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平和コラム

[2021年1月22日]

ID:7876

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平和に関するコラム

折り鶴に託す思い

 令和2年(2020年)がもうすぐ暮れようとしています。

 今年は、第二次世界大戦が終わってから75年という区切りの年でした。

 あらためて戦争の悲惨さや平和の大切さ、命の尊さについて、再確認する年でもありました。

 そして、今年は、日本が、世界中が、思わぬ「敵」との戦いで、日々「命」と向き合わなければならない1年となりました。新型コロナウイルス感染症が、私たちの生活を大きく変えてしまったのです。

 本市でも、平和イベント「平和を考える市民フォーラム」なども中止を余儀なくされました。

 しかし、コロナ禍の中で、印象に残った出来事もありました。

 毎年、本市では、市民の皆様から、「折り鶴(千羽鶴)」を募集しており、7月19日の「長岡京市平和の日」の時期に実施している「献花式」や、8月6日に行われる、「広島平和記念式典」の開催にあわせて、広島平和記念公園の「原爆の子の像」に献納しているのですが、今年に限っては、残念ながら、感染拡大防止対策のため、公募は行いませんでした。

 それにもかかわらず、多くの皆さまから、自主的に「折り鶴」をお持ちいただいたのです。小さい子どもたちから90才を超える方まで、ほぼ例年どおりの数の「折り鶴」が集まったのです。

 きっと、今年の折り鶴1羽1羽には「平和」への祈りと合わせて、ウイルスとの戦いが1日も早く終息することを祈る、熱い「思い」、強い「願い」も込められていたのではないでしょうか。

 来たる新しい年は、ウイルスとの戦いが1日も早く終息し、今年の分まで、「平和」で安心安全な1年となることを心から願い、今年最後の「平和コラム」といたします。久しぶりに折った「折り鶴」に祈りを込めながら・・。

 皆さまにとって来年が良い年になりますように・・。


*本市では、文中に出てくる「平和を考える市民フォーラム」の講演会に代わり、年明け1月16日に、「長岡京ガラシャ祭実行委員会」との共催で、「歴史平和講演会」を開催する予定です。

講師には、現在放映中のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証をされている、静岡大学名誉教授の小和田哲男先生をお招きし、『「大河ドラマ」いよいよクライマックス~戦いはなぜ繰り返されるのか~』をテーマとしてご講演をいただきます。(なお、参加者の申込みは締め切らせていただいています。)

令和2年のノーベル平和賞

 今年は、国連世界食糧計画(WFP)がノーベル平和賞を受賞しました。10月のWFPの報道発表によると、現在全世界で6億9千万人の飢餓に苦しむ人々がおり、その人々に対して食料を提供するために、日々活動するWFPスタッフの努力が認められての受賞であると認識されています。

 飢餓と紛争は、切っても切れない関係にあります。WFPの報道発表では、次のようにも述べられています。

 「紛争があるところには飢餓があります。そして、飢えがあるところでは、しばしば対立があります。今日は、食料安全保障、平和、安定が一緒になっていることを思い出させてくれます。平和がなければ、飢餓ゼロという世界的な目標を達成することはできません。そして、飢えがある間、私たちは決して平和な世界を達成することはありません。」と。

 一方、ノーベル平和賞授与を決定したノルウェー・ノーベル委員会は、コロナ禍でのWFPの活動についても高く評価しています。委員会は報道発表で、コロナウイルスの流行が、各国で飢餓の被害者の数を急増させたことに触れ、WFPが、その大流行に直面しながらも活動を強化する力を示したと強調しています。

 「飢餓と紛争」「飢餓と感染症」と聞けば、どこか遠い国のことであると感じる方もいるかもしれません。しかし、このいずれのことについても、実際には私たち一人ひとりの生活に大きく影響することを忘れてはいけません。

 特に、ウイルス感染症について言えば、世界中のどこかで流行している地域があれば、常に他の国や地域にも感染が広がる恐れがあります。また、より多くの地域で長く流行すればするほど、ウイルスが変異し、感染した場合の症状が重くなる恐れや、感染力が高くなってしまう恐れがより大きくなると言われています。

 そのような脅威に対応するためには、WFPの活動がそうであるように、1つの国や地域という単位ではなく、国際的に連携して対応することが必要です。例えば、医療機器や人的資源の余裕がある国々があれば、それらを使って感染症が大流行している他の国を助けることで、感染拡大やウイルスの変異が抑えられるなどの効果を生み、結果として支援する側の国にとっても大きな利益になります。

 今年のノーベル平和賞は、国際的に連携して問題解決に取り組むことの重要性を私たちに訴えかけているのではないでしょうか。 

動画で戦争を振り返る

 新型コロナの影響で、各地の戦争や平和に関する資料館や博物館等も、閉館や入場制限を設けての運営を強いられています。それらの施設を直接訪れ、資料を見学する機会が減っていることは残念ですが、自宅にいながらインターネット等を使って学ぶことができる取り組みがあり、今年に入って内容の充実が進んでいる事例もあります。

 広島平和記念資料館では、被爆体験者による講話等の事業を休止されているものの、資料館を訪れることができなくなった方のために、ホームページ上に「被爆体験講話が視聴いただけます」というコーナーを設け、過去に被爆体験者が修学旅行生等に向けて自らの体験や平和への思いを語った映像を掲載しています。

 また、以前から広島市では、YouTubeに「The city of Hiroshima」という独自のチャンネルを設け、市政情報と並行して、被爆の証言映像や、原爆投下後のまちの様子を収めた記録映像を掲載しています。原爆投下後のまちの記録映像としては、病院・救護所の様子や原爆による爆風や熱線の影響等についての貴重な動画資料から、多くのことを学ぶことができます。

 長崎市では、令和2年6月1日から長崎原爆資料館を開館しているものの、来館をためらっている方のために、「自宅で学べる原爆オンラインツール」として、ウェブページ上に様々な観点から原爆投下の解説をするコーナーを設けています。特に「バーチャルツアー」では、市民活動団体の方が長崎原爆資料館の館内を案内しながら、被害や救援活動、原爆投下後の国際社会情勢等に関する展示物等について説明される様子が掲載されており、インターネット上で資料館の展示内容を学ぶことができるような工夫がなされています。

 このように、直接各地の施設を訪れなくても、インターネット等を通して平和について学ぶことができる取り組みが行われています。この「バーチャル平和祈念館」トップページの「リンク集」からも、広島平和記念資料館や長崎原爆資料館等、戦争と平和に関する施設のウェブページを訪れて、様々な取り組みについて学ぶことができますので、皆様も閲覧してみてはいかがでしょうか。

数字の背景にある真実を見つめる

 第二次世界大戦が終わって75回目の終戦の日を迎えました。それは、広島と長崎に原爆が投下されて75年が経ったということでもあります。

 広島市と長崎市のホームページによると、原爆投下以降、昭和20年末までの約5か月間で、広島市内では推計で14万人以上、長崎市内でも推計で7万人以上もの人が亡くなられたそうです。そして、原爆は今もなお、原爆症等で被爆者を苦しめています。厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ国内の被爆者は、令和元年度末で13万6,682人。その平均年齢は83.31歳とのことです。この数字は、あらためて、原爆の恐ろしさや悲惨さを私たちに訴えるとともに、被爆者が年々少なくなっている今、広島と長崎の記憶を次世代に伝えていくことが急務であることを物語っているのではないでしょうか。

 長岡京市では、昨年開催した「平和を考える市民フォーラム’19」で、広島平和記念資料館前館長の志賀賢治さんにご講演をいただきました。志賀さんが、展示資料の紹介等を交えながら原爆投下前後に広島で起こったことについて語るのを聞いて、多くの参加者は原爆や広島についての理解を深め、その被害の悲惨さや恐ろしさをあらためて強く感じられたことと思います。

 志賀さんは語りかけました。「原爆や核兵器のことを語られるとき、数字の大きさで語られることが多いです。何万人死にました、何万トンの爆風でしたと。しかし、その数字の背後には、一人一人の苦しみがあるのです」と。戦争や原爆を語り継ぐとき、数字だけを一人歩きさせず、その背後にある真実を見つめることが大切だと志賀さんは伝えたかったのだと思います。

 現在の日本では、自分自身や身近な人が戦争によって命を落とすことを想像することが難しくなっています。ただ、戦争が起これば、私たちが当事者として、苦しみを背負うことになるかもしれないのです。広島や長崎で起こったことや、志賀さんの言葉を胸に刻み、戦争で犠牲になった方々への追悼と恒久の平和を祈りながら、あらためて、「戦争」とは何か、「原爆」とは何か、「平和」とは何かについて考える75回目の夏にしたいと思います。

「平和の日」にそれぞれの思いを寄せて

 今年は、あの「神足空襲」から75年の節目の年です。

 長岡京市では、昭和20年7月19日、神足地区の工場などが米軍の空襲を受け、1人の犠牲者と数名の負傷者を出しました。これが乙訓地区唯一の空襲「神足空襲」です。

 長岡京市では、その7月19日を「平和の日」と定めています。

 毎年、この時期には、JR長岡京駅東口近くにある「平和祈念碑」と、長岡天満宮境内にある「戦没者追悼之碑」では、犠牲者への追悼と恒久の平和を願い、「献花式」を行っています。

 今年は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、出席者を限定する中で、「平和の日」に開催され、市関係者や市民の皆様による献花、「平和祈念碑」では、市民や保育所の子どもたちが作った折り鶴も献納されるなど、それぞれが平和への思いを新たにしました。

 みなさんも、身近にあった悲劇に思いを馳せ、「平和」について考えてみてくださいね。

JR長岡京駅東口近くの「平和祈念碑」での献花式の様子

JR長岡京駅東口近くの「平和祈念碑」での献花式

長岡天満宮境内にある「戦没者追悼之碑」での献花式の様子

長岡天満宮境内にある「戦没者追悼之碑」での献花式

 今年は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、「折り鶴」の募集は行いませんでした。それにもかかわらず、たくさんの市民の皆様が折り鶴をお持ちいただきました。その折り鶴は、8月6日に行われる、「広島平和記念式典」の開催にあわせて、広島市にお送りしました。

 今年もたくさんの折り鶴をいただきありがとうございました。

市役所2階の渡り廊下に展示された折り鶴の写真

今年も、市民の皆様からいただいた折り鶴を市役所で展示しました

75回目の夏

 今年は、戦後75年の節目の年です。「戦後75年」「終戦75年」という言葉を、新聞やテレビ等で見聞きすることが多くなってきました。

 長岡京市でも、今から75年前の昭和20年7月19日、乙訓唯一の空襲「神足空襲」により、1名の尊い命が失われ、数名の負傷者を出しました。

 その悲劇を忘れず、恒久の平和を願う原点とするため、平成元年には、その7月19日を「長岡京市平和の日」と定めました。そして、毎年この時期には「平和を考える市民フォーラム」という平和イベントを開催して、次世代に「戦争の悲惨さ」や「平和の大切さ」「いのちの尊さ」を伝えています。

 残念ながら、今年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、「平和を考える市民フォーラム」も自粛を余儀なくされました。しかし、例年開催しているJR長岡京駅東口近くにある「平和祈念碑」や、長岡天満宮境内にある「戦没者慰霊之碑」での献花式は、規模を縮小しながらも、7月19日の「平和の日」に開催を予定しています。

 「平和祈念碑」での献花式は関係者のみで実施しますが、長岡天満宮境内の八条ヶ池西側付近にある「戦没者慰霊之碑」では、午前9時から10時まで、どなたでもご自由に献花していただけます。なお、献花式の日時等については、広報長岡京やバーチャル平和祈念館にも掲載予定です。

 今年も、あの日から75回目の夏がやってきます。身近にも悲劇があったことを忘れず、「戦争」「平和」や「いのち」のことをあらためて考え、そして次世代に引き継いでいっていただくことを願っています。

「協力」の大切さ

 新型コロナウイルスの感染拡大により、国家間の関係にも悪影響が出ています。

 お互いに感染症への対応について非難し合い、国家元首が自国と他国との関係を全面的に断ってしまうことを検討しているという報道までありました。大国同士の争いの影響で、周りの国々も正しい判断をすることが難しくなっているという側面もあるようです。国と国との連携が断たれ、自国だけで、この危機に対応する動きも目立っています。このような関係の分断や悪化は、残念ながら、国同士だけではなく、私たちの身近な地域社会でも起こっています。

 近年、災害やテロなどの「悲劇」が起こった後、お互いを励まし合う姿がありました。アメリカでは、2001年の同時多発テロの後は「テロとの戦争」という旗印のもとに、また、2013年のボストンマラソンでの爆弾テロ事件後は、「Boston Strong」(ボストンよ、強くあれ)を合言葉に、市民同士が街に出てお互いを励まし合いました。しかし、今回のコロナ禍では、外出が制限されていることもあり、その時のように、市民が手を取りあって団結する姿はあまり見られないようです。

 日本でも、2011年の東日本大震災の後、「がんばろう日本」を合言葉に、お互いを支えあう場面が多く見られましたが、このコロナ禍の中では、自宅で過ごす時間が長くなり、本来協力してウイルスに立ち向かわなければならない「近隣住民」の間にも、騒音等を原因としたトラブルが増えています。人間関係が悪化するケースや、ひどいものでは、身体的や精神的に相手を傷つけてしまう事件まで起こっています。

 しかし、私たちは今、忘れてはならないことがあります。それは、このような危機の中でも、市民の日常生活を維持するために、非常に重要な役割を担い続けている人がいるということです。それは紛れもなく、私たちにとって、身近な存在である「近隣住民」なのです。

 医療・福祉関係、清掃、公共交通、食品、物流等、私たちが生活するために欠かすことができない大切な仕事や役割を担い、自らの危険を顧みずに取り組んでいる人たちが身近にいます。

 私たちは、一人では生きていけません。このような危機の時だからこそ、もう一度、お互いの仕事や活動に敬意を払い、感謝し合いましょう。相手の気持ちに寄り添い、人と接し合いましょう。お互いにコミュニケーションを取る方法を探り、励まし合いましょう。

 国際社会であれ、地域社会であれ、身近な人間関係であれ、「分断」ではなく「協調」「協力」することこそが、安全で平和な社会を実現する手がかりではないでしょうか。

 コロナ禍の大ピンチを乗り越えた時、本当の「平和」がやってくることを信じています。

今こそ、世界がひとつに・・

春がやってきました。

今年の春の景色はいつもと違います。

今年は、太平洋戦争が終わって75年目という節目の年です。あらためて「戦争」の悲惨さや「平和」の大切さ、「命」の尊さについて考える1年にしたいものです。

しかし、私たちは、思いもよらない形で「平和」や「命」のことを真剣かつ深刻に考えることになりました。新型コロナウイルス感染症が、日本中を、世界中を苦しめています。日々刻々と感染者が増え、死亡者が増え、普段の生活が困難になっています。

私たちは、いまだ先行きが見えない不安と恐怖との背中合わせの中、感染拡大を防止するために闘い続ける時間を過ごしています。

日本にとって、これだけ先が見えない時代があったでしょうか。日本は20世紀に大きな戦争を体験し、戦後でも、オイルショック、バブル崩壊、自然災害など、幾度となく大ピンチを経験してきました。しかし、近年、これだけ、世界中を巻き込み、人類が共通して切迫感や危機感を感じる出来事は記憶にあったでしょうか。

このようなウイルス禍は、今から約100年前の1918~1919年(大正7~8年)に世界で大流行したスペイン風邪以来といわれており、当時約5000万人もの犠牲者が出たそうです。人類が20世紀に体験した2度の世界大戦にも匹敵するその犠牲者の数や、得体の知れないウイルスが持つ恐怖心から、この新型コロナウイルス禍を「戦争」という人さえいます。

そんな中、国際連合のアントニオ=グテーレス事務総長は、「紛争を停止し、私たちの命を懸けた真の闘いに力を結集する時が来ています。それは、戦争という病に終止符を打ち、私たちの世界を荒廃させている疾病と闘うことです。」とウイルスと対峙するために世界のあらゆる地域での即時停戦を提唱しました。「世界は、今、ウイルスとの戦いに専念すべきです。」と。

ウイルス禍の今だからこそ考えてみましょう。

「人間同士が争いごとをしている場合でしょうか。」「国同士の争いが小さく思えないでしょうか。」「人間同士の争いとは何でしょうか。」「人間は力を合わせて見えない敵と闘う時ではないでしょうか。」「世界はもはや運命共同体ではないでしょうか。」

この大ピンチを脱するために、今こそ、世界がひとつになる姿をみせたいものです。


「春は必ずやってくる。」 そう信じて・・・・

戦争とオリンピック

 この冬、新型コロナウイルス感染症が、短期間で世界中に広がり、現在、感染拡大防止に向け、国をあげてその対策に取り組まれています。多くのイベントやスポーツ大会も中止や延期を余儀なくされ、目前に迫っている、世界注目の国家的大イベント「東京オリンピック・パラリンピック」でさえ、開催が危ぶまれる声があります。   

 歴史をたどると、近代オリンピックは、1896年(明治29年)にギリシャのアテネで第1回大会が開催されたのですが、それ以来今日まで幾度か中止になった過去があります。

 夏季オリンピックでは、1916年(大正5年)の第6回ベルリン大会(ドイツ)が第一次世界大戦により中止となりました。その後は、国際情勢が不安定の中ですが、1920年(大正9年)の第7回アントワープ大会(ベルギー)から1936年(昭和11年)の第11回ベルリン大会までは続けて開催されました。

 しかし、1940年(昭和15年)の第12会大会は、東京で開催される予定でしたが、日中戦争により中止になってしまいました。日本で初めて、そして、アジアで初めての開催で準備も着々と進んでいた中、戦況の悪化により日本政府が自ら開催権を返上したのです。続く1944年(昭和19年)の第13回ロンドン大会(イギリス)も第二次世界大戦の激化により中止となりました。そして、戦後初めての大会は、1948年(昭和23年)にロンドンで第14回大会が開催されましたが、日本は、敗戦国としての責任を問われ、参加が認められなかったという悲しい歴史もあります。

 夏季オリンピックだけではありません。冬季オリンピックも、本来ならば、1940年(昭和15年)には札幌大会が日本で開催予定でしたが中止となり、続く4年後のコルチナ・ダンペッツォ大会(イタリア)も中止となりました。

 このように、オリンピックは夏季大会が3度、冬季大会で2度、合わせて5度中止となっています。その中止の理由はすべて戦争によるものです。そして、忘れてはならないのは、中止になった5度のうち2度は日本で開催予定だったということです。

 オリンピックは、第14回ロンドン大会以降、今日に至るまで、テロの悲劇やボイコットなど世界の世相に影響を受けながらも開催されています。

 しかし、今だからこそ、「オリンピックができるのは当たり前ではない。」「平和でなければオリンピックはできない。」「平和は当たり前ではない。」ということを、私たちは忘れてはならないのではないでしょうか。

 あらためて、今、「平和」を守り続けることの大切さをかみしめ、オリンピックやパラリンピックが、国籍、人種、宗教などの境を越え、そして、今回の新型コロナウイルス感染症が1日も早く終息し、真の「平和の祭典」として開催されていくことを心から願います。

令和元年のノーベル平和賞

 今年のノーベル平和賞は、エチオピアのアビィ・アハメド首相に授与されました。隣国であるエリトリアとの紛争を終わらせるのに、大きな役割を果たした功績が認められてのことです。自身も兵士だったアビィ首相は、授賞式で戦争の悲惨さについて次のように述べました。

 「エチオピアとエリトリアの間で戦争が起こったとき、私は若い兵士でした。前線で、戦争の醜さを目にしました。戦争を見たことがないのに、賛美し、美化する人がいます。そういう人たちは、戦争の恐怖を見たことがありません。戦争がもたらす疲弊や破壊、悲痛を見たこともなければ、虐殺が終わった後の悲しみに満ちた虚しさを感じたこともありません。戦争は、例えて言えば、関わる人全てにとって地獄なのです。」

 自身が身をもって体験した戦争の惨禍を繰り返してはならないという強い思いが、アビィ首相がエリトリアとの和平のために活動する大きな力になったようです。また、アビィ首相は、平和を維持する難しさについて次のようにも述べています。

 「平和を維持するのは大変な仕事です。平和は、大切に守り育てなければならないものです。戦争を起こすのは簡単なことですが、平和を築くには、村や国みんなの知恵や力を合わせなければなりません。私にとって、平和を守り育てることは、木々を植えて育てることと似ています。」

 残念ながら、今も世界各地で紛争やテロが起こり、尊い命が犠牲になっています。みなさん、アビィ首相の言葉をかみしめ、この年末年始、平和について考えてみましょう。長岡京市は、令和2年も、様々なイベントや活動を通して、平和の大切さを伝えていきます。

終戦の日によせて

先月8月15日は、令和になってはじめての終戦記念日でした。

では、なぜ日本ではこの日が「終戦」の日とされているのでしょうか。

昭和20年8月15日にあった大きな出来事といえば、玉音放送です。

玉音放送とは、「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ…」のフレーズで有名な、太平洋戦争における日本の降伏がラジオから昭和天皇の肉声で直接国民に伝えられたものでした。 

この日は朝から、本日正午のラジオで重大な発表があると知らせがあり、市井の人々はラジオの前に集まってこの放送を聞いたといいます。

実際には、この日から段階を経て終戦となるのですが、日本人にとって国民の多くが戦争の終わりを実感した日として印象が強かったのでしょう。

現代を生きる私たちにとって、8月15日は国民の祝日ではないため、手帳やカレンダーにも書かれていないことも多く、通り過ぎていく日々のひとつにすぎないと感じる人も多いかもしれません。

しかし、74年前のこの日のことを遠い過去の歴史の教科書の1ページととらえるか、自分たちにとっても地続きの出来事として受け取るかどうかは、今を生きる私たちに委ねられています。

終戦から時が経つにしたがって、実際に戦争の体験を克明に語ることができる人は少なくなっていきます。

終戦記念日が、戦争の記憶を次の世代へ伝えていくためにも、戦争や平和について思いをはせる「1日」になればと思います。

長岡京市の「平和の日」

長岡京市では、乙訓唯一の空襲である神足空襲のあった7月19日を、長岡京市の「平和の日」と定めています。

「平和の日」の前後には毎年「平和を考える市民フォーラム」を開催しており、今年は7月13日(土曜日)に開催します。そこで、展示する折り鶴を6月号の広報紙で募集したところ、さっそくたくさんの折り鶴をお持ちいただきました!フォーラムまでの期間、市役所の2階渡り廊下に飾っています。折り鶴は7月9日(火曜日)までまだまだ募集しています。ぜひご参加ください。
折り鶴の写真

折り鶴や千羽鶴が、今のように平和のシンボルとしてのイメージが定着したのはいつからでしょうか。
それは、広島市の広島平和記念公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルである佐々木禎子さんが、原爆症で入院中に「折り鶴を千羽折れば願いがかなう」という言い伝えを知って、薬の包み紙などで折りはじめたことがきっかけです。彼女は、一年足らずの入院期間で1000以上の鶴を折りましたが、願いはかなうことなく、わずか12歳9か月でその生涯を閉じました。
禎子さんの死にショックを受けた小学校の同級生たちが、禎子さんだけでなく、全ての原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰めるために募金活動を行って建てたのが、「原爆の子の像」です。
飾られた折り鶴を目にするとき、託された人々の想いに思いをはせてみてください。

戦時はお米も節約

戦争と節約

 1937年からはじまった日中戦争以降、戦争に際して多くの物資が必要となりました。

そのため、国は国民に対して節制・節約を求めます。

米やお酒などの節約を呼びかけた張り紙
七分づき米、いも飯、豆飯の奨励(神足月報より)

左は今里区で保管されていた張り紙で米やお酒などの節約について書かれています。

また右の文書は神足月報の記事の一部で七分づき米の奨励をしています。

これは七分づき米にすることによって、白米よりも量が増えることから、節米のため、こうしたことが書かれています。

今、日本にいる私たちは比較的自由にご飯を食べていますが、戦時はそうしたことがままなりませんでした。

もし機会があれば、栄養価もある七分づき米を食べて、戦時に思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。


戦争と村葬

戦争で亡くなった人々

戦争をする、ということはもちろん大きな犠牲がでます。

戦争に行く、ということは死ぬこともあります。

日本で70年以上前に起きていた戦争では、多くの死傷者がでました。

そして長岡京市からも多くの戦死者がでました。

当時、村出身の戦死者は国の功労者として村をあげて葬儀がとりおこなわれました。

これを村葬といいます。

当時、長岡京市にあった村で行われた葬式の様子

当時、長岡京市にあった村で行われた葬式の様子(村葬)

画像は長岡京にあった村で行われた葬儀の様子です。

長岡京では空襲をうけて戦死者がでたという話がよく語られます。

しかし、当時、多くの人が戦争に行って亡くなったことも忘れず、戦争とは何か平和とは何かを考えることが大事なことだと感じています。


働く子どもたち

小学生が働いていた

日中戦争以降、戦争が長期化、激化すると、働き手である青年層の多くが戦地に行ってしまいました。

その結果、生産力の低下が危ぶまれ、国は様々な政策によって多くの人を働き手として動員しました。

その影響は大人たちだけでなく学生たちにも及びました。

本市の神足小学校の記録によると、掃除や稲わら運搬、害虫駆除まで様々な分野で小学生たちが働き手として重宝されました。


稲の収穫(戦時の神足小学校)

戦時における神足小学校の学生による稲の収穫の様子
(神足小学校所蔵)

今、小学生が授業の一環で労働力として働かされることなんて想像も出来ません。

しかし、そんなことも当時、小学生だった人に聞くと当たり前だったそうです。

そして未だに現代でも、世界中で戦争などの影響により、働かざるを得ない子どもがたくさんいます。

そうした状況下で働く子どもたちの写真を見ると胸が痛みます。

自由に学び、自由に遊ぶことができる平和な世界。

世界がそうなれば、たくさんの子どもたちの笑顔が見ることが出来る気がします。


平成と平和

多くの平和施策を行った平成

2019年の途中から元号が新しくなります。

長岡京市の「平和の日」が7月19日のため、2018年7月19日が平成最後の「平和の日」だったということになります。

平成に行われた本市の平和施策を振り返ると、正に平成が平和施策を推進する大きな時期だったことが分かります。

昭和から平成にかわった当時、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えるため、平成元年から本格的に平和施策は始まりました。

「長岡京市平和ビジョン懇談会」の設置、「平和の日」の制定。そして戦争の記憶を伝えるための「平和祈念碑」建立。

平成2年開催の「平和を考える市民フォーラム」のチラシ

「平和を考える市民フォーラム’90」のチラシ(平成2年開催)

また、平成2年には「平和を考える市民フォーラム」が初めて開催され、今なお続いています。

以降も「戦没者追悼の碑」の建立や「いのち輝く長岡京市平和都市宣言」など、平和を目指した歩みを続けました。

そして、平成最後の1年となる平成30年7月には「長岡京市バーチャル平和祈念館」を市ホームページ上で開設しました。

これから年数が経つにつれ、戦争の記憶は伝える人々の減少により、薄くなっていくでしょう。

しかし、記録を残し、平和の大切さを伝えていくことは、まだまだ大きな意味を持っています。

元号が変わっても、本市では平成と同じように、平和の大切さをこれからも伝え続けていきたいと思います。


戦時中の小学生の作文(11月の平和コラム)

神足月報からみる戦時中の児童作文

長岡京市の神足小学校では、1935年から「神足月報」という情報誌が発行されていました。

その情報誌には地域の情報や小学校の行事など、様々なことが書かれています。

そして、この「神足月報」もまた戦争の影響を大きく受けています。

ここでは小学生の作文を中心に紹介していきます。

まず一つ目は1936年の「神足月報」に掲載された文章です。

神足小学校の児童作文

神足小学校の児童作文
タイトル:うさぎ

この頃は「花火」「アサガオ」「遠足」といったタイトルの作文がみられ、内容も児童らしい、ほのぼのしたものが多い傾向にありました。

とはいえ、国の情勢に影響を受けて満州に関する文章もごく少数ですが、ありました。

戦争に関連する作文が増えていったのは1938年頃からです。日中戦争がはじまった1937年の翌年にあたるため、戦争が国民に深くかかわってきたものと考えられます。

特に1939年からの児童作文は、ほとんどが「兵隊さんへ」というタイトルで埋め尽くされました。

小学生の作文(兵隊さんへ)

神足小学校の児童作文(1938年掲載)
タイトル:兵隊さんへ
「兵隊さんへ」というタイトルの作文はほとんどが同じような内容のものでした。

最後にもう一つ「兵隊さんへ」という文章を紹介します。

この文章が他と違うところは、文章を書いた小学4年生の男の子のお父さんが戦争で亡くなっている点です。

兵隊さんへ(父親をなくした児童作文)

神足小学校の児童作文(1940年掲載)
タイトル:兵隊さんへ
この文章を書いた児童は父親を戦争で亡くしています

この文章を見ると、いろいろなことを考えさせられます。

戦争によってもたらされる悲しみ。そして戦争一色に染まる「神足月報」。

事実、この後に掲載される児童作文でも、父や兄の出兵、そして戦死に関する文章が多くみられます。

文章の中で悲しみは強く出せないけれども、実際には多くの悲しみがあったと思います。

こうした悲しい作文が二度と出ることがないよう、世界が平和であってほしいものです。

※「神足月報」の内容の一部はバーチャル平和祈念館のギャラリー内にも掲載されています。


身近なところに戦争の記録(10月の平和コラム)

立ち止まって見渡してみて(戦争の記録)

普段、道を歩いていても中々周りの景色に気づかないものです。

ですが、少し立ち止まってみてみると、ここにこんな物があったのか、こんな綺麗な景色があったのか、とふと気が付きます。

それと同じように、戦争に関する記録も見渡せば残っていたりします。

ここでは、その2つを紹介したいと思います。


まず一つ目、長岡京市の「平和」の象徴とも言える平和祈念碑です。

JR長岡京駅東口のすぐ近くにあります。

多くの人が近くを通っていると思いますが、気づいている人は少ないのではないのでしょうか?

平和祈念碑の画像

平和祈念碑
JR長岡京駅東口を出てすぐ右手にあります

平和祈念碑は1945年7月19日に受けた空襲(神足空襲)を物語る碑です。

この空襲では一人の尊い命が失われました。

その記憶を忘れないよう、空襲の跡が残っていた煙突を5分の1サイズに復元し、元の煙突があったところと近い場所に建てられています。

近くを通った際は、是非寄ってみてください。


次に2つ目。こちらは忠魂碑といって光明寺にあります。

忠魂碑は何かというと、戦争で亡くなった方をしのんで建てられたものです。

実際、長岡京市からも多くの人が出兵し、そして命をおとしました。

忠魂碑の画像

光明寺にある忠魂碑の画像
(忠魂碑は光明寺以外にも走田神社、神足小学校の横などにあります)

忠魂碑の画像(遠目)

木の陰にかくれているため少し見えにくいです(画像上の部分)

この忠魂碑は光明寺の総門から入り、階段途中の左手にあります。

これから間もなく紅葉が綺麗な季節がやってきます。

是非その機会に少し意識しながら見つけてみてはいかがでしょう。


学校で平和を学ぶ(9月の平和コラム)

学校での平和学習

本市では平和意識の向上のため、主に小学生への平和学習を毎年実施しています。

平成30年度は長岡第四小学校で6年生を対象に授業を実施しました。

授業は6月に行われ、当時開設予定であったバーチャル平和祈念館の情報を元に、京都府立大学文学部教授(長岡京市平和ビジョン懇談会会長)の小林啓治氏から当時の戦争や学校の様子等について話をしていだきました。

授業では小林教授が質問をするたびに、多くの生徒がその質問に回答し、活発に学ぶ様子が見られました。

この授業で特に担当者も驚いたのが、休憩時間であっても、小林教授のもとに子どもたちが集まって、戦争や平和に関する質問をしており、最近の子どもたちもしっかり世界の情勢をみているんだと感心させられました。

平和学習の様子

長岡第四小学校における平和学習の様子

6月の授業からおよそ1か月後、市の啓発イベント「平和を考える市民フォーラム’18」を実施しました。

その展示コーナーでは、子どもたちが授業を受けて学習し、そして感じたことをまとめた作品を掲示しました。

展示全体の様子

展示(全体)の様子

展示(一枚目)

展示(一枚目)の様子

展示の様子(二枚目)

展示(二枚目)の様子

展示の様子(三枚目)

展示(三枚目)の様子

日本において大きな戦争があったにも関わらず、子どもも大人も平和について学ぶ機会は地域差もありますが、意外に少ないかもしれません。

しかし、多くの人が実際には平和について意識しているのではないでしょうか?

平和学習やこのバーチャル平和祈念館の取り組みが、平和について考える多くの人の一助になればと思います。


8月15日と平和への想い(8月のコラム)

「うれしいときはどんなとき?~あなたが平和を感じる瞬間~」

 1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇が玉音放送で戦争終結を告げたことにより、日本の国民は敗戦を知ることとなりました。

政府はこの8月15日を忘れることがないよう、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めています。

長岡京市でも、乙訓唯一の空襲である神足空襲があった7月19日を、平和について考える「平和の日」と定め、毎年平和メッセージを募集しています。

今年のテーマは「うれしいときはどんなとき?~あなたが平和を感じる瞬間~」でした。

市内小学生を中心にたくさんのメッセージが寄せられました。

そのメッセージの一部を、ここで紹介します。

 

(市内の学生)

「いつも笑っているとき」

「家族といつも一緒にごはんを食べているとき」

「自由に夢を考えられるとき」

「学校に毎日通えること」

「犬があおむけで寝ているのを見るとき」

「戦争がないとき」

「友達と楽しく遊んでいるとき」

「他の人が優しくしてくれるとき、助けあえるとき」

「ありがとうと言えるとき、言われるとき」

「好きなうたをきいているとき」

「大好きな野球をしているとき」

「どこにでも行ける、やりたいことやれる、前を向いて進んでいける」


(大人)

「朝起きたとき、こどもの寝顔にふれたとき」

「子どもと奥さんが笑顔のとき」

「まちのこどもたちが元気いっぱい外で遊んでいる姿をみたとき」

「家族でたわいもないことで笑っているとき」

「今日も1日おだやかに、すこやかに過ごせたなぁと感謝できたとき」

「みんながほしいものを手に入れ、おいしいものを食べられるとき、平和のありがたさを感じます」

「家族みんなが一緒にいられるとき」

 

メッセージにあるような平和なときが、ずっと続きますように・・・

8月15日を迎えるにあたり、是非このバーチャル平和祈念館をご覧いただき、平和について考えてみてください。

 

(お知らせ)8月14日、15日の京都新聞洛西版にて長岡京市の平和の取り組みについて取り上げられています、是非ご覧ください。


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長岡京市対話推進部人権推進課人権平和推進担当

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