ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

「長岡京」10年の出来事

  • ID:684
「長岡京」関連年表
年 号月 日事   項
天応1年(781)4月3日桓武(かんむ)天皇が即位する。弟の早良(さわら)親王が皇太子となる。
延暦3年(784)5月13日摂津職(せっつしき)が長岡遷都(せんと)の予兆として、がま約2万匹が難波(なにわ)の市(いち)の南道より四天王寺の内に移動したことを報告する。
 5月16日遷都のため、中納言藤原種継(たねつぐ)らが、山背国乙訓郡長岡村(やましろのくにおとくにぐんながおかむら)の地を視察する。
 6月10日藤原種継らを造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)に任命し、都城・宮殿の造営を始める。
 6月13日長岡遷都を山背国の賀茂(かも)大神に奉告する。また、諸国に命じて今年の調庸(ちょうよう)税と宮を造る人夫の必要物資を新京の長岡宮へ進上させる。
 6月23日新京(ながおかきょう)に邸宅を造るため、公卿らに諸国の正税(しょうぜい)68万束を与える。
 6月28日新京の宮域に入るため私宅を接収される百姓に代償として正税約4万3千束を与える。
 7月4日阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)の3国に命じて、山崎橋を造るための用材を進上させる。
 11月11日桓武天皇が平城宮から長岡宮に移幸する(長岡京遷都)。
 11月20日長岡遷都のために、賀茂上下社および松尾・乙訓二神に叙位(じょい)を行う。
 11月28日使者を派遣して、賀茂上下社および松尾・乙訓二社を修理させる。
 12月2日長岡宮造営の功労者に爵(しゃく)を賜い、役夫を進上した国の今年の田祖を免除する。
 12月13日王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する。
 12月18日長岡宮造営の功労者である山背国葛野(かどの)郡の秦足長(はたのたりなが)らにそれぞれ位階をすすめる。
 12月29日住吉神を従二位に叙す。また、長岡宮造営に預かる官人・雑色人に位階をすすめ、爵を賜う。
延暦4年(785)1月1日長岡新京の大極殿(だいごくでん)で初めて元旦の朝賀(ちょうが)を行う。五位以上の貴族を内裏(だいり)に招待し、祝宴する。
 1月14日造宮資材を運搬するため、摂津国(せっつのくに)神下・梓江・鯵生野に堀を作り、淀川と三国川と結ぶ。
 7月20日長岡宮造営のために、諸国の百姓31万4千人を人夫に雇う。
 8月23日長岡宮太政官院(だいじょうかんのいん)の垣を築いた大秦公宅守に従五位を授ける。
 9月23日造長岡宮使藤原種継が島坂付近で射殺される。射殺した賊のうち多治比浜人を大枝山で処刑する。
 9月24日大伴継人・竹良ら数十人を断罪し、藤原種継を射殺した伯耆桴麻呂らを山崎橋の南の河のほとりで処刑する。
 9月28日皇太子早良親王が乙訓寺に幽閉される。その10余日後、親王は淡路に移送中に高瀬橋のほとりで死去する。
 11月25日安殿(あて)親王(のちの平城天皇)が皇太子となる。
延暦5年(786)5月3日左・右京および東・西市の人に物を賜う。
 7月19日太政官院が完成し、百官がはじめて朝座につく。
 9月29日壱志濃王を山背国班田長官に、多治比継兄を次官に任命する。
 10月8日衛門大尉上毛野公我人を西市正に任命する。
延暦6年(787)閏5月11日左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする。
 10月8日水陸の便によって長岡に遷都した旨の詔が出される。
 11月5日長岡京南郊の河内国交野(かたの)に天神を祀る。
延暦7年(788)9月26日水陸の便によって長岡に都を建つ旨の詔が出される。
延暦8年(789)1月6日五位以上の貴族を招き、南院で節会(せちえ)が行われる。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される。
 1月17日「造東大宮所(ぞうひがしおおみやどころ)」が東大宮(第2次内裏)を造る。(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
 2月27日桓武天皇が西宮(さいぐう、第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る。
 3月1日造宮使(ぞうぐうし)が酒食等を献上して祝う。
 8月1日長岡宮造営にたずさわった官人・雑工に、功労に従って叙位し、物を賜う。
 11月9日長岡宮造営にたずさわった大工の物部建麻呂(もののべのたけまろ)に従五位下を授ける。
 12月28日桓武天皇の母皇太后高野新笠(たかののにいがさ)が長岡宮中宮において死去する。
延暦9年(790)1月15日皇太后高野新笠を大枝山陵に埋葬する。
 閏3月10日皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が死去する。
 閏3月28日皇后藤原乙牟漏を長岡山陵に埋葬する。
 12月30日皇太后高野新笠の母土師真妹に大枝朝臣の姓を賜う。
 秋冬長岡京や畿内の30歳以下の男女のあいだで痘瘡が流行し、死者も出る。
延暦10年(791)4月18日使者を派遣して、山背国内の諸寺の塔を修理を行わせる。
 6月25日山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる。
 9月16日平城宮の諸門を解体し、長岡宮に移建させる。
延暦11年(792)1月9日桓武天皇が京内の諸院を巡覧し、猪隈院(いのくまいん)にて五位以上の者に弓を射さす。
 6月10日皇太子安殿親王の病気を卜(ぼく)した結果、「早良親王の祟り(たたり)である」と出たために、諸陵頭らを淡路国に遣わして、その霊をなぐさめる。
 6月22日雷雨が激しく洪水となり、式部省の南門が倒壊する。
 8月4日京域に近接しているため、山背国紀伊郡深草山の西面に死者を埋葬することを禁ずる。
 8月9日大雨・洪水で桂川等があふれる。
 8月11日桓武天皇が紀伊郡赤目崎に行幸して洪水の被害を視察する。
延暦12年(793)1月15日遷都のため、大納言藤原小黒麻呂らが山背国葛野郡宇太村(かどのぐんうたむら)を視察し、平安京の造営を開始する。
 1月21日宮を壊体するため桓武天皇が東院に移る。
 2月2日遷都を賀茂大神に告げる。
 3月1日桓武天皇が葛野に行幸し、はじめて新京を巡覧する。
 3月12日五位以上および諸司の主典以上に、役夫を進上させ、新京の宮城を築かせる。
 6月23日諸国に新宮の諸門を造営させる。
 8月10日長岡京下の諸山に死者を埋葬することや、樹木を伐採することを禁止する。
 9月2日新京の宅地を班給する。
 12月18日新京に遷都されるという理由で、長岡京の百姓が支払った宅地の買得料を取り戻すことを禁止する。
延暦13年(794)1月1日宮殿取り壊しのため、廃朝する。
4月27日太政官符・官牒によって薬物を長岡宮の内裏に進上させる。
 7月1日長岡京東・西の市を新京に移す。
7月10日地震がおこり、宮中ならびに京・畿内の官舎および人家をゆさぶる。
 8月13日右大臣藤原継縄(つぐただ)ら『続日本紀』を撰修する。
 10月22日桓武天皇が新京(平安京)へ遷り、28日、遷都の詔が出る。