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神足空襲

  • ID:7783

長岡京市でも空襲があったこと、知っていますか。

終戦まであと少し、昭和20年(1945年)7月19日の出来事でした。

アメリカ軍のP51戦闘機が突然、天王山方面から飛来し、神足地区(今のJR長岡京駅近く)の工場や民家を機関銃で攻撃しました。

この攻撃によって、工場で働いていた1名の女性が亡くなり、他にも数名の方がケガをしました。

これが乙訓唯一の空襲、神足空襲です。


空襲を受けた地区は当時、新工業地域になっており、日本輸送機の工場は政府からの命令により、人間魚雷「回天」の部品を製造していたと言われています。

攻撃目標となった要因としては、煙突の高さが20メートルほどあり目標にしやすかったためと考えられています。

8月15日の終戦まであと27日の出来事でした。


神足空襲の弾のあとは工場の煙突に残り、戦後も戦争の記憶を伝え続けていましたが、倒れる危険が出てきたため、昭和62年(1987年)に取り壊されました。


神足空襲のあとが残る煙突

神足空襲のあとが残る煙突(当時)

薬きょう

神足空襲のあった日に発見された薬きょう

神足空襲被害者の姉 岡田ヒサ子さんによる体験記

昭和20年7月19日は、私の一生涯忘れることのできない悪夢の日であった。

この日私は、猫の額ほどしかない裏の畑にできたきゅうりを、空腹のあまり塩もつけずにかじっていた。

その時突然、南の空でザァーザザーという銃声音が聞こえた。山崎あたりが空襲にあったのだろうかと思った。

しばらくたって、自転車に乗ったいとこが、かけこんで来た。

「弘子がやられた。」

「助からんかもわからへん。」

と言葉は続いた。私ははじめ何のことかわからなかったが、いとこの顔色を見て、次の言葉を出すのがこわかった。

うそであってほしいと願った。しかし返事は同じことであった。

取るものも取りあえず、自転車に乗せてもらい、輸送機の現場へかけつけた。

しかしそこには妹の姿は見られず、ただ鮮血がボタボタと地面に流れていた。そこへ労務課長さんが出てこられて

「大変申しわけないことをしてしまった。今、トラックで日赤へ運んで行ったところです。」といわれた。

私はすぐにあとを追って、国鉄神足駅までかけつけた。

ところが空襲が激しかったためか、電車は思うようにこなかった。1時間も待ったであろうか。やっと電車に乗ることができた。

車中ではどうか助かるようにと、ただ祈る気持ちでいっぱいであった。

1時過ぎに日赤に着いたが、まだ妹の姿は見られなかった。

半時間ほどたっただろうか、あわただしく運ばれてきた担架に、妹の横たわった姿を見た。担架からは真っ赤な血がしたたっていた。

看護婦さんも思わすヒャアーと顔をおおっておられた。今もその姿が忘れられない。私はかけよって

「しっかりして。」

と励ました。妹は小鼻をピクピクと動かしながら

「死ぬのはいやや。」

と、何度も繰り返し、願うようにいった。この言葉は28年間、片時も私の耳もとからはなれなかった。

妹の傷は右肩から左肺を貫通して、ざくろのように大きく口を開けていた。

「水が欲しい。」

というので、水をふくませたガーゼを口に当ててやると、ガーゼぐち飲みこんでしまった。

あの時コップ一ぱいの水を飲ませてやっておけばよかったと、悔やまれてならない。

日赤では、あまりにも傷がひどいので、応急手当てしかできない。府立病院へまわってくれといわれた。

仕方なしにトラックの荷台に乗せ、炎天下をゆられて行った。

すでに虫の息であった。病室から出てこられたお医者さんにすがりついて

「兄も戦死しました。妹だけは何とかして助けてください。」

と、泣きついて白衣をはなさなかった。

2時30分、お医者さんが白いガラス棒を、舌をかまないように口にはさまれて、

「ご臨終です。」

といわれた。

私は放心状態になっていたのであろう。

「お姉さん、しっかりしてください。」

という声がかすかに残っている。

再び遺体をトラックに乗せて、デコボコの田んぼ道を家へと急いだ。

その夜も警戒警報発令。灯りもつけられず、本当に寂しいお通夜だった。

当時妹は16才。今、家には色あせた、全優でうまった中学時代の通知簿が残っているのみである。

戦争の犠牲になって死んだ、たった一人の仲の良かった妹。

この妹のために、妹の死を無にしないように、この七月、向日市の寺戸墓地にささやかな石碑を建ててやった。

「-機銃掃射により戦死す-。」

裏面にはっきり刻みこんでやった。



恒久平和への祈りを込めた平和祈念碑の掛け軸

作者   福川 良 氏
提供者 加納 トミ 氏

現在、神足空襲で攻撃を受けた煙突は、JR長岡京駅東口広場に「平和祈念碑」として復元されています。

大戦の傷跡を残す煙突を五分の一の大きさのミニチュアとして復元し、

戦争の悲惨さを次の世代へと伝える証人として建立したものです。

長岡京市では、二度とこのような悲劇を繰り返さないことを誓い、平和への願いをこめ、
神足空襲のあった7月19日を「平和の日」として制定しています。