変発端、日中戦争開始) | |
1932 | 昭和7 | 2 | 第18回衆議院議員選挙で、中野種一郎が当選する(京都府百年の資料) | |
1932 | 昭和7 | 3 | 乙訓郡竹林同業組合がその業務内容の概要をまとめる | 海印寺14 |
1932 | 昭和7 | 9 | 新神足村が、時局匡救土木事業として神足駅から長岡天満宮石段下へ至る道路の改修を申請する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1932 | 昭和7 | - | 海印寺村が経済更生指定村となる(京都府百年の資料) | |
1933 | 昭和8 | 5 | 新神足村など水害予防組合が、時局匡救土木事業として桂川改良工事を敷衍し、小畑川堤防改修工事の施行を陳情する | 乙訓自8 |
1934 | 昭和9 | 4 | 神足郵便局(現長岡京神足郵便局)が開局する | |
1934 | 昭和9 | 7 | 新神足村国防婦人会が設立される(神足小学校所蔵資料) | |
1934 | 昭和9 | 9 | 21日、室戸台風 | |
1934 | 昭和9 | 9 | 風水害による向日町警察署管内の被害状況がまとめられる | 京都府57 |
1934 | 昭和9 | 9 | 乙訓郡町村長会が小学校校舎の国費による復旧を陳情する | 乙訓自9 |
1934 | 昭和9 | 10 | 長法寺小学校の暴風災害対策のため学校組合会議が開かれる | 市役所10 |
1935 | 昭和10 | 2 | 長法寺小学校暴風被害校舎改築案が学校組合会議で議決される | 市役所11 |
1935 | 昭和10 | 3 | 新神足村長が神足小学校の所在地を変更することを内申する | 京都府58 |
1935 | 昭和10 | 3 | 開田南信用購買販売組合が解散する(京都府庁文書) | |
1935 | 昭和10 | 4 | 青年学校令が公布される | |
1935 | 昭和10 | 6 | 29日、豪雨により小畑川が決壊し大被害をうける(京都府庁文書) | |
1935 | 昭和10 | 7 | 勝竜寺区で季節託児所「新神足村保育園」が設けられる(社会時報) | |
1935 | 昭和10 | 7 | 新神足村実業補習学校を実業青年学校に変更することを申請する | 京都府59 |
1935 | 昭和10 | 7 | 乙訓村・海印寺村学校組合実業補習学校を楽信実業青年学校に変更することを申請する | 京都府60 |
1935 | 昭和10 | 8 | 乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合女子実業補習学校が、同組合乙訓女子青年学校と改称する(乙訓自治会館文書) | |
1935 | 昭和10 | 8 | 11日、豪雨により再び被害をうける(京都府庁文書) | |
1935 | 昭和10 | 9 | 新神足村長が6月の水害による罹災者救助基金の交付を申請する | 京都府61 |
1935 | 昭和10 | 12 | 乙訓郡町村長会が7月に続き、小畑川復旧工事について陳情する | 乙訓自10 |
1935 | 昭和10 | 12 | 乙訓村信用購買利用組合と乙訓村役場の新しい建物が大字今里小字西ノ口に完成し、乙訓村役場が西向寺より移転する | |
1935 | 昭和10 | - | 長岡天満宮の北側にタキイ長岡実験農場(後にタキイ研究農場と改称)が開設される(タネの歩み) | |
1935 | 昭和10 | - | 新神足村が経済更生指定村となる(京都府百年の資料) | |
1936 | 昭和11 | 2 | ~3月、新神足村で、主婦会・処女会と青年団がそれぞれ各区ごとに経済更生座談会を開催する(神足月報) | |
1936 | 昭和11 | 3 | 長法寺小学校の室戸台風による罹災校舎復旧建築費に、学校組合基本財産を充用することの許可を申請する | 京都府62 |
1936 | 昭和11 | 4 | 長法寺小学校の新校舎(南校舎)の竣工式が行われる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1936 | 昭和11 | 7 | 新築中の神足小学校を、さらに増築することを申請する | 京都府63 |
1936 | 昭和11 | 7 | 凱旋兵歓迎の奉告祭と祝賀会開催が計画される | 乙訓自11 |
1936 | 昭和11 | 9 | 乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合乙訓女子青年学校を、同組合乙訓実務女学校と改称することが認可される(乙訓自治会館文書) | |
1937 | 昭和12 | 2 | 神足小学校新築校舎の竣工式が行われる(1936年12月第2期工事完成、神足小学校所蔵資料) | |
1937 | 昭和12 | 4 | 新神足村処女会が新神足村女子青年団と改称する(神足小学校所蔵資料) | |
1937 | 昭和12 | 5 | 神足区の経済更生委員会が経済更生申し合わせ要項をまとめる | 新神足23 |
1937 | 昭和12 | 7 | 盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が本格化する | |
1937 | 昭和12 | - | 京都府農会が農業経営改善集団指定事業に着手し、金ヶ原農家組合が指定される(京都府農会報) | |
1938 | 昭和13 | 3 | 新神足村役場の大字神足小字開キへの新築移転を申請する | 京都府64 |
1938 | 昭和13 | 4 | 国民健康保険法が公布される | |
1938 | 昭和13 | 10 | 京都府町村長会が生活改善の実行を申し合わせる | 乙訓自12 |
1939 | 昭和14 | 4 | 京都府社会課が銃後奉公会設置に関する町村長協議会提出議案をまとめる | 乙訓自14 |
1939 | 昭和14 | 4 | 乙訓郡自治研究会臨時町村長会で尚武会解散が協議される | 乙訓自13 |
1939 | 昭和14 | 4 | 青年学校が義務制となる | |
1939 | 昭和14 | 6 | 新神足村会が神足駅東口設置の請願を議決する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1939 | 昭和14 | 7 | 新神足村の新しい役場が移転事務を開始する(神足月報) | |
1939 | 昭和14 | 8 | 海印寺村が国民健康保健組合の事業計画をまとめ設立を申請する(同年12月認可) | 京都府65・66 |
1939 | 昭和14 | 11 | 井ノ内区が区有財産保管金を角宮神社基本財産や防火用貯水場設置費などに使用することを決議する | 乙訓村48 |
1939 | 昭和14 | - | 乙訓村が経済更生指定村となる | 京都府68 |
1940 | 昭和15 | 4 | 乙訓村会が国民健康保健組合設置を議決する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1940 | 昭和15 | 9 | 新神足村奥ノ町区が協同精米場設置工事費の補助を申請する | 京都府67 |
1940 | 昭和15 | 9 | 部落会・町内会・隣保班(隣組)などの設置が通達される | |
1940 | 昭和15 | 10 | 乙訓村会が部落常会設立を承認する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1940 | 昭和15 | - | 乙訓村で井ノ内・今里・粟生・長法寺とならんで陶器町と滝ノ町の部落会がつくられる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1940 | 昭和15 | - | 新神足村で防空演習が行われる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1941 | 昭和16 | 1 | 字神足部落会規約が施行される | 新神足25 |
1941 | 昭和16 | 1 | 乙訓村が1939年度の経済更生委員会の事業活動について報告する | 京都府68 |
1941 | 昭和16 | 3 | 国民学校令が公布される | |
1941 | 昭和16 | 5 | 児童数増加のため、長法寺国民学校の校舎増築を申請する | 京都府69 |
1941 | 昭和16 | 7 | 乙訓村長が各部落会長に「英霊」の出迎えについて通知する(今里区有文書) | |
1941 | 昭和16 | 9 | 字神足部落会国民貯蓄組合規約が実施される | 新神足26 |
1941 | 昭和16 | 11 | 国民勤労報国協力令が公布される | |
1941 | 昭和16 | 11 | 乙訓村の軍人遺家族農家に対し、外部より計220名の勤労奉仕隊が派遣される | 乙訓村49 |
1941 | 昭和16 | 12 | 日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争が始まる | |
1941 | 昭和16 | 12 | 大政翼賛会乙訓郡支部が必勝国民大会への多数参会を依頼する | 乙訓自15 |
1941 | 昭和16 | - | 産業道路(現国道171号線)が新設される | |
1942 | 昭和17 | 1 | 神足区の隣組編成表が作成される | 新神足27 |
1942 | 昭和17 | 1 | 乙訓村長が部落会長に衣料切符配給などの件で出席を依頼する | 乙訓村50 |
1942 | 昭和17 | 10 | 京都府畜産組合連合会が、府社会教育課の申し出による長岡鍛練馬場の使用を承認する | 京都府71 |
1943 | 昭和18 | 2 | 新神足村で全村民が長岡天神に戦争完遂祈願をすることが報じられる(京都新聞) | |
1943 | 昭和18 | 3 | 児童数増加のため、神足国民学校の運動場拡張を申請する | 京都府72 |
1943 | 昭和18 | 3 | 乙訓郡町村長会長が向日町外9ヵ村組合立青年学校の設立を申請する | 京都府73 |
1943 | 昭和18 | 3 | 農業団体法が公布される | |
1943 | 昭和18 | 4 | 京都府立向陽工業学校が発足する(中山弥太郎家旧蔵文書) | |
1943 | 昭和18 | 5 | 乙訓村が光明寺にある忠魂碑前にて村内戦死者の入魂式を行う | 新聞等34 |
1943 | 昭和18 | 5 | 乙訓郡農会が竹の子の取引について統制を強化していることが報じられる(京都新聞) | |
1943 | 昭和18 | 5 | 古市・勝竜寺・調子・開田各区の季節保育所に府の助成金がでる | 京都府74 |
1943 | 昭和18 | 6 | 高等科児童収容のため神足国民学校の増築を申請する | 京都府75 |
1943 | 昭和18 | 6 | 新神足村に季節託児所が設けられる | 新聞等35 |
1943 | 昭和18 | 6 | 乙訓郡各町村で非農家婦人たちが託児所や共同炊事場に動員され感謝されていることが報じられる | 新聞等36 |
1943 | 昭和18 | 6 | 新神足村農会が増産体制を強化し、京都府で第一位となる | 新聞等37 |
1943 | 昭和18 | 7 | 乙訓村農会が向陽工業生徒100名の勤労奉仕を受け入れる | 乙訓村51 |
1943 | (昭和18) | 11 | 乙訓村婦人会・処女会が農繁期幼児園の案内を配布する | 乙訓村52 |
1944 | 昭和19 | 4 | 乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合乙訓実務女学校が、乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合青年学校に併置される(乙訓自治会館文書) | |
1944 | 昭和19 | 4 | 新神足村長が村立神足青年学校の廃止を申請する | 京都府76 |
1944 | 昭和19 | 5 | 乙訓村・海印寺村学校組合が楽信実業青年学校の廃止を申請する | 京都府77 |
1944 | 昭和19 | 6 | 乙訓郡の町村長が生活必需衣料品配給所の指定を陳情する | 乙訓自16 |
1944 | 昭和19 | 7 | 乙訓村の竹藪が切り開かれ甘藷・蔬菜類を栽培するなど食糧増産の状況が報じられる | 新聞等39 |
1944 | 昭和19 | 8 | 女子挺身勤労令・学徒勤労令が公布される | |
1944 | 昭和19 | 11 | 下海印寺区で阿弥陀寺を借りて農繁期託児所が設けられる(下海印寺区有文書) | |
1944 | 昭和19 | 12 | 乙訓村長が女子艇身隊の出頭要求書の交付を部落会長に依頼する | 乙訓村53 |
1944 | 昭和19 | 12 | 乙訓村長が区長に松根供出会合への出席を通知する | 乙訓村54 |
1944 | 昭和19 | 12 | 海印寺村農業会が松根油製造設備の新設を申請する | 京都府78 |
1945 | 昭和20 | 2 | 乙訓村農業会が村内各区の実行組合に、共同炊事と共同保育の計画を立て報告するよう照会する | 乙訓村56 |
1945 | 昭和20 | 5 | 今里農事実行組合が小字別の反当必収目標を立てる | 乙訓村57 |
1945 | 昭和20 | 5 | 乙訓村国民義勇隊が組織される(今里区有文書) | |
1945 | 昭和20 | 6 | 義勇兵役法公布により、国民義勇隊が国民義勇戦闘隊と改称する(今里区有文書) | |
1945 | 昭和20 | 6 | 乙訓村農業会各部落長回宛に空襲下の農耕対策要項を通知する(今里区有文書) | |
1945 | 昭和20 | 7 | 乙訓村銃後奉公会長が「英霊」の出迎えについて通知する | 乙訓村59 |
1945 | 昭和20 | 7 | 19日、山城南部地区に空襲があり、新神足村の工場が襲撃される | 新聞等40・京都府80 |
1945 | 昭和20 | 7 | この空襲で1名が死亡し5名が軽傷をうける | 新聞等40・京都府80 |
1945 | 昭和20 | 8 | 15日、終戦の詔勅が録音放送される | |
1945 | 昭和20 | 12 | 衆議院議員選挙法改正が公布され、婦人参政権が認められる | |
1945 | 昭和20 | 12 | GHQが農地改革に関する覚書を出し、農地調整法改正が公布される(第1次農地改革) | |
1946 | 昭和21 | 2 | 食糧緊急措置令が公布・施行される | |
1946 | 昭和21 | 5 | 乙訓村長が供出問題を1つの理由として村会に辞表を提出する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1946 | 昭和21 | 7 | 乙訓青年団が一握り供米運動を進める | 新聞等41 |
1946 | 昭和21 | 10 | 自作農創設特別措置法・農地調整法改正が公布される(第2次農地改革) | |
1946 | 昭和21 | 11 | 3日、日本国憲法が公布される | |
1946 | 昭和21 | 12 | 第1回市町村農地委員会選挙が行われる | |
1947 | 昭和22 | 1 | 公職追放が地方公職にも及び、戦時中の市町村長らが追放される | |
1947 | 昭和22 | 4 | 1日、教育基本法・学校教育法が施行され、6・3制教育が開始される | |
1947 | 昭和22 | 4 | 5日、公選による第1回知事・市町村長選挙が行われる | |
1947 | 昭和22 | 4 | 17日、地方自治法が公布される | |
1947 | 昭和22 | 4 | 30日、第1回地方議会議員選挙が行われる | |
1947 | 昭和22 | 5 | 3日、日本国憲法・地方自治法が施行される | |
1947 | 昭和22 | 5 | 5日、乙訓郡向日町外7ヵ村学校組合立乙訓中学校が開校する(長法寺小学校所蔵資料) | |
1947 | 昭和22 | 5 | 10日に海印寺村、17日に新神足村、19日に乙訓村で統一選挙後初の村会が開かれる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1947 | 昭和22 | 8 | 乙訓村で供出をめぐって紛糾し、農業会長が辞任したことが報じられる(京都新聞) | |
1947 | 昭和22 | 9 | 乙訓村会に村長不信任案が提出され成立する(長岡京市役所所蔵文書) | |
1947 | 昭和22 | 11 | 農業協同組合法が公布される | |
1947 | 昭和22 | - | タキイ長岡研究農場附属園芸講習所が開設され、翌年2月、開校の申請が出される | 京都府79 |
1948 | 昭和23 | 2 | 新神足村会で乙訓中学校増築費負担にかかわって第2中学校問題が討議される(長岡京市役所所蔵文書) | |
1948 | 昭和23 | 3 | ~4月、乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合解散の件が3ヵ村の村会でそれぞれ可決される(長岡京市役所所蔵文書) | |
1948 | 昭和23 | 3 | ~4月、乙訓郡向日町外9ヵ村青年学校組合解散の件が3ヵ村の村会でそれぞれ可決される(長岡京市役所所蔵文書) | |
1948 | 昭和23 | 4 | 16日に海印寺村農業協同組合、23日に新神足村農業協同組合の設立が認可される(京都府庁文書) | |
1948 | 昭和23 | 6 | 4日、乙訓村農業協同組合の設立が認可される(京都府庁文書) | |
1948 | 昭和23 | 9 | 乙訓郡の合併問題を協議する緊急町村会長会が開かれる(京都新聞) | |
1948 | 昭和23 | 9 | 府営第1回競馬が長岡競馬場で開催される(京都府百年の年表) | |
1949 | 昭和24 | 3 | 乙訓村農協が粟生の工場で竹の子ボイル加工を始める | |
1949 | 昭和24 | 3 | 新神足・海印寺・乙訓・大山崎4ヵ村合併促進委員会がつくられる(長岡京市役所所蔵文書) | |
1949 | 昭和24 | 6 | 4ヵ村合併計画から大山崎村が離脱する(大山崎町史) |