大慈山 乙訓寺(だいじさん おとくにでら)
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約2,000株の牡丹が大輪の花を咲かせる「牡丹寺」
4月中旬から下旬頃には、約30種2,000株の牡丹が見ごろを迎えます。日よけのための白い和傘とピンクや赤の鮮やかな牡丹が優美な景色をつくります。洛西観音霊場第6番札所。
空海が別当を務めたと記録の残る古刹
乙訓寺は京都最古とされる広隆寺(603年創建)と同時期の創建です。寺伝では、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子が開いたと伝わります。弘仁2年(811)、弘法大師(空海)が嵯峨天皇から任命されて、乙訓寺の別当を務めました。翌年には、伝教大師(最澄)が乙訓寺を訪れ、空海と密教についての法論を交わしたと記録が残っています。空海は嵯峨天皇に、乙訓寺の境内に実っているミカンに漢詩を添えて献上したと伝わります。現在も境内にはミカンの木があります。
長岡京と早良親王の幽閉
延暦三年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都したとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築したと伝わります。長岡京遷都から間もない延暦4年(785)、造長岡宮使の藤原種継の暗殺事件に関わったとして、早良親王(桓武天皇の実弟)を乙訓寺に幽閉しました。親王は身の潔白を訴えますが、淡路島へ流罪になり、道中で絶命していまいます。その後、天皇の周りで不幸が相次ぎ、早良親王のたたりと恐れた天皇はわずか10年で都を長岡京から平安京へと遷都したともいわれています。
戦国時代の衰微と徳川綱吉・桂昌院による復興
戦国時代には、織田信長の兵火により焼失してしまい、衰微したと伝わります。江戸時代になって、「生類憐みの令」で知られる徳川綱吉が乙訓寺を祈祷寺とし、綱吉と母・桂昌院が寄進して、住職の隆光に命じて堂宇の再建を行いました。そのため、本堂屋根には葵の紋がついています。
乙訓寺 基本情報
住所 | 京都府長岡京市今里3-14-7 |
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電話 | 075-951-5759 |
開門時間 | 8:00~17:00 ※御朱印受付 10:00~15:00 |
アクセス | 阪急バス「薬師堂」から徒歩5分 |
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