戦時のようす
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地域における戦時中の暮らし
戦時中のようすを地域に残っている写真をもとに紹介していきます。
長岡天満宮での渡満兵武運長久祈願
神足小学校の生徒たちが、満州へ出征した兵士たちが無事であることと戦争に勝つことを願う「武運長久」祈願を長岡天満宮で行いました。
勤労奉仕
戦争が続くと働き手である青年が多く出兵しました。
その反面国においては物資の確保のため、生産力を増やすことが必要不可欠でした。
そのため、すべての国民をもって働くよう「国民皆労体制」が徹底されました。
こうした体制は学校においても例外ではなく、児童たちも生産を担う一要員として班分けされ、学校の授業の一つとして農作業や清掃などを行いました。
神足小学校における勤労奉仕校門出発の様子
勤労奉仕団による農作業の様子
画像の右には「神足小学校勤労奉仕団」と書かれた旗が立っています
道路清掃の様子
稲わら運搬作業の様子
貯金の奨励
日中戦争以降、長期化する戦争のため多額の戦費を必要としました。
政府は国債の発行や貯蓄の奨励を行い戦費を賄おうとします。
1941年(昭和16年)には「国民貯蓄組合法」が制定され、すべての国民が地域や職場など、いずれかの組合で貯金することが求められました。
画像では、学校でも貯金の大切さを伝えるため、神足小学校の鍛錬会において、「チョキン」という人文字をつくるプログラムがありました。
体錬大会
第二次世界大戦の後期には運動会が「体錬大会」という呼び名になり、戦争に資するため健全な体作りが推奨されました。
この体錬大会では戦争に関するプログラムが多く組み込まれ、「錬成」してきた成果を学校の教員や保護者だけでなく地域の人々に披露する場でもありました。
体錬大会武道(男子の部で木刀を持っている)
体錬大会薙刀(女子の部)
授業風景
長法寺小学校での授業の風景。
授業を受けているのは女子ですが、全員髪型がおかっぱだということが見てとれます。
なお、男子は全員丸坊主でした。
神足小学校での授業風景。
黒板には「日本ー神国」や「支那事変」「大東亜戦争」といった言葉が書かれており、当時の戦争に関する徹底した教育が見てとれます。
奉安殿
奉安殿は大正の終わりから昭和のはじめにかけて、学校に「御真影(天皇・皇后のお写真)」や「教育勅語」などを保管するために建てられた施設です。
職員・児童は朝夕必ず「御真影」にお辞儀することが義務付けられました。
奉安殿の多くは敗戦後に取り壊されました。
村葬
戦争がはじまると長岡京からも多くの兵士が戦場に向かいました。
戦争に出征することは男子の本懐とされ、村をあげて出兵する者を見送っていました。
戦死した者に対しては国への功労者として、村をあげて葬儀が行われました。