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年表(近世・近代)

[2013年3月26日]

ID:966

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年表(近世・近代)1
西暦年号事項資料編No.
1582天正107羽柴秀吉が山城国の指出を命じ、山崎に築城する  
1582天正1010羽柴秀吉代官杉原家次が光明寺の寺領を安堵する光明寺16
1583天正119羽柴秀吉代官小野木重次が光明寺の寺領を安堵する光明寺19
1585天正1311羽柴秀吉が神足内27石を向日神社に領知し、その後25石が勝竜寺内に変更される中世編213・214
1585天正1311羽柴秀吉が神足内20石を大原野春日社に領知する(大原野神社文書)中世編213・214
1585天正1311羽柴秀吉が馬場村内236石を天竜寺に領知する(天竜寺文書)中世編213・214
1586天正144羽柴秀吉が細川幽斎に、勝竜寺・神足など西岡内3000石を宛行う細川家28・29
1587天正158細川玉が洗礼を受け、ガラシャと名乗る 
1589天正1711調子庄の検地帳が作成される調子村1
1592天正203友岡村の指出帳が作成される(鞆岡達雄家文書)  
1592天正203豊臣秀吉が朝鮮征討のため肥前名護屋に向かう(文禄の役)  
1597慶長21豊臣秀吉が朝鮮再征を命ずる(慶長の役)  
1600慶長57大坂城下細川邸でガラシャが自害する  
1600慶長57八条宮智仁親王が細川幽斎から古今伝授をうける  
1600慶長59関ヶ原の戦い  
1601慶長6徳川家康が公家などへ領知を行う  
1601慶長68粟生村の指出帳が作成される(粟生区有文書)  
1601慶長69板倉勝重が京都所司代になる  
1601慶長610正親町家が調子家に、調子村正親町家領の管理を依頼する調子家106
1603慶長82徳川家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く  
1605慶長109板倉勝重が下海印寺村3ヵ寺に上竹赦免状を出す下海印1
1605慶長109板倉勝重が今里村法皇寺に上竹赦免状を出す(猪熊文書)下海印1
1605慶長109板倉勝重が今里村2ヵ寺に上竹赦免状を出す(今里区有文書)下海印1
1605慶長1012板倉勝重が井ノ内村2ヵ寺に上竹赦免状を出す井ノ内2
1611慶長164光明寺と禅林寺が輪番に綸旨の取次ぎをする旨の裁許状が下され、両本山体制ができる光明寺24・25
1612慶長173キリスト教が禁止される  
1612慶長176板倉勝重が光明寺に禁制を出す光明寺26
1613慶長186光明寺など紫衣勅許寺院の法度が定められる光明寺27
1613慶長189板倉勝重が浄土谷村楊谷寺に禁制を出す浄土谷1
1613慶長1811板倉勝重が柳谷の神足村請山について裁定を下す神足村1
1614慶長194楊谷寺本堂が建立され、棟札が作られる光明寺28
1614慶長197立願山楊谷寺縁起が写される(高松宮家伝来禁裏本)  
1614慶長1910大坂冬の陣  
1614慶長1910板倉勝重が浄土谷村に禁制を出す浄土谷2
1614慶長1910板倉勝重が今里村法皇寺に禁制を出す(猪熊文書)  
1614慶長1910板倉勝重が井ノ内村に禁制を出す井ノ内3
1615慶長204大坂夏の陣 
1615元和17武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度が定められる  
1615元和17光明寺が無住のため西山派諸法度が禅林寺に下される光明寺29
1617元和36板倉勝重が今里村上ノ井手への井ノ内村の新儀妨害を裁許する今里村9
1617元和39徳川秀忠が公家衆・諸大名に領知の判物・朱印状を与える  
1619元和53板倉勝重が開田村の八条宮家領栗林への立ち入りを禁ずる制札を出す(桂宮家文書)  
1620元和611板倉重宗が京都所司代になる  
1622元和88京都所司代板倉重宗が調子村へ定書を下す調子村2
1623元和97楊谷寺観音講規約が作られる楊谷寺1
1623元和98粟生・今里・井ノ内共同墓地に笠塔婆が造立される建築・美術編
 (年未詳)このころ天神山に開田天神が遷座する長岡天6
1633寛永103永井直清に山城国長岡の勝竜寺など2万石が与えられる  
1633寛永104永井直清入封のため勝龍寺城造作が始まるが、7月、水入り地のため城の北側に屋敷(神足館)を造ることが許可される永井家1~4
1634寛永111徳川家光の上洛に際して、村々に治安維持の触状が出される井ノ内4
1634寛永117徳川家光が上洛する  
1635寛永1210板倉重宗がキリシタン禁止のため南蛮起請文の雛型を達し、友岡村百姓らが南蛮起請文を提出する友岡村3・4
1636寛永136井ノ内・石見・今里三ヵ村の入会山、および井ノ内・今里両村の入会山の境界が、近郷村々の扱いで定められる井ノ内5・6
1636寛永1312友岡村茶屋町への来住者について身元請状が出される友岡村5・6
1637寛永145板倉重宗が開田村の八条宮家領天神山および栗林・松林への立ち入りを禁ずる制札を出す(桂宮家文書)  
1637寛永149開田の名寄帳が作成される(中小路忠雄家文書)  
1637寛永1410島原・天草の一揆がおこる  
1638寛永155友岡村茶屋町への来住者について身元請状が出される友岡村7
1638寛永15開田天神境内の東にため池(八条ヶ池)が開かれる長岡天6
1639寛永167鎖国が完成する  
1640寛永177今里村上ノ井手への井ノ内村の妨害が裁許される今里村9
1640寛永1710調子家が瑞泉寺に屋敷地を寄進し、武清を出家させて開基とする調子家109
1641寛永186今里村上ノ井手について、井ノ内村からの訴えが退けられる今里村9
1642寛永1912友岡村が村法度を定める友岡村8
1643寛永203田畑永代売買禁止令が出される  
1643正保112国絵図・郷帳の作成が命じられる  
1646正保33国絵図作成に際し、長法寺村は書上げを京都所司代に提出する長法寺2
1646正保34~5月に長講堂で、6月に御所で奉行所の見分を願い出、今里村が井ノ内村の訴えに反論する建築・美術編
 (年未詳)このころ、光明寺本堂(御影堂)が建立される建築・美術編
1647正保48今井用水について、井ノ内村が奉行所の見分を願い出、今里村が井ノ内村の訴えに反論する今里村10・井ノ内8
1649慶安22慶安の御触書が出される 
1649慶安27永井直清が高槻へ転封を命じられ、9月、入城する永井家33
1650慶安38友岡村が墓所・茶屋町の由来について奉行へ返答書を提出する友岡村10
1651慶安41金ヶ原地蔵院半鐘が鋳造される建築・美術編
1651慶安410調子村正親町家領の名寄帳が作成される調子村3
1651慶安411光明寺に倍山俊意が入山する光明寺32
1653承応28光明寺喚鐘が鋳造される建築・美術編
1656明暦21開田村八条宮家領内の新田開発について取り決める開田村1
1656明暦22角宮神社に石灯籠が寄進される建築・美術編
1656明暦28光明寺の廟堂が建立される建築・美術編
1657明暦35光明寺梵鐘が鋳造される建築・美術編
1664寛文410楊谷寺梵鐘が鋳造される建築・美術編
1665寛文57~11月、徳川家綱が公家・寺社領に領知の判物・朱印状を与える 
1665寛文59今里村役人が伏見宮家領や平尾山などについて書き上げる今里村11
1665寛文510長法寺村の小百姓が庄屋の年貢不正を訴える長法寺3
1668寛文87京都町奉行がおかれる 
1669寛文94長法寺村が奥海印寺村による荒芝地押領をを訴え、11月、荒芝地を両村入組地とすることと裁許される長法寺4・6
1669寛文98長法寺村が村法度を定める長法寺5
1669寛文99小塩村鴫谷山の入会権を今里村など4ヵ村に認める裁許が下され、山論絵図が作成される今里村12
1671寛文1110宗門人別改帳の作成が命じられる 
1672寛文124井ノ内村庄屋が新田の用水の取り方について今里村に約束する今里村13
1672寛文125角宮神社に石灯籠が寄進される  
1672寛文126~7月、山崎宿の助郷が西岡の村々に割り付けられ、1271疋の寄馬を出す(大山崎町史) 
1675延宝312友岡村で宗門改帳が作成される友岡村12
1676延宝46~9月、開田天神の本社・末社が八条宮家によって造営される長岡天6
1677延宝5-友岡村30石が光明寺領となる光明寺47
1679延宝72今里村・長法寺村などで上竹藪の場所が確定され、手引帳が作成される今里村16・長法寺8・9
1679延宝73勝竜寺墓地にお迎仏が造立される建築・美術編
1679延宝76友岡村・勝竜寺村など幕府領で検地が行われる(鞆岡達雄家文書・中山寛家文書) 
1679延宝78奥海印寺墓地にお迎仏が造立される建築・美術編
1680延宝85奥海印寺村で新開畠に伴う井溝の埋立てをめぐり争論がおこる奥海印1
1681延宝96友岡村庄屋が、代官へ提出した判鑑帳・人別帳など村方支配の基本帳簿の手控えを作成する友岡村15~24
1681延宝99普明寺(大正寺)半鐘が鋳造される建築・美術編
1684貞享1-飛賀山の土砂留めが井ノ内・今里・粟生三ヵ村に命じられる(中山寛家文書) 
1687貞享49井ノ内村旧地蔵院半鐘が鋳造される建築・美術編
1687貞享43神足村が土砂留めを命じられ、柳谷請山に松苗を植える神足村1
1688貞享57浄土谷村が観音山をめぐり楊谷寺住持と争う浄土谷7
1688貞享58三尊寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1689元禄25八条宮家より祝詞師石原定近が開田天満宮に遣わされ、遷宮が行われる(桂宮日記)長岡天6
1690元禄38井ノ内・今里・粟生三ヵ村が砂留のため飛賀山を三つ分けする今里村17
1691元禄43開田天満宮境内に春日・八幡の小祠が建てられる長岡天6
1692元禄512旧浄光寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1692元禄56~8月、隆光が京都文殊院屋敷を乙訓寺の替え地として南禅寺に寄付し、乙訓寺の建立を願い出る乙訓寺27
1693元禄67浄土谷村が量空是海に楊谷寺境内地を寄付し支配を任せる楊谷寺2
1693元禄611金ヶ原村鎮守の棟札が作られる 
1694元禄71~7月、乙訓寺へ桂昌院らから再興造営料が施入される乙訓寺28
1694元禄73~5月、楊谷寺が開帳を行う楊谷寺7
1694元禄711井ノ内村地蔵院仲間が村内諸行事饗応の次第を書き留める井ノ内9
1695元禄8521日、乙訓寺が竣工し、什宝目録が作成される乙訓寺1・2
1695元禄88柳谷楊谷寺門前で弥兵衛が茶屋営業をはじめる浄土谷8
1695元禄810京都町奉行松前嘉広が乙訓寺に石灯籠を寄進する建築・美術編
1696元禄92念仏講中が粟生・今里・井ノ内共同墓地に六地蔵を造立する建築・美術編
1696元禄99隆光大僧正が乙訓寺縁起を執筆する乙訓寺2
1696元禄910乙訓寺梵鐘が鋳造される建築・美術編
1696元禄911開田村年貢のうち50石が天満宮社用として下げ渡され、その配分が定められる(桂宮日記)長岡天6
1697元禄104国絵図の改訂・郷帳の提出が命じられる 
1697元禄1011山崎宿の助郷が西岡の村々に割り付けられる井ノ内10
1698元禄111国絵図作成に際し、長法寺村は書上げを京都代官に提出する長法寺15
1698元禄113下海印寺・金ヶ原両村百姓が、小倉神社領山が両村請作であることを申し立てる金ヶ原3
1698元禄113鷹司家領分井ノ内村の絵図が作成される井ノ内11
1698元禄114~9月、柳谷の神足村請山をめぐり、浄土谷村と争論がおこる神足村1
1698元禄1111小畑川筋・柳谷川筋の土砂留場所の書上げ提出が命じられる長法寺16
1699元禄121鴫谷山絵図の本図を10年ずつ交互に保管するため、井ノ内村から今里村へ渡す井ノ内12
1699元禄124長法寺村と奥海印寺村が走田神社の屋根葺替の仕様書を作成する長法寺18
1699元禄125長法寺村と奥海印寺村が入組山管理のための掟を定める長法寺19
1699元禄129調子八角に丹波道・愛宕道を示す道標が造立される建築・美術編
1700元禄133長法寺村氏子中が走田神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1700元禄139春日神社に石鳥居が造立される建築・美術編
1701元禄148神足村と浄土谷村の山論が裁許される神足村1
1701元禄1412浄土谷村が楊谷寺に薪山8ヵ所を寄進する楊谷寺4
1702元禄152菅原道真八百年遠忌に際し、開田天満宮で万灯会が行われる長岡天6
1702元禄152開田村宮仲間が天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1702元禄1512友岡墓地に一石五輪塔が造立される建築・美術編
1704元禄172神足神社に石鳥居が寄進される建築・美術編
1704元禄172勝龍寺半鐘が鋳造される 
1704元禄172~4月、井ノ内村年寄衆・村中が庄屋を訴える(石田政房家文書) 
1704宝永19井ノ内村の証文類が、出役した領主の代官に差し出される井ノ内13
1704宝永111井ノ内村で徳物成帳が作成され、徳の経緯が記される(石田政房家文書) 
1705宝永29護持院隆光が乙訓寺法度を定め、修法の定を下す乙訓寺3~8
1705宝永29乙訓寺に神足村・古市村の内100石が与えられ、12月、知行渡しが行われる乙訓寺3~8
1706宝永312神足村・古市村役人が、蔵入の時より高免の年貢納入を請け負い、京都代官より免定の覚が乙訓寺へ送られる乙訓寺13・14
1707宝永48金ヶ原・下海印寺共同墓地にお迎仏が造立される建築・美術編
1708宝永52石田七郎兵衛が角宮神社に石鳥居を寄進する建築・美術編
1708宝永52井ノ内村石田瀬兵衛・井内勘兵衛が光明寺に石灯籠を寄進する建築・美術編
1708宝永52井ノ内村石田瀬兵衛が赤根天神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1709宝永63徳川綱吉の法事で、乙訓寺が納経拝礼を行う乙訓寺15
1709宝永64妙見宮の神事をめぐり長法寺村社家と奥海印寺村年寄が争う長法寺24
1709宝永610勝竜寺墓地に前机が造立される建築・美術編
1710宝永78井ノ内村石田瀬兵衛が赤根天神社に石灯籠・石鳥居を寄進する建築・美術編
1710宝永78井ノ内村石田瀬兵衛が光明寺に石鳥居を寄進する建築・美術編
1710宝永79勝竜寺村が愛宕灯籠を造立する建築・美術編
1710宝永712領境の井堰をめぐる下海印寺村と奥海印寺村の水論が裁許される下海印6
1710宝永7観音寺還誉が神足・古市共同墓地に六字名号碑を造立する建築・美術編
1711正徳15石田瀬兵衛が角宮神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1711正徳110安楽寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1712正徳27浄土谷埋め墓にお迎仏が造立される建築・美術編
1713正徳33子守勝手神社に石灯籠が寄進される建築・美術編
1713正徳35楊谷寺に石灯籠が寄進される建築・美術編
1713正徳36子守勝手神社参道入口に石鳥居が建立される建築・美術編
1714正徳410長法寺村が大風による不作のため年貢免除を訴え出る長法寺26
1714正徳411浄土谷村が楊谷山を楊谷寺観音の薪山とする楊谷寺6
1716正徳64神足村と勝竜寺村が、樋爪村の新井路を潰して古井路に復するよう京都町奉行所へ訴える神足村2
1717享保21今里村下作百姓が村高持百姓中に詫状を出す(能勢久嗣家文書) 
1717享保28光明寺の記録「雑記」が作成されはじめる光明寺40
1718享保32~4月、楊谷寺観音堂修理のため本尊・霊宝等の開帳を行う楊谷寺7~9
1718享保37久貝墓地に六地蔵石仏が造立される建築・美術編
1720享保52聖徳寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1721享保63享保4年の朝鮮人来朝の道中人馬費用を国役掛りとする触が出る神足村5
1721享保610常光寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1722享保73楊谷寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1723享保87京都町々屎小便の他国下しが禁止され、屎屋22軒・買子80人と定め、山城152ヵ村がくみ取りの責任区域を決める今里村21
1723享保89子守勝手神社社殿前に石鳥居が建立される建築・美術編
1724享保96山城152ヵ村が京都屎小便について約定書を作成する友岡村26
1726享保112~9月、今里村惣百姓が、村で慣例の「徳并見付」の廃止を庄屋へ申し付けてくれるよう領主に訴えようとする今里村22
1726享保112光明寺三万日廻向の間、境内に茶店を出すことの許可を求める光明寺42
1726享保113光明寺三万日廻向の間、井ノ内村が小畑川に土橋を架けて参詣人より橋銭を取る井ノ内14
1726享保116神足村・勝竜寺村と古市村の堤代銀をめぐる争論が和解する古市村2
1727享保1212今井用水をめぐる井ノ内村と今里村との争論が和談する今里村23
1728享保133~5月、乙訓寺で本尊の開帳を行う乙訓寺18
1728享保1312井ノ内村が飛賀山の持分の売買などを禁ずる井ノ内15
1731享保167聖徳寺に地蔵石仏が造立される建築・美術編
1732享保177乗願寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1734享保193開田村糀屋六右衛門が酒造株の借受を願い出る(桂宮日記) 
1734享保1911光明寺客殿より出火し、伽藍が焼失する光明寺44
1735享保201光明寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1736享保213友岡墓地に六字名号碑が造立される建築・美術編
1736元文14~6月、光明寺本殿再建のため江戸本所回向院で開帳を行う光明寺45
1737元文23~4月、光明寺本殿再建のため光明寺で開帳を行う。この間、井ノ内村が仮土橋を架けて橋銭を徴収することを願い出る(林三代次家文書)光明寺45
1738元文36井ノ内村氏子中が角宮神社に石灯籠を建立する建築・美術編
1738元文3夏の大雨で七ツ池の堤が切れる(桂宮日記) 
1740元文56石田瀬兵衛が角宮神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1740元文57浄光寺に地蔵石仏が造立される建築・美術編
1741寛保14光明寺が高槻藩京屋敷より「円光大師石棺」を譲り受ける光明寺46
1746延享32光明寺の末寺帳が作成される光明寺48
1747延享47前年より調子村正親町家領内の調子家抱地をめぐる争論がおこり下作百姓らが吟味される調子家117~119
1748延享53朝鮮人来朝道筋の井路に組合九ヵ村で仮橋を架けるよう、水垂・大下津両村が願い出る勝竜寺1
1748寛延18長法寺村が今里村による草刈場押領を訴え出る長法寺31
1748寛延19円明寺村小泉新兵衛が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1749寛延21長法寺村と今里村が年貢山を折半することで和談する長法寺32
1751寛延44楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として修復される建築・美術編
1751宝暦112下海印寺子墓に地蔵石仏が造立される建築・美術編
1752宝暦22菅原道真八百五十年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる長岡天4
1752宝暦22山崎宿助郷について山崎宿と西岡村々との間で取り決める(大山崎町史) 
1752宝暦23開田・今里共同墓地に六十六部供養碑が造立される建築・美術編
1752宝暦24光明寺御影堂(本堂)が上棟する建築・美術編
1753宝暦310長法寺村・奥海印寺村と今里村との平尾山争論が和談する長法寺34
1754宝暦47神足村六斎念仏講中が神足・古市共同墓地に棺台を造立する建築・美術編
1756宝暦62今里村に光明寺と善峰・柳谷を示す道標が造立される建築・美術編
1756宝暦62今里村の万里小路家領庄屋らが百姓と対立し、4月、和解する今里村27・28
1756宝暦611今里村の百姓らが村方の古例に合わない花山院領庄屋を訴える今里村29・30
1757宝暦72今里村の庄屋らが勤め方のよくない庄屋を排斥する惣百姓の訴えを支持し、3月、庄屋が引退する今里村31・32
1759宝暦97翌年の円光大師五百五十年遠忌のため、1人25銭の勧進を募る建築・美術編
1759宝暦910六斎講中が奥海印寺墓地に棺台を造立する建築・美術編
1760宝暦103~4月、乙訓寺で開帳を行う(乙訓寺文書) 
1761宝暦115古市村と馬場村とが池床地について和解し、絵図を作成する馬場村2
1763宝暦134神足村微細絵図が作成される(長谷川太一家文書) 
1763宝暦134上鳥羽村の住人が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1763宝暦137旧内裏常御殿の襖絵が光明寺に寄付される建築・美術編
1765明和21開田村の住人が京・伏見と総持寺・八幡を示す道標を造立する建築・美術編
1766明和33勝龍寺鐘楼が神足大工を棟梁として建立される建築・美術編
1766明和36今井用水をめぐる今里村と井ノ内村の争論が和解する今里村33
1767明和43光明寺殿鐘が鋳造される建築・美術編
1767明和411井ノ内村が博奕禁止・村方倹約などの法度を取り決める井ノ内16
1769明和63大藪村ほか13ヵ村惣代が要害堤の高さを唐街道と同じにすることを願い出る古市村4
1770明和75瀬田川の浚えについて、山城の川筋村々が川下からの浚えを願い出る(奥田信子家文書) 
1770明和78井ノ内村が村内諸行事の倹約箇条を取り決める井ノ内17
1771明和85浄土谷村が仙洞御所へ楊梅・松茸の献上を再開するにあたり、御用札使用を許可される浄土谷9
1771明和87奥海印寺村が村追放などの取り決めをする奥海印2
1772明和93西国巡礼中の姉妹のうちの姉が長法寺村で病死する長法寺35
1773安永27西光寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1775安永45神足社中の扁額が奉納される 
1776安永511神足神社に石灯籠が寄進される建築・美術編
1776安永511長岡天満宮の大修造が始まる(桂宮日記) 
1776安永512井ノ内村が家出人の処分などについて取り決める井ノ内18
1777安永63走田神社に石灯籠が寄進される建築・美術編
1777安永63雅楽頭平儀重が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1777安永66井ノ内村が出奉公人に関する触状に請印をする井ノ内19
1777安永68井ノ内村が神座の維持運営について取り決める井ノ内20
1777安永68六斎講中が勝竜寺墓地に棺台を造立する建築・美術編
1777安永610久貝村西光寺住持が檀那中と不和になり、翌7年2月、本山光明寺より退院を申し付けられる光明寺55
1778安永76西岡下組大工仲間のなかに神足村の庄左衛門ら5人の名がみえる(向日市史) 
1778安永712井ノ内村が村内の諸行事を五人組で協議するよう取り決める井ノ内21
1779安永88今里・井ノ内両村と粟生村との間で飛賀山をめぐる争論がおこる(今里区有文書) 
1780安永92飛賀山争論で京都東町奉行の裁定が下り、絵図が作成される今里村34・35
1780安永99潤福寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1780安永911長岡天満宮に石灯籠が寄進される建築・美術編
1781天明15竹屋仲間の円明寺組に、調子・古市・開田・井ノ内各村の百姓の名がみえる(史料京都の歴史) 
1781天明18六斎講中が開田・今里共同墓地に棺台を造立する建築・美術編
1781天明18中小路忠兵衛が開田・今里共同墓地に六字名号碑を寄進する建築・美術編
1781天明19中路喜六・中路儀右衛門が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1781天明1長岡天満宮の大修造がおおよそ終了する(桂宮日記) 
1782天明22中小路忠兵衛らが長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1782天明23~4月、楊谷寺で本尊の開帳を行う楊谷寺16~18
1782天明23大坂万人講が楊谷寺に石灯籠を寄進し、柳谷への道標を造立する建築・美術編
1782天明212井ノ内村が五人組の過料について取り決める井ノ内22
1782天明2この年より天明の飢饉が始まる 
1783天明32桂材木仲間が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1783天明33桂船荷揚場役方が長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1783天明34井ノ内村に髪結を召し抱えるについての請状が出される(林三代次家文書) 
1783天明38山城・摂津・河内の村々代表が淀川の浚えを願い出る(奥田信子家文書) 
1783天明310調子家が調子村に対し、10月末まで米の売却を禁止する触を出す調子村7
1784天明43井ノ内村が田畑譲り替えの方法について取り決める井ノ内23
1785天明53小堀代官所が乙訓郡の村々に飢饉の備えを申し渡す(津田家文書) 
1786天明610長法寺村が衛門内侍局に銀を融通するため平野屋から借銀する長法寺36
1787天明75飢饉により米価騰貴し、大坂・江戸で打ちこわしがおこる 
1787天明76松平定信が老中となり、諸改革を始める(寛政の改革) 
1787天明76京都で御所お千度参りが始まる(大島家日記) 
1788天明81京都大火 
1788天明84京都大火に際し光明寺・禅林寺両山が類焼の末寺へ見舞金を下す光明寺56
1788天明85京都大火のため、山城の村々が京都町々屎尿の他国への積み下し禁止を願い出、摂河州37ヵ村と争論になる今里村36
1788天明811京都東町奉行より、京都屎尿の摂河州への一部移出を認める仲裁案が仰せ渡される今里村36
1788天明812神足村堺屋六郎兵衛が酒造株の営業状況を実相院門跡に届け出る(実相院文書) 
1789寛政16井ノ内村が博奕禁止の触状に対し請印をする井ノ内24
1789寛政17長法寺村番人が村の墓地へ妻の埋葬が許可され感謝する長法寺38
1790寛政212長岡の今堀弥吉が長岡天満宮に算額を奉納する建築・美術編
1791寛政31馬場村領内樋普請について古市村より口上書が提出される古市村5
1791寛政33乗願寺本堂が上棟する建築・美術編
1791寛政310井ノ内村が村内諸行事の倹約を取り決める井ノ内25
1792寛政44光格天皇より光明寺へ御祈願の綸旨が出される光明寺58
1792寛政42今里村百姓が庄屋七人の勝手我儘を京都東町奉行に訴える今里村37
1793寛政512今里村の村役人と百姓たちとの紛争について和解が成立する今里村38・39
1797寛政95大津米荷物会所より通い札がおくられる井ノ内26
1798寛政10粟生・今里・井ノ内共同墓地に棺台が造立される建築・美術編
1799寛政113楊谷寺で御所献上物の一覧が作成される楊谷寺20
1799寛政114光明寺阿弥陀堂が上棟する建築・美術編
1800寛政122楊谷寺住持と浄土谷村役人・講中惣代が楊谷寺永代定式を定める楊谷寺21
1801享和15調子村と友岡村との境界をめぐる争論が起こる(調子八郎家文書) 
1801享和1西国街道に愛宕・山崎・淀を示す道標が造立される建築・美術編
1802享和21調子八角に長岡天神への道標が造立される建築・美術編
1802享和22菅原道真九百年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる長岡天4
1802享和23井ノ内村が村内諸行事の出銭を取り決める井ノ内27
1803享和32井ノ内村が博奕禁止について取り決める井ノ内28
1803享和32長岡天満宮の奉射が再興される(桂宮日記) 
1804文化18洪水で流された向日川筋の土橋の再架を願い出る馬場村3
1805文化22久貝墓地に村中が棺台を造立する建築・美術編
1805文化22寺社改めに際し、角宮をめぐり井ノ内村の宮年寄と向日神社神主六人部氏との争論がおこる(石田政房家文書) 
1805文化23飛賀山内に今里村の用水池を造る今里村40
1805文化211今里村と馬場村が村境の悪水抜落口の争論について和解す今里村41
1806文化32長法寺村が疳症の病人を預かる長法寺39
1806文化37儒医の宇田貞蔵が神足村に移り住む(古義堂文庫) 
1806文化3石田瀬兵衛と新経尼の宝篋印塔が造立される建築・美術編
1807文化42勝竜寺村小百姓らが庄屋の排斥を申し合わせ傘連判状を作成する勝竜寺3
1807文化43~12月、調子村で正親町家領庄屋に対する村方騒動が起こる(調子八郎家文書) 
1808文化57神足社中の扁額が奉納される 
1810文化712奥海印寺村が振舞等の取り決めをする奥海印3
1811文化82丹波荷物の運送をめぐり西岡馬持と淀宿馬持との争論が起こる長法寺48
1812文化99長法寺村・奥海印寺村が両村土砂留山の管理を仕来たり通り行うことの許可を願い出る長法寺40
1813文化1012高瀬川屎船賃の増銭について取り決める今里村42
1814文化111京都千眼講中が楊谷寺に石灯籠を寄進する建築・美術編
1814文化112西岡馬仲間が丹波荷物の運送をめぐる訴訟の返答書を提出する長法寺41
1814文化114下植野村神木浜の問屋と西岡馬持が荷物運送の訴訟について和談する長法寺42
1814文化117馬場村弥右衛門が四国八十八ヵ所巡礼に出る馬場村4
1815文化123馬場村が用水について今里村へ掛け合う馬場村5
1816文化133大坂茶所講中が楊谷寺に石灯籠を寄進する建築・美術編
1816文化134御用瓦師仲間が取り決めをする奥海印4
1817文化1411井ノ内村甚兵衛が竹屋仲間の印札を譲り受ける井ノ内29
1818文政16今里村の渋谷丹治が寺子屋(雷落庵)を開く(今里区有文書) 
1819文政24瓦師仲間四組が瓦売場所について村分けをする奥海印5
1819文政25井ノ内村が竹の子盗人の処罰を村方で内済する井ノ内30
1821文政42乙訓郡村々が角倉役所へ惣代の交替を届け出る今里村43
1821文政43高瀬川積下し屎船の船賃を定める今里村44
1822文政52平野栄山講が楊谷寺に石灯籠を寄進する建築・美術編
1823文政65古市村助右衛門家で竹の子仕切控帳が作成される(奥沢康正氏収蔵文書) 
1823文政68長法寺墓地に棺台が造立される建築・美術編
1823文政6大干ばつのため,光明寺境内に防災用のため池を造り手桶を置く光明寺64
1824文政73開田村黒池の傍らの友岡村領に、ため池を造ることが認められる(桂宮日記) 
1824文政78楊谷寺茶所が神足大工を棟梁として建立される建築・美術編
1825文政85「向日里人物志」が作られ、岡本宣顕・宣盛、中小路宗房・宗孝らが記載される(鳥羽屋文書) 
1825文政88今里・馬場・古市の悪水落方についての和解趣意書が示される今里村45
1825文政8走田神社の社殿が再建される(佐藤年秀家文書) 
1826文政92今出川家が井ノ内村など7ヵ村に御用銀を課す(石田政房家文書) 
1826文政96馬場村領内の今里村新規伏樋を取払うよう組合9ヵ村が願い出る古市村8
1827文政102伏見宮家領百姓らが、伏見宮家が十一屋への返済滞銀を支払うよう奉行所に訴える今里村46・47
1827文政104長法寺村の忠次郎ら8人が西国巡拝に出る長法寺43
1828文政119寂照院が光明寺・伏見・柳谷を示す道標を造立する建築・美術編
1830文政131井ノ内村が共有山林の保全について条目を定める井ノ内31
1830文政132勝竜寺村が久貝村の了解を得て犬川の井路を延ばす勝竜寺5
1830文政133阿波国から御蔭参りがおこり、向日町や開田村からも参宮に出る(鳥羽屋文書) 
1830文政137京都大地震 
1830文政1311長法寺村の宇田秀輔が村雲御所に出仕する(高橋淳夫家文書) 
1830文政1312子守勝手神社本殿が上棟する建築・美術編
年表(近世・近代)2
西暦年号事項資料編No.
1831天保211郷帳の提出が命じられる 
1831天保211勝竜寺村と久貝村とが井手堀浚や通船について合意する勝竜寺6・7
1832天保310勝竜寺村船持らが屎浜普請を行い屎船を新造する今里村48
1833天保412古市村で隣家百姓の追放を免除するよう詫状が出される古市村9
1835天保612国絵図の作成が命じられる 
1835天保612今里村が悪水抜の伏樋について組合9ヵ村へ一札を出す古市村10
1836天保73井ノ内村で月参講が結成され、定宿より請印を取る井ノ内32
1836天保74樋口八郎右衛門が赤根天神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1837天保82大塩平八郎の乱がおこる 
1838天保9神足村の松橋周延が寺子屋(長松観)を開く(日本教育史資料) 
1839天保101神足社中の扁額が奉納される 
1839天保103~4月、京都市中で蝶々踊りが流行する(大島家日記) 
1839天保10金ヶ原・下海印寺共同墓地に棺台が造立される建築・美術編
1840天保114神足村実相院領庄屋が退役後改名し名目銀貸付所を開設することについて、村方一統が難色を示す(実相院文書) 
1840天保119井ノ内村で若連中の条目が定められる井ノ内33
1841天保121神木浜問屋に各村が納める浜銭が、小田子1荷1文増になる開田村2
1841天保125天保の改革が始まり、12月、株仲間解散令が出る 
1841天保1212神足村実相院領庄屋をめぐる騒動が内済される(岡本宣之家文書) 
1841天保1212走田神社に石灯籠が寄進される建築・美術編
1841天保1212井ノ内村で株中の役介高となった絶家の田地・家屋敷等をもらい請け、隠居分家分としてもらいうける井ノ内34
1841天保12奥海印寺村に京道・柳谷を示す道標が造立される建築・美術編
1842天保133京大仏明暗寺院代より古市村へ虚無僧取締りの覚書が出される(古市区有文書) 
1842天保135調子村で倹約令15カ条に請印する(鷹野武雄家文書) 
1842天保136西岡郷中で孟宗藪に下肥を入れることの禁止を申し合わせる(大島家日記) 
1842天保138井ノ内村が小畑川筋堤防修復のため各領主に入用銀を願い出る井ノ内35
1842天保139下海印寺村が領主伏見宮家への上納飯米搗立のため、水車小屋の設置を奉行所へ願い出る下海印7
1842天保1311琉球人来朝参府に際して神足村などが縄引人足を出す勝竜寺8
1842天保1312御用瓦師仲間へ下職人の取締りについて仰せ渡される奥海印6
1843天保141琉球人帰国に際して淀川沿岸村々が縄引人足を出す勝竜寺8
1843天保142井ノ内村甚兵衛が株仲間解散後の竹商売の継続を届け出る井ノ内36
1844天保152西向寺半鐘が鋳造される建築・美術編
1844天保1512開田村勘兵衛らが天満宮境内で寒天製作を試みる(桂宮日記) 
 (年未詳)このころ井ノ内村要助が聖天尊をまつり村中長久安全を祈念する井ノ内37
1845弘化21長岡天満宮境内の長岡役所が焼失する長岡天5
1845弘化29勘兵衛らが寒天製作につき村方に迷惑をかけないことを約束する開田村3
1846弘化312瓦師惣左衛門が瓦職印札・建物一式を長兵衛へ譲り渡す奥海印7
1846弘化3秋、大川講が天神池東に役行者像を建立する建築・美術編
1847弘化42長兵衛が太鼓山に瓦師職場を建てるにつき、開田村用水池に障りのないことを約束する開田村4
1847弘化43能勢理左衛門が赤根天神社に石灯籠を寄進する建築・美術編
1847弘化45京千眼講が柳谷道への道標を造立する建築・美術編
1847弘化45長法寺村から今里村への出作百姓が領主に出作地を返上する長法寺46・47
1847弘化48神足村実相院領絵図が作成される乙訓寺24
1847弘化49楊谷寺本堂が神足大工を棟梁として再興される建築・美術編
1848弘化53乙訓郡16ヵ村惣代が高瀬船仲間と屎荷代銀集め方を取り決める勝竜寺9
1848嘉永16勝竜寺村役人が小畑川尺ケ内堤決壊を高槻土砂奉行に届ける勝竜寺10
1848嘉永112神足村実相院領内の争論を神足掃部・宇田元吉が仲裁する(実相院文書) 
1849嘉永23今里村が上里・石見両村の開発により今井用水に土砂が流れ込むことへの対策を訴え、7月、双方が和解する今里村51・52
1849嘉永211今里村が用水不足を補うため光明寺裏山にため池を造る今里村53
1849嘉永212粟生村がふろそ谷流水を今里村用水ため池に回すことを認める今里村54
1849嘉永212淀宿馬持が丹波路荷物の付送りにについて西岡馬持を訴える長法寺48
1851嘉永43株仲間再興令が出る 
1851嘉永4春、石田市左衛門が角宮神社に狛犬を建立する建築・美術編
1851嘉永44角宮神社本殿・春日神社本殿が造営される建築・美術編
1851嘉永45開田村孫兵衛が四ツ成芝に用水池を造ることを願い出る開田村5
1851嘉永411風間八左衛門らが長岡天満宮に石灯籠を寄進する建築・美術編
1851嘉永4柳谷への道標が造立される建築・美術編
1851嘉永4長法寺村庄屋が村内の困窮者に施行米を与える(高橋淳夫家文書) 
1852嘉永51調子村に正親町家より倹約触が達せられる(鷹野武雄家文書) 
1852嘉永52菅原道真九百五十年遠忌に際し、長岡天満宮で万灯会が行われる(桂宮日記) 
1852嘉永54調子下野守が山崎観音寺出作地一件について取調べを願い出る調子村12
1853嘉永61~2月、古市・神足・勝竜寺など組合村々が水垂村・大下津村内の前年流失した悪水抜門樋を伏せ直す勝竜寺11
1853嘉永66ペリーが浦賀に来航する 
1853嘉永612長法寺村が旱損のため年貢の免除を願い出る長法寺49
1853嘉永612寄宿仲間名前帳に粟生村丹波屋・中村屋、浄土谷村木屋・玉屋、長法寺村酒屋の名が記される(向日市史) 
1854嘉永73日米和親条約が締結される 
1854嘉永74京都大火、禁裏が炎上し桂宮家が仮御所となる 
1854嘉永7615~23日、京都が大地震で揺れ続く(大島家日記) 
1854嘉永77調子家と正親町家との間で百姓分けの取り決めがなされ、8人の百姓が正親町家領の八角に移り住む(正親町家役所日記)調子家125
1855安政22桂宮家が三本木奥田屋で長岡講を催す(桂宮日記) 
1855安政23京御掃除講が楊谷寺参道の起点に石灯籠を建立する建築・美術編
1856安政31長法寺村の村掟と若連中定書が定められる長法寺50・61
1856安政37勝竜寺村百姓が、屎小便通船に際し用水に差し支えないようにすることを久貝村に約束する勝竜寺12
1857安政43小倉神社御旅所に石鳥居が建立される建築・美術編
1858安政53大阪月参講京橋組が楊谷寺に狛犬を寄進する建築・美術編
1858安政53長法寺村百姓らが下鴨神社競馬講銀として梨木家に銀を融通する長法寺51
1858安政54井伊直弼が大老に就任し、6月、日米修好通商条約に調印する 
1858安政58京竹屋仲間に入株した竹屋が、不正路の商いによって村方より鎌留め処分をうけ詫状を出す今里村55
1858安政511井ノ内村の石田帯刀が四条家に出仕する(石田政房家文書) 
1859安政62大坂青物市場の問屋仲間が西岡村々に竹の子の出荷を増やすよう依頼する開田村7
1859安政67乙訓寺が実相院門跡より領地絵図を借用し寺領の取調べを始める乙訓寺23
 (年未詳)このころ、乙訓寺が神足村実相領絵図を写し取り、乙訓寺領絵図を作成する乙訓寺24~26
1860安政73上羽村の上羽心正堂の筆子が記される(佐藤久夫家文書) 
1860万延17開田村と今里村が平尾用水ため池樋戸口の抜き方を取り決める開田村9
1860万延18西岡郷において勧化や配札などの廻村人の取締りを定める長法寺53
1860万延112井ノ内村が村内諸行事の倹約を取り決める井ノ内38
1861文久14中山家家司の田中河内介追放の達書が井ノ内村に届く井ノ内39
1861文久17乙訓寺が神足村内の寺領調査にかかった費用の借用を本山に願い出る乙訓寺23
1861文久110和宮が将軍家茂に降嫁し、江戸へ下向する 
1861文久110和宮降嫁時の行列に山城国中から人足が動員され、古市村からは幡持ちや提灯持ちなど29人が勤める(奥沢康正氏収蔵文書) 
1862文久24寺田屋事件で田中河内介が捕縛される 
1862文久25御局会所と梨木家とが長法寺村の出入作訴訟について協議する長法寺54
1862文久27京都守護職の設置が決定され、12月、松平容保が着任する 
1862文久211長法寺村内の梨木家領百姓と局領百姓との出入作訴訟が和解する長法寺55
1863文久33将軍家茂が上洛し、攘夷祈願の行幸に供奉する 
1863文久37将軍上洛にかかわる幕府献納米のうち30俵を調子家が拝領する調子家123
1863文久38公武合体派のクーデターにより三条実美・四条隆謌ら7卿が長州へ下る(八月十八日の政変) 
1864元治13伏見宮家役所が浪士取締りについての高札を下す下海印9
1864元治15光明寺山主が1月に再上洛した将軍家茂に二条城でお目見えする光明寺65
1864元治16長州藩兵が上洛、29日、野唯人が光明寺を陣所に借り受けに来る光明寺66
1864元治173日、100人余りの長州兵が光明寺に進駐し方丈本堂を宿所として警固、8日、撤収する光明寺66・勝竜寺13
1864元治17上旬、城州・河州の守護職役知村々が、6月24日以来の過分の御用人足による疲弊を訴え、免除を嘆願する光明寺66・勝竜寺13
1864元治1719日、長州藩兵が御所諸門で幕府軍と交戦し敗退する(禁門の変)光明寺66・勝竜寺13
1864元治1721日、幕府軍が山崎に進攻して放火、光明寺の本尊や什物を避難させ、僧侶らが山奥で野宿する光明寺66・勝竜寺13
1864元治17幕府が第1次長州征伐を命じ、11月、長州藩が降伏する光明寺66・勝竜寺13
1864元治18西岡64ヵ村が花相撲などの興行の合力助成は村限りにすることを定める開田村11
1864元治110友岡村が、過分の人足がまかないきれないとして、淀宿助郷の休役を局役人に願い出る(鞆岡達雄家文書) 
1865元治21山崎宿が、前年の焼失により人馬継立ができないとして近郷村々の助人馬を願い出る(向日市史) 
1865慶応15千眼講が柳谷道に石灯籠を建立する建築・美術編
1865慶応15将軍家茂が3度目の上洛をし、長州再征を奏上する 
1865慶応18井ノ内村で村方文書を改め目録を作成する(石田政房家文書・森本芳博家文書) 
1865慶応112調子尚武が左近衛将曹に任じられる調子家124
1866慶応28家茂の死去により、第2次長州征伐を休止する 
1866慶応29井ノ内村が、5月・8月と続いた水損のため救米を願い出る井ノ内40
1867慶応36神足村庄左衛門に西岡下組大工鑑札が与えられる(岩岸忍家蔵) 
1867慶応36調子家が瑞泉寺の管理を山崎観音寺にゆだねる調子家123
1867慶応310開田村権三郎が桂宮家より長岡御調達金の内50両を拝借する開田村12
1867慶応31013日、中山忠能が井ノ内村など家領3ヵ村の村役人に、非常人足について申し渡す(中山忠能日記) 
1867慶応31014日、薩長両藩に倒幕の密勅、将軍慶喜が大政奉還を上奏 
1867慶応3128日、中山家から井ノ内村に、翌日の非常人足18人が課せられる井ノ内41
1867慶応3129日、王政復古の大号令、小御所会議井ノ内41
1867慶応3129日、長州藩兵が上洛し、光明寺に着陣する(復古記)井ノ内41
1867慶応3129日、京都町奉行所を廃止、13日、京都市中取締役所を設置する井ノ内41
1867慶応312末ごろ、四条隆謌ら5卿に帰京を命じられ、石田帯刀が大坂まで出迎える(石田政房家文書)井ノ内41
1868慶応413~4日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争はじまる)井ノ内42~44
1868慶応416日、幕府軍が敗退、石田帯刀が天王山で戦況の見分をする(石田政房家文書)井ノ内42~44
1868慶応4120日、石田帯刀が北陸征討に従軍し、京都を出発する(石田政房家文書)井ノ内42~44
1868慶応41中山家領3ヶ村が申し合わせ、家司大口大和守の非常人足に対する無理非道な使い方を訴える井ノ内42~44
1868慶応433日、京都市中取締役所を京都裁判所と改称する 
1868慶応434日、御親征につき宮堂上方家領にも助郷役が課される井ノ内45
1868慶応4321日、天皇の大坂行幸に際し、調子氏が近衛府随身として供奉する調子家123
1868慶応43井ノ内村が中山家を通じて山崎宿駅助郷人足の免除を願い出る井ノ内46
1868慶応44江戸城開城 
1868慶応44井ノ内村の竹屋が、京都裁判所への御用竹の不足分を北摂から買い求め、材木会所を経ず直接調進することを願い出る井ノ内47
1868慶応4429日、京都裁判所を京都府庁と改称する 
1868慶応45強雨により小畑川・坂川・風呂川が決壊し、今谷池の堤が切れる今里村60
1868慶応46山城国内小堀数馬預地が京都府管轄になる 
1868慶応47江戸を東京と改める 
1868慶応47石田帯刀が越後府執事に任じられる(石田政房家文書) 
1868慶応48西岡64ヵ村が花相撲など興行の合力助成は村限りにすることを定める(開田区有文書・高橋淳夫家文書) 
1868慶応49明治と改元する 
1868明治元10京都府が各町村に戸籍の作成を命じる 
1868明治元11山城8郷に会所代がおかれる(乙訓郡は向日町) 
1868明治元12奥海印寺村瓦師長兵衛が上植野村での瓦製造の許可を申請する奥海印11
1868明治元12今谷池堤切れ被害に対する補償と再築について今里村と粟生村の和談が成立し、京都府が今谷池堤切れ被害に対する争論について裁許状を出す今里村61・粟生村3
1869明治21公家領・寺社領などの租税が京都府管轄になる 
1869明治21庄屋は1村1人とし、従来の地頭庄屋は収納取立役と改称される 
1869明治237日、天皇が東京に向かい、28日、東京着(東京遷都) 
1869明治23京都府が郡中制法・村庄屋心得条目などを制定する 
1869明治23光明寺末寺53ヵ寺が、キリスト教の拒絶を仰せ付けてくれるよう嘆願する光明寺67
1869明治2518日、函館の榎本武揚らが降伏し、戊辰戦争が終わる 
1869明治2617日、版籍奉還、公卿・諸侯を華族と改称する 
1869明治27調子氏が左近衛将曹を廃され、京都府貫属士族となる(士族明細短冊) 
1869明治28カラ池(今谷池)を「議諚池」と名付け、今里・粟生両村で管理することを取り決める粟生村4
1869明治28井ノ内村が新政府の命令をうけ村内諸事の倹約を申し合わせる井ノ内50
1869明治29今里村で血判盟約書が作られる(樋口哲也家文書) 
1870明治33井ノ内村伏原家領百姓が凶作のため植付け飯米の下行を願い出る井ノ内51
1870明治310光明寺が勤王献金や廃仏毀釈による疲弊のため、末寺から補助を募る光明寺68
1870明治310山城8郡に大庄屋がおかれる(乙訓郡は神足村岡本三郎兵衛) 
1871明治41長岡天満宮の社司両人・宮仲間一統が天満宮の存続を願い出る長岡天7
1871明治41瓦師長兵衛の前々年の瓦製造枚数が京都府に報告される奥海印14
1871明治42会所代を出張庁と改称する 
1871明治42山城国内の宮・華族家領上知が命じられる 
1871明治44戸籍法が定められる 
1871明治45今里村が京都府に社倉の設立を願い出る乙訓村2
1871明治46各村で村鑑明細帳が作成され、京都府に提出される今里村62・長法寺63・井ノ内52
1871明治47廃藩置県 
1871明治47出張庁を合併し、乙訓郡・紀伊郡を管轄する向日町支庁がおかれる 
1871明治410京都府が社倉規則を布告する 
1871明治411光明寺が京都府に境外山林の除地を願い出る光明寺69
1871明治411下海印寺村・金ヶ原村が京都府に、小倉神社境内除地として立ち入りを差し止められた持山の下げ渡しを願い出る京都府3
1872明治52奥海印寺・長法寺・今里3ヵ村の15名が京都府に、走田神社境外上地の入札値増しによる売払い下げを願い出る京都府4
1872明治53乙訓郡が淀支庁の管轄になる 
1872明治55乙訓郡を6区に編成し、各区に区長・副区長、各村に戸長をおく 
1872明治56古市村が水所で難渋のため国役堤防修繕入用金の軽減を願い出る新神足1
1872明治5715日、長法寺校が創立される(長法寺小学校所蔵資料) 
1872明治58学制が公布される 
1872明治59乙訓郡第四区副区長が各村戸長に、小学校創営金の取りまとめを通達する(海印時村役場文書) 
1872明治59京都府が地券発行に着手する(1873年6月終了) 
1872明治510上羽時三郎が長法寺小学校華道助教に任命される京都府5
1872明治5123日、太陽暦を採用し、この日を明治6年1月1日とする 
 (年未詳)このころ、今里村の寺子屋の状況が調査される 
1873明治61徴兵令が定められる 
1873明治67地租改正条例が公布される 
1873明治67奥海印寺村が地券作成にかかわる諸入用帳を作成する海印寺1
1873明治67井ノ内村元庄屋・株中惣代が、中山家に田中河内介出勤時代の先納米の下げ渡しを嘆願する井ノ内53
1873明治68乙訓郡第四区副区長が各村戸長に、12日に長法寺校「開校式」を行う旨を通達する(海印寺村役場文書) 
1873明治6921日、神足校が創立される(神足校百年誌) 
1873明治611東海道線鉄道用地の買収費が開田村・神足村などに支払われる京都府7
1873明治611淀支庁が廃止され、乙訓郡など6郡が京都府の直轄となる 
1873明治612乙訓郡が3区に編成される 
1874明治71浄土谷小学の卒業証書が出される(湯川久司家文書) 
1874明治71井ノ内村林三右衛門が、中山家に先納金の下げ渡しを嘆願する井ノ内54
1874明治73古市村が慶応4年および前年の水害による被害状況を報告する新神足3
1874明治711神足校の組村が小学校永続基立金仕法帳を作成する(増田幸子家文書) 
1874明治7京都府公立小学校表に長法寺村の河原谷校が記される(文部省第二年報) 
1875明治81古市村および奥海印寺村が前年の物産取調書を作成して京都府に提出する新神足4・海印寺2
1875明治812神足村と古市村が合併を願い出る新神足5
1876明治93長法寺小学の卒業証書に「乙訓郡楽信校」の校印が押される(能勢久嗣家文書) 
1876明治94陵掌森田迂作が浄土谷村小学校教師の兼務を命じられる京都府9
1876明治97大阪-向日町間の鉄道敷設工事が竣工する 
1876明治99大阪-京都間に鉄道が開通する 
1876明治99古市村が9月18日の水害による田畑の被害状況を報告する新神足6
1876明治99神足村・古市村の合併が認められ、神足村となる(古市区有文書) 
1876明治99今里村が地租改正による収穫基礎簿を作成する乙訓村5
1876明治912奥海印寺村が1873~1875年の民費課出表を作成する海印寺3
1877明治101地租が100分の3から2.5に引き下げられる 
1877明治103奥海印寺村が地租改正の請書を作成する海印寺4
1877明治10京都府公立小学校表に浄土谷村の逢原校が記される(文部省第五年報) 
 (年未詳)このころ、京都府の地誌編さん事業で、各村の村誌が作成される府地誌1・2
1878明治117郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(三新法)が公布される 
1878明治1110神足村の松橋周延を講元として相続講仕法帳が作成される新神足7
1879明治123京都府管内に郡区町村制をしき、区を廃止して組を編成する 
1879明治123初の府会議員選挙で、多貝藤右衛門・能勢清左衛門・樋口八郎右衛門が当選する(京都府議会歴代議員録) 
1879明治124乙訓郡役所が向日町真経寺内におかれるが、紀伊・乙訓両郡合併により、紀伊郡上鳥羽村に変更になる 
1879明治1212組戸長役場区域改正により、乙訓郡が5組に編成される 
1880明治134区町村会法が公布される 
1880明治1312長法寺村伍頭4人が村惣代に対して村政改革案を提出する乙訓村10
1881明治141紀伊郡との分離により、乙訓郡役所が向日町におかれる 
1881明治1431871~1880年の乙訓郡社倉積立金穀の出納決算がまとまる乙訓村12
1881明治145京都教育会の第1回会議が開催される(大阪日報) 
1881明治146乙訓郡の教育会分会結成の動向が報じられる新聞等2
1881明治1410組戸長制廃止により、単独または連合の戸長役場がおかれる 
1882明治152今里村が村会規則案をまとめ、京都府へ伺書を提出する乙訓村13
1882明治153神足村村会規則がまとめられる(林三代次家文書) 
1882明治156乙訓郡役所が伝染病の取扱要綱を定め、各村に配布する乙訓村14
1882明治157乙訓郡公立小学校生徒心得及び罰則が京都府より許可される(今里区有文書) 
1882明治157乙訓郡連合町村会議員名簿が作成される乙訓村15
1882明治157正木安左衛門が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) 
1882明治1512今里村のこの年の物産が報告される乙訓村16
1882明治1512楊谷寺住職が浄土谷小学校へ300円を寄付する新聞等5
1882明治15京都府管内学区域並びに校数表に、浄土谷村の分校が記される京都府12
1883明治162今里村能勢清左衛門らを首唱者とする西岡学会の結成が京都府に届けられる(京都府百年の資料) 
1883明治164乙訓郡の連合村会を5月1日に光明寺で開くことが報じられる新聞等6
1883明治165小倉神社の祭礼で能・狂言が奉納されることが報じられる新聞等7
1883明治165乙訓郡教育会規則がつくられる(今里区有文書) 
1883明治167乙訓郡教育会の懇親会が向日町真経寺で開かれる新聞等8
1883明治168干ばつにより、今井用水の浚渫をめぐって今里村と井ノ内村・石見上里村との間で争いが起こり、9月、今里村が告訴に及ぶ新聞等9・乙訓村20
1883明治169下海印寺村小西与右衛門らが新しい用水路の開削に取りかかる(1887年5月落成)海印寺9
1883明治1610今里村が干損につき倹約の盟約書をつくる乙訓村17
1883明治1611今里村有志者が集書・閲覧のための結社設立をよびかける乙訓村18
1884明治171徴兵令の改正に伴い、徴兵逃れを防ぐため係官を派遣し説諭にあたらせる(京都滋賀新報) 
1884明治171正木安左衛門、多貝藤右衛門らが同志社大学設立への参画する新聞等11
1884明治173今里村能勢清左衛門ら6名を総代として、乙訓郡茶業組合規約がつくられる(山本義篤家文書) 
1884明治177戸長役場管轄区域全面改正により、神足村外5ヵ村連合戸長役場、長法寺村外7ヵ村連合戸長役場がおかれる 
1884明治179今里・井ノ内・鶏冠井・上植野4ヵ村の鴫谷山入山を小塩村が妨害し、争論が起こる(今里区有文書) 
1884明治1710弘法大師千五十年遠忌に、乙訓寺での素人人形浄瑠璃の奉納を願い出る(今里区有文書) 
1885明治187乙訓郡長が1日の暴風雨による被害状況を報告する京都府13
1886明治193長岡天満宮とその周辺の風光が報じられる(日出新聞) 
1886明治194小学校令が公布される 
1886明治195今里村など4ヵ村が鴫谷山入会権問題で小塩村と和解する乙訓村19
1886明治195大阪控訴院が今井用水について今里村の要求を認める判決を出す乙訓村20
1887明治204乙訓郡村道路保護規約がつくられる乙訓村22
1887明治204下海印寺村と金ヶ原村の入会山分割願いが認められる京都府15
1887明治204勝竜寺村の町村沿革取調書が提出される府地誌3
1887明治20今里村が沿革取調書を作成する乙訓村23
1887明治205京都府が高等小学校の設置区域・位置についての規則を公布する 
1887明治209乙訓郡高等小学校が設立される(向日町向陽小学校の一部を借用) 
1888明治211乙訓郡で地租減税の建白運動が起こり、調印者が60名を超える新聞等13
1888明治212乙訓郡農会が結成される 
1888明治212京都府下の地租軽減運動が中途挫折する新聞等14
1888明治214市制・町村制が公布される 
1888明治219乙訓郡の地租軽減運動の動向が報じられる(日出新聞) 
1888明治2110今里・井ノ内・粟生・長法寺4ヵ村総代が郡長に、8ヵ村合村を請願する乙訓村25・26
1888明治2110同日、4ヵ村が合併の村名を乙訓村とする届書をつくる乙訓村25・26
1889明治221京都府下の交話会および乙訓郡限りの結社の動向が報じられる新聞等15
1889明治221乙訓郡の基本財産(社倉米代価)の状況や使途について、地域の動向が報じられる新聞等16
1889明治221乙訓郡の府会議員・連合戸長・総代・役場吏員らが、長法寺村で町村制研究会を開く新聞等17
1889明治22211日、大日本帝国憲法が公布される 
1889明治222今里村が町村合併に先立ち、村持ち共有物について取り決める(今里区有文書) 
1889明治223京都交話会が発会する 
1889明治2241日、市制町村制施行により旧村が合併し、新神足村、海印寺村、乙訓村の3ヵ村となる 
1889明治225長法寺・粟生・井ノ内の総代が村長・助役選挙について建議する乙訓村27
1889明治226新神足村会が区会条例を議決する新神足11
1889明治226元長法寺村外7ヵ村連合が合併後初の学校関係予算案をつくる乙訓村28
1889明治226長法寺区が合併後初の予算をつくる乙訓村29
1889明治227乙訓郡同盟会が向日町真経寺で結成される(日出新聞) 
年表(近世・近代)3
西暦年号事項資料編No.
1890明治233公友会が組織され、乙訓郡交話会員もこれに加わる 
1890明治236城北青年会が今里の正木安左衛門を衆議院議員の候補者に推す新聞等18
1890明治237第1回衆議院議員選挙が行われる 
1890明治237乙訓郡共有金を基金とする乙訓郡高等小学校の事務を処理する事務組合が成立する(向日市史) 
1890明治239~12月、公友会が解散し、正木安左衛門、能勢清左衛門らが立憲自由党に入党する(日出新聞) 
1890明治2310教育勅語が発布される 
1891明治245京都府が各町村に衛生組合設置を訓令する 
1892明治252第2回衆議院選挙で、正木安左衛門が当選する(日出新聞) 
1892明治252久貝六之進が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) 
1892明治254粟生区が商議委員設置規定を定める乙訓村30
1892明治255山城自由倶楽部が結成される(1893年7月自由党山城支部となる) 
1892明治2510大字長法寺で愛心会が発足する(高橋淳夫家文書) 
1892明治2511下海印寺人民総代5名が小西与右衛門の功績上申書を作成する海印寺9
1893明治264浄土谷分校の称を廃し、長法寺校の分教室と改める(長法寺小学校所蔵資料) 
1893明治266乙訓郡が各村の資力表(村有財産取調)が京都府に提出する京都府16
1894明治278日本が清国に宣戦布告し、日清戦争が始まる 
1895明治284日清講和条約(下関条約)が調印される 
1895明治285京都府が市町村避病院設置標準を制定する 
1895明治285乙訓郡高等小学校が向日町大字鶏冠井小字楓畑に移転し、校舎が独立する(向日市史) 
1895明治288神足区が衛生組合誓約書が調印する新神足12
1895明治2811~12日、乙訓郡長が郡内各町村を巡視し、調書を作成する(1896年8月京都府へ提出)京都府19
1896明治292多貝虎太郎が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) 
1897明治301大字井ノ内の南内畑・北内畑・上東ノ口・下東ノ口の区域で不動産保護のため同盟規約書をつくる乙訓村31
1897明治302神足区の下茶屋町で土地の売買に関する誓約書を調印する(下ノ町文書) 
1897明治302井ノ内区長が夜学校の概況をまとめる乙訓村32
1897明治305乙訓郡長が京都府知事に、竹の子生産者たちの鉄道運賃低減請願につき副申する京都府20
1897明治3011京都府が衛生組合設置規則を公布する 
1898明治315乙訓郡尚武会規則が作成される(今里区有文書) 
1898明治317古市区が乙訓郡長に衛生組合規約の認可を申請する(奥沢康正氏収蔵文書) 
1898明治318下海印寺区が衛生組合規約を定める(下海印寺区有文書) 
1899明治321開田で開かれている青年夜学会について報じられる新聞等20
1899明治322乙訓村山田利兵衛の稲作培養法が『京都府農会報』に紹介される新聞等21
1899明治323新神足村会が「伝染病貧民患者並びに死者に関する費用支給規則」を決議する(同年4月郡長認可)新神足13
1899明治324新神足村会が「伝染病予防救治に従事する町村吏員以下感染及び死亡手当規則」を決議する(同月郡長認可、奥沢康正氏収蔵文書) 
1899明治324乙訓郡筍組合を設立し規約の認可申請をしたことが報じられる新聞等22
1899明治324浄土谷分教室を廃し長法寺校に合併する(長法寺小学校所蔵資料) 
1899明治325乙訓村長が京都府内務部長に山田利兵衛の業績内容を報告し、6月、乙訓郡長がその行賞の必要を回答する京都府21・22
1899明治326農会法が公布される 
1899明治328今里区長が乙訓村長に、乙訓寺が避病舎を断った旨を届けるが、村長が、乙訓寺に再度依頼するようもとめ、区長に届書を返戻する乙訓村33・34
1899明治329新郡制による郡会議員選挙が行われる 
1899明治3210今里区長が乙訓村長に、乙訓寺が避病舎を断った旨を再び届け、郡役所から乙訓村に代用場所も含めて照会がある乙訓村35・36
1899明治3210神足区が風紀矯正及び博奕停止規約を定める新神足14
1899明治3210京都府が就学督励について訓令する 
1899明治3211光明寺が、私立学校令により浄土宗西山派西部専門寮の設置を申請する京都府23
1900明治332乙訓郡向日町外9ヵ村組合立の伝染病院規定が郡長に許可される乙訓自1
1900明治333産業組合法が公布される 
1900明治333神足区が軍隊接遇規約を定める新神足15
1900明治334乙訓村で政法研究会が組織されたことが報じられる新聞等23
1900明治336乙訓郡向日町外9ヵ村組合立伝染病院(乙訓病院)の管理規則が議決される乙訓自2
1900明治338小学校尋常科が4年制に統一され、義務教育の授業料徴収廃止が定められる 
1900明治338神足区が青年会規約を定める新神足16
1900明治339京都府が小学校設備規則を公布する 
1901明治341神足青年会が青年夜学会規約をつくる新神足17
1901明治342乙訓病院の落成式が行われる新聞等24
1901明治342愛国婦人会が設立される 
1902明治3510乙訓郡農会が調査した「乙訓郡孟宗筍栽培法」が『京都府農会報』に掲載される新聞等25
1903明治361今里区が乙訓村矯風会規約に調印する乙訓村37
1903明治366新神足村長が神足小学校校舎増築を申請する(後の教員室・雨天体操場に相当、中山弥太郎家旧蔵文書・神足校百年誌) 
 (年未詳)このころ乙訓村が尚武会支会規則をつくられる乙訓村38
1904明治3726日、海印寺村役場に海軍充員招集および第4師団第5動員が発令される海印寺11
1904明治37210日、日本がロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まる 
1904明治37211~12日、今里区が乙訓寺区務所にて征露軍事資金の献納について取り決める(小山寛治家文書) 
1904明治37217日、乙訓郡尚武会が戦時軍人接遇法を策定する(日出新聞) 
1904明治37223日、神足小学校同窓会臨時総会で、応召の際の見送りなどについて決議されたことが報じられる(日出新聞) 
1904明治37224日、海印寺村で各区長・村会議員・大地主協議会が開かれ、国債の応募割当が決められる海印寺11
1904明治3731日、今里区で国債の応募割当が決められる(小山寛治家文書) 
1904明治3737日、乙訓郡尚武会海印寺村支会が応召の際の送与品を決める 
1904明治3738日、海印寺村で最初の出征兵士が村を出る海印寺11
1904明治374第38連隊と第9連隊が西国街道を通過し、沿道の村々が歓迎する京都府24
1904明治379乙訓愛国婦人会第1回総会が光明寺で開催される(日出新聞) 
1904明治379楊谷寺住職らが海印寺村長に宛て、柳谷山道道路改修の補助金申請書をつくる(楊谷寺文書) 
 (年未詳)このころ、海印寺村農会が乙訓郡農会に、出征軍人家族に対する援助について届け出る海印寺12
1905明治384乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合立の乙訓高等小学校が発足する(向日市史) 
1905明治384長法寺小学校が出征軍人調査簿をつくる(長法寺小学校所蔵資料) 
1905明治388新神足村役場吏員の発起で、出征兵士慰問の醵金を募る新神足19
1906明治3911山城鑵詰株式会社が向日町で創業する(高橋淳夫家文書) 
1907明治403新神足村の前年における日露戦後の役場事務報告がまとめられる市役所2
1907明治403小学校尋常科が6年になり、義務教育年限が延長される。それに伴い乙訓高等小学校の教育年限が3年に改められる 
1907明治404山城鑵詰株式会社が大字調子の缶詰工場を買収し分工場をおく(高橋淳夫家文書) 
1908明治411長法寺小学校が義務教育延長による校舎増築(北側校舎1棟)を申請する(京都府庁文書) 
1908明治413新神足村で洛西馬車組合の開業式が行われる(日出新聞) 
1908明治4110乙訓高等小学校で乙訓郡報徳会が開催される(高橋淳夫家文書) 
1908明治4112新神足村会が神足小学校の小字下馬場への移転を議決し、郡長が府知事へ伺書を出す(長岡京市役所所蔵文書・京都府庁文書) 
1909明治421今里信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1909明治422開田奥ノ町の青年夜学校の状況が報じられる(京都の部落史) 
1909明治422神足区が中心会を組織し規約を定める新神足20
1909明治423新神足村会が乙訓郡長に、神足小学校移転計画中止を上申する(長岡京市役所所蔵文書) 
1909明治424古市区が納税申し合わせ規約を定める新神足21
1909明治424乙訓村・海印寺村学校組合長が長法寺小学校附設女子手芸学校の設置を申請する(同年5月認可)京都府26
1909明治425神足小学校の南側隣接地(運動場)が買収される(神足校百年誌) 
1909明治429大字粟生で報徳会の発会式が行われる新聞等26
1909明治4210大字粟生で婦友会の発会式が行われる(日出新聞) 
1909明治4210新神足村夜学会の発会式が行われる(日出新聞) 
1909明治4210大字長法寺で報徳会の発会式が行われる(日出新聞) 
1909明治4210乙訓村長が実業補習学校の設置を申請する(同年11月認可)京都府27
1909明治4211古市区が勤倹貯蓄組合規約を定める(古市区有文書) 
1909明治4211新神足村長が義務教育延長による校舎増築(二階建東教室・中央教室など)を申請する京都府28
1910明治434新神足村長が神足女子裁縫学校の設置を申請する(同年10月認可)京都府29
1910明治4346日に粟生信用購買組合、23日に開田南信用購買販売組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1910明治435長法寺小学校の講堂兼雨天体操場が竣工する(長法寺校百年誌) 
1910明治4311帝国在郷軍人会発会式が行われる 
1910明治43新神足村在郷軍人団が組織される(長岡京市役所所蔵文書) 
1911明治443山城鑵詰株式会社の解散が報じられる(日出新聞) 
1911明治445井ノ内信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1911明治4410新神足村長が神足実業補習学校の設置を申請する(同年11月認可)京都府30
1912明治451新神足村長が義務教育延長による校舎増築(南教室)を申請する京都府31
1912明治453神足尋常小学校・神足女子裁縫学校・神足実業補習学校の前年における学事状況が新神足村会に報告される市役所3
1912明治454乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合乙訓女子高等手芸学校が設置される(乙訓自治会館文書) 
1912大正111乙訓村消防組が出動規定を定める(高橋淳夫家文書) 
1913大正23長法寺小学校の教員室と付属室が落成する(長法寺校百年誌) 
1913大正23乙訓郡信用購買組合連合会の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1913大正247日に海印寺村信用購買組合、28日に新神足村信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1914大正36今里の普明寺が大正寺と改名される(乙訓郡寺院明細帳) 
1914大正38新神足村役場の大字神足小字馬場ノ辻27番地への移転を申請する京都府32
1914大正310神足小学校男子同窓会が新神足村青年会として会則を定め、各区に支部をおく(神足小学校所蔵資料) 
1914大正312今里・開田の小作人らが小作米の減免を要求し、今里区の地主らの家へ押し寄せる乙訓村40
1915大正41今里区地主らが警察署長に、小作人を説諭する依頼書を作成する乙訓村40
1915大正41神足小学校の女子学友会が設立される(神足小学校所蔵資料) 
1915大正42海印寺村が村内用水路の新設・改修工事を進めることを申請する京都府33
1915大正411大正天皇即位礼 
1915大正412今里区地主らが小作争議に関し一致協力するための契約をする乙訓村41
1916大正52今里の小作争議にかかわって「開田区小作人約定書」がつくられる(正木彰家文書) 
1916大正54「山田翁農功碑」が建立される 
1917大正61乙訓郡筍販売組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1917大正68新神足村長が小畑川および小泉川の浚渫を京都府に申請する京都府34
1917大正69新神足村会が区長設置規程を議決する(長岡京市役所所蔵文書) 
1917大正69向日町外9ヵ村病院組合が、乙訓病院を向日町大字寺戸に移転・改築することを議決する(1918年完成、乙訓自治会館文書) 
1917大正612乙訓村・海印寺村学校組合長が、長法寺小学校附設実業補習学校を設置し、乙訓村立実業補習学校を廃止することを申請する京都府35
1917大正612乙訓郡尚武会規約が定められる乙訓自3
 (年未詳)このころ楽信青年団が設立される 
1918大正73新神足村長が小畑川堤防の嵩あげを京都府に要請する京都府36
1918大正77乙訓郡竹林同業組合が設立される海印寺14
1918大正710乙訓郡農会や乙訓村農会の概況が調査される京都府37
1919大正89新神足村長が神足実業補習学校と神足女子裁縫学校の合併・改組を申請する京都府38
1919大正89京阪電気鉄道株式会社が軌道敷設準備のため、海印寺村への立入測量の願書を出す京都府39
1919大正812長法寺信用購買組合の設立が許可される(井ノ内区有文書) 
1920大正92新神足村長が神足校運動場の拡張を申請する(1922年12月買収、京都府庁文書・神足小学校所蔵資料) 
1920大正93専門学校令により、私立西山専門学校の設置が認可される京都府40
1920大正96乙訓村・海印寺村学校組合長が、女子手芸学校を廃し実業補習学校女子部への改組を申請する京都府41
1920大正910第1回国勢調査が行われる 
1921大正101乙訓郡役所が井ノ内信用購買組合に、自作農創設のための日本勧業銀行の融資を奨励するよう通知する乙訓村44
1921大正104市制・町村制が改正され、町村の等級選挙制が廃止される 
1921大正104乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合乙訓女子高等手芸学校が、同組合女子実業補習学校と改称する(乙訓自治会館文書) 
1921大正107新神足村青年会が新神足村青年団と改称する(神足小学校所蔵資料) 
1922大正113乙訓郡長が、次年度より竹林関係の技術職員を郡役所におくことを申請する京都府42
1922大正115乙訓郡の竹の子などの年間販売額が170万円と報じられる新聞等28
1922大正118新神足村が都市計画区域に指定される(長岡京の都市計画) 
1922大正119京阪電気鉄道株式会社が路線延長のための立入測量を許可される京都府44
1922大正119京都電燈株式会社が葛野郡松尾村から海印寺村に至る洛西線の建設を申請する(1924年5月免許)京都府45
1922大正119五十棲駿夫が府会議員に当選する(京都府議会歴代議員録) 
1922大正119常光寺に置かれていた海印寺村役場の新築を申請する京都府46
1922大正119郡設長岡運動場が完成し、10月、同運動場で府下山城8郡連合青年会競技大会が開かれる(日出新聞)新聞等29
1922大正1110長法寺校創立50周年記念式が行われる(長法寺小学校所蔵資料) 
1922大正11神足小学校の女子学友会が新神足村処女会と改称し、組織を変更する(神足小学校所蔵資料) 
 (年未詳)このころ郊外電車期成同盟会規約がつくられる乙訓村46
1923大正124郡制が廃止される 
1923大正124海印寺村役場が大字奥海印寺小字新度畑に新築移転をする京都府47
1923大正126新神足村長が老朽化した神足校舎の改築を申請する京都府48
1923大正128京都観京講が柳谷参道電灯線路工事有志連名額を奉納する 
1923大正1291日、関東大震災 
1923大正129乙訓郡府会議員選挙で落選した候補者が、選挙無効を訴えて行政訴訟をおこす新聞等30・31
1923大正1210長法寺小学校の奉安殿が竣工する(長法寺小学校所蔵資料) 
1923大正1212友岡区における小作争議が、地主側より小作料二割引の提示により解決する新聞等32
1924大正133長岡農振組合の缶詰工場が開田に竣工する(京都府農会報) 
1924大正138柳谷登山鉄道新設のため土地立入測量の許可を申請する京都府50
1924大正1312郡長の事務引継に際し、乙訓地域の諸問題についての概況がまとめられる京都府51
1925大正144新京阪鉄道株式会社が大阪市東成区城北町から京都市の四条大宮までの鉄道敷設を申請する(日出新聞) 
1925大正1411新神足村長が区長に旅団演習時の注意事項を通知する新神足22
1926大正151久貝で凶作のため、小作争議が起こる(京都府庁文書) 
1926大正154青年訓練所令が公布される 
1926大正154~5月、乙訓郡筍出荷組合連合会が主催して、東京で竹の子の宣伝販売活動が行われる(京都府農会報) 
1926大正155乙訓村など4ヵ村長が、京都電燈計画の洛西線を省線向日町駅と連絡させるよう陳情する京都府52
1926大正156愛宕・乙訓・紀伊3郡内の産業組合を組織した城北部会の会則が議決される乙訓自4
1926大正156府県制・市制・町村制が改正され、普通選挙制が採用される 
1926大正157郡役所・郡長が廃止される 
1926大正157乙訓郡自治研究会が発足する乙訓自5
1926大正157新神足村実業補習学校および乙訓村・海印寺村学校組合実業補習学校に、それぞれ青年訓練所が附設される(神足小学校所蔵資料、長法寺小学校所蔵資料) 
1927昭和22乙訓村で全村を区域とする産業組合設立の意見が広がり、既設組合を解散し乙訓村信用購買利用組合の設立を申請する(3月発足)京都府53
1927昭和28京都電燈株式会社の洛西線敷設権を新京阪鉄道株式会社に譲渡する申請が出される京都府54
1927昭和29府会最初の男子普通選挙選挙が行われる 
1927昭和212井ノ内信用購買組合が、乙訓村信用購買利用組合に合併により解散することを決議する乙訓村47
1928昭和32帝国議会最初の男子普通選挙選挙が行われる 
1928昭和32奥海印寺の土地を小作する開田の農民が争議を起こす(京都府庁文書)京都府55
1928昭和33新京阪鉄道が新設予定の洛西線について路線変更などを申請する乙訓自6
1928昭和33産業組合の城北部会が京都支会に、組合に関する情勢を報告する京都府56
1928昭和35今里で小作争議が起こる 
1928昭和35新神足村主婦会の発会式が行われる(神足小学校所蔵資料) 
1928昭和311神足小学校で奉安殿の落成式が行われる(長岡京市役所所蔵文書) 
1928昭和311新京阪鉄道京都西院-天神橋間が開通する(長岡天神駅の開設) 
1928昭和311昭和天皇即位礼 
1929昭和42新神足村の前年における大礼御用材供納事務報告がまとめられる市役所6
1929昭和49長岡グランド株式会社建設の競馬場が完成する新聞等33
1929昭和410ニューヨーク株式市場大暴落により世界恐慌はじまる 
1930昭和51新神足村長らが神足駅新設に関する負担の承諾依頼状を郵送する市役所7
1930昭和5神足駅新設に関する収支予算書がつくられる市役所8
1930昭和52長岡天満宮周辺33haが京都都市計画西国風致地区に指定される 
1930昭和55乙訓郡尚武会が町村長会例会に、駐満部隊慰問および見学旅行を提案する乙訓自7
1931昭和63新京阪鉄道の終点が西院から四条大宮に延長される(鉄路50年) 
1931昭和681日、省線に神足駅が開設される(長岡京市役所所蔵文書) 
1931昭和69柳条湖事件が起こる(満州事変発端、日中戦争開始) 
1932昭和72第18回衆議院議員選挙で、中野種一郎が当選する(京都府百年の資料) 
1932昭和73乙訓郡竹林同業組合がその業務内容の概要をまとめる海印寺14
1932昭和79新神足村が、時局匡救土木事業として神足駅から長岡天満宮石段下へ至る道路の改修を申請する(長岡京市役所所蔵文書) 
1932昭和7海印寺村が経済更生指定村となる(京都府百年の資料) 
1933昭和85新神足村など水害予防組合が、時局匡救土木事業として桂川改良工事を敷衍し、小畑川堤防改修工事の施行を陳情する乙訓自8
1934昭和94神足郵便局(現長岡京神足郵便局)が開局する 
1934昭和97新神足村国防婦人会が設立される(神足小学校所蔵資料) 
1934昭和9921日、室戸台風 
1934昭和99風水害による向日町警察署管内の被害状況がまとめられる京都府57
1934昭和99乙訓郡町村長会が小学校校舎の国費による復旧を陳情する乙訓自9
1934昭和910長法寺小学校の暴風災害対策のため学校組合会議が開かれる市役所10
1935昭和102長法寺小学校暴風被害校舎改築案が学校組合会議で議決される市役所11
1935昭和103新神足村長が神足小学校の所在地を変更することを内申する京都府58
1935昭和103開田南信用購買販売組合が解散する(京都府庁文書) 
1935昭和104青年学校令が公布される 
1935昭和10629日、豪雨により小畑川が決壊し大被害をうける(京都府庁文書) 
1935昭和107勝竜寺区で季節託児所「新神足村保育園」が設けられる(社会時報) 
1935昭和107新神足村実業補習学校を実業青年学校に変更することを申請する京都府59
1935昭和107乙訓村・海印寺村学校組合実業補習学校を楽信実業青年学校に変更することを申請する京都府60
1935昭和108乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合女子実業補習学校が、同組合乙訓女子青年学校と改称する(乙訓自治会館文書) 
1935昭和10811日、豪雨により再び被害をうける(京都府庁文書) 
1935昭和109新神足村長が6月の水害による罹災者救助基金の交付を申請する京都府61
1935昭和1012乙訓郡町村長会が7月に続き、小畑川復旧工事について陳情する乙訓自10
1935昭和1012乙訓村信用購買利用組合と乙訓村役場の新しい建物が大字今里小字西ノ口に完成し、乙訓村役場が西向寺より移転する 
1935昭和10長岡天満宮の北側にタキイ長岡実験農場(後にタキイ研究農場と改称)が開設される(タネの歩み) 
1935昭和10新神足村が経済更生指定村となる(京都府百年の資料) 
1936昭和112~3月、新神足村で、主婦会・処女会と青年団がそれぞれ各区ごとに経済更生座談会を開催する(神足月報) 
1936昭和113長法寺小学校の室戸台風による罹災校舎復旧建築費に、学校組合基本財産を充用することの許可を申請する京都府62
1936昭和114長法寺小学校の新校舎(南校舎)の竣工式が行われる(長岡京市役所所蔵文書) 
1936昭和117新築中の神足小学校を、さらに増築することを申請する京都府63
1936昭和117凱旋兵歓迎の奉告祭と祝賀会開催が計画される乙訓自11
1936昭和119乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合乙訓女子青年学校を、同組合乙訓実務女学校と改称することが認可される(乙訓自治会館文書) 
1937昭和122神足小学校新築校舎の竣工式が行われる(1936年12月第2期工事完成、神足小学校所蔵資料) 
1937昭和124新神足村処女会が新神足村女子青年団と改称する(神足小学校所蔵資料) 
1937昭和125神足区の経済更生委員会が経済更生申し合わせ要項をまとめる新神足23
1937昭和127盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が本格化する 
1937昭和12京都府農会が農業経営改善集団指定事業に着手し、金ヶ原農家組合が指定される(京都府農会報) 
1938昭和133新神足村役場の大字神足小字開キへの新築移転を申請する京都府64
1938昭和134国民健康保険法が公布される 
1938昭和1310京都府町村長会が生活改善の実行を申し合わせる乙訓自12
1939昭和144京都府社会課が銃後奉公会設置に関する町村長協議会提出議案をまとめる乙訓自14
1939昭和144乙訓郡自治研究会臨時町村長会で尚武会解散が協議される乙訓自13
1939昭和144青年学校が義務制となる 
1939昭和146新神足村会が神足駅東口設置の請願を議決する(長岡京市役所所蔵文書) 
1939昭和147新神足村の新しい役場が移転事務を開始する(神足月報) 
1939昭和148海印寺村が国民健康保健組合の事業計画をまとめ設立を申請する(同年12月認可)京都府65・66
1939昭和1411井ノ内区が区有財産保管金を角宮神社基本財産や防火用貯水場設置費などに使用することを決議する乙訓村48
1939昭和14乙訓村が経済更生指定村となる京都府68
1940昭和154乙訓村会が国民健康保健組合設置を議決する(長岡京市役所所蔵文書) 
1940昭和159新神足村奥ノ町区が協同精米場設置工事費の補助を申請する京都府67
1940昭和159部落会・町内会・隣保班(隣組)などの設置が通達される 
1940昭和1510乙訓村会が部落常会設立を承認する(長岡京市役所所蔵文書) 
1940昭和15乙訓村で井ノ内・今里・粟生・長法寺とならんで陶器町と滝ノ町の部落会がつくられる(長岡京市役所所蔵文書) 
1940昭和15新神足村で防空演習が行われる(長岡京市役所所蔵文書) 
1941昭和161字神足部落会規約が施行される新神足25
1941昭和161乙訓村が1939年度の経済更生委員会の事業活動について報告する京都府68
1941昭和163国民学校令が公布される 
1941昭和165児童数増加のため、長法寺国民学校の校舎増築を申請する京都府69
1941昭和167乙訓村長が各部落会長に「英霊」の出迎えについて通知する(今里区有文書) 
1941昭和169字神足部落会国民貯蓄組合規約が実施される新神足26
1941昭和1611国民勤労報国協力令が公布される 
1941昭和1611乙訓村の軍人遺家族農家に対し、外部より計220名の勤労奉仕隊が派遣される乙訓村49
1941昭和1612日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争が始まる 
1941昭和1612大政翼賛会乙訓郡支部が必勝国民大会への多数参会を依頼する乙訓自15
1941昭和16産業道路(現国道171号線)が新設される 
1942昭和171神足区の隣組編成表が作成される新神足27
1942昭和171乙訓村長が部落会長に衣料切符配給などの件で出席を依頼する乙訓村50
1942昭和1710京都府畜産組合連合会が、府社会教育課の申し出による長岡鍛練馬場の使用を承認する京都府71
1943昭和182新神足村で全村民が長岡天神に戦争完遂祈願をすることが報じられる(京都新聞) 
1943昭和183児童数増加のため、神足国民学校の運動場拡張を申請する京都府72
1943昭和183乙訓郡町村長会長が向日町外9ヵ村組合立青年学校の設立を申請する京都府73
1943昭和183農業団体法が公布される 
1943昭和184京都府立向陽工業学校が発足する(中山弥太郎家旧蔵文書) 
1943昭和185乙訓村が光明寺にある忠魂碑前にて村内戦死者の入魂式を行う新聞等34
1943昭和185乙訓郡農会が竹の子の取引について統制を強化していることが報じられる(京都新聞) 
1943昭和185古市・勝竜寺・調子・開田各区の季節保育所に府の助成金がでる京都府74
1943昭和186高等科児童収容のため神足国民学校の増築を申請する京都府75
1943昭和186新神足村に季節託児所が設けられる新聞等35
1943昭和186乙訓郡各町村で非農家婦人たちが託児所や共同炊事場に動員され感謝されていることが報じられる新聞等36
1943昭和186新神足村農会が増産体制を強化し、京都府で第一位となる新聞等37
1943昭和187乙訓村農会が向陽工業生徒100名の勤労奉仕を受け入れる乙訓村51
1943(昭和18)11乙訓村婦人会・処女会が農繁期幼児園の案内を配布する乙訓村52
1944昭和194乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合乙訓実務女学校が、乙訓郡向日町外9ヵ村学校組合青年学校に併置される(乙訓自治会館文書) 
1944昭和194新神足村長が村立神足青年学校の廃止を申請する京都府76
1944昭和195乙訓村・海印寺村学校組合が楽信実業青年学校の廃止を申請する京都府77
1944昭和196乙訓郡の町村長が生活必需衣料品配給所の指定を陳情する乙訓自16
1944昭和197乙訓村の竹藪が切り開かれ甘藷・蔬菜類を栽培するなど食糧増産の状況が報じられる新聞等39
1944昭和198女子挺身勤労令・学徒勤労令が公布される 
1944昭和1911下海印寺区で阿弥陀寺を借りて農繁期託児所が設けられる(下海印寺区有文書) 
1944昭和1912乙訓村長が女子艇身隊の出頭要求書の交付を部落会長に依頼する乙訓村53
1944昭和1912乙訓村長が区長に松根供出会合への出席を通知する乙訓村54
1944昭和1912海印寺村農業会が松根油製造設備の新設を申請する京都府78
1945昭和202乙訓村農業会が村内各区の実行組合に、共同炊事と共同保育の計画を立て報告するよう照会する乙訓村56
1945昭和205今里農事実行組合が小字別の反当必収目標を立てる乙訓村57
1945昭和205乙訓村国民義勇隊が組織される(今里区有文書) 
1945昭和206義勇兵役法公布により、国民義勇隊が国民義勇戦闘隊と改称する(今里区有文書) 
1945昭和206乙訓村農業会各部落長回宛に空襲下の農耕対策要項を通知する(今里区有文書) 
1945昭和207乙訓村銃後奉公会長が「英霊」の出迎えについて通知する乙訓村59
1945昭和20719日、山城南部地区に空襲があり、新神足村の工場が襲撃される新聞等40・京都府80
1945昭和207この空襲で1名が死亡し5名が軽傷をうける新聞等40・京都府80
1945昭和20815日、終戦の詔勅が録音放送される 
1945昭和2012衆議院議員選挙法改正が公布され、婦人参政権が認められる 
1945昭和2012GHQが農地改革に関する覚書を出し、農地調整法改正が公布される(第1次農地改革) 
1946昭和212食糧緊急措置令が公布・施行される 
1946昭和215乙訓村長が供出問題を1つの理由として村会に辞表を提出する(長岡京市役所所蔵文書) 
1946昭和217乙訓青年団が一握り供米運動を進める新聞等41
1946昭和2110自作農創設特別措置法・農地調整法改正が公布される(第2次農地改革) 
1946昭和21113日、日本国憲法が公布される 
1946昭和2112第1回市町村農地委員会選挙が行われる 
1947昭和221公職追放が地方公職にも及び、戦時中の市町村長らが追放される 
1947昭和2241日、教育基本法・学校教育法が施行され、6・3制教育が開始される 
1947昭和2245日、公選による第1回知事・市町村長選挙が行われる 
1947昭和22417日、地方自治法が公布される 
1947昭和22430日、第1回地方議会議員選挙が行われる 
1947昭和2253日、日本国憲法・地方自治法が施行される 
1947昭和2255日、乙訓郡向日町外7ヵ村学校組合立乙訓中学校が開校する(長法寺小学校所蔵資料) 
1947昭和22510日に海印寺村、17日に新神足村、19日に乙訓村で統一選挙後初の村会が開かれる(長岡京市役所所蔵文書) 
1947昭和228乙訓村で供出をめぐって紛糾し、農業会長が辞任したことが報じられる(京都新聞) 
1947昭和229乙訓村会に村長不信任案が提出され成立する(長岡京市役所所蔵文書) 
1947昭和2211農業協同組合法が公布される 
1947昭和22タキイ長岡研究農場附属園芸講習所が開設され、翌年2月、開校の申請が出される京都府79
1948昭和232新神足村会で乙訓中学校増築費負担にかかわって第2中学校問題が討議される(長岡京市役所所蔵文書) 
1948昭和233~4月、乙訓郡向日町外8ヵ村学校組合解散の件が3ヵ村の村会でそれぞれ可決される(長岡京市役所所蔵文書) 
1948昭和233~4月、乙訓郡向日町外9ヵ村青年学校組合解散の件が3ヵ村の村会でそれぞれ可決される(長岡京市役所所蔵文書) 
1948昭和23416日に海印寺村農業協同組合、23日に新神足村農業協同組合の設立が認可される(京都府庁文書) 
1948昭和2364日、乙訓村農業協同組合の設立が認可される(京都府庁文書) 
1948昭和239乙訓郡の合併問題を協議する緊急町村会長会が開かれる(京都新聞) 
1948昭和239府営第1回競馬が長岡競馬場で開催される(京都府百年の年表) 
1949昭和243乙訓村農協が粟生の工場で竹の子ボイル加工を始める 
1949昭和243新神足・海印寺・乙訓・大山崎4ヵ村合併促進委員会がつくられる(長岡京市役所所蔵文書) 
1949昭和2464ヵ村合併計画から大山崎村が離脱する(大山崎町史) 

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