神足月報(戦時中の文書)
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神足月報(戦時中の文書)
戦時中のようすを、神足小学校が発行する月報「神足月報」により時系列で解説しています。
注:1935年から1941年までの資料を紹介。1942年以降は資料を発見できておらず、当時の物資不足の事情等から発行数が限られていたためと考えられます。
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神足月報発刊 1935年5月発行にて掲載
![神足月報発刊の画像](./cmsfiles/contents/0000007/7842/hakkann.jpg)
神足月報の発刊目的が記されています。
学校の教育方針や日々の行事、保護者への希望のほかに、村の各種の計画事業を通知することを目的としていました。
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小学生の作文 「兵隊さん」 1935年5月発行にて掲載
![小学生の作文「兵隊さんへ」の画像](./cmsfiles/contents/0000007/7842/syougakuseisakubunnheitaisannhe.jpg)
「満州国」に駐屯している兵士にあてて書いた小学生の作文。
「満州国」の統治に抵抗する中国の人々は「匪賊(ひぞく)」とされ、討伐の対象となりました。
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中山村長渡満の報 1935年5月発行にて掲載
当時の中山村長が、「満州国」国境警備や治安維持にあたっている第16師団を慰問しました。
1934年4月以来、第16師団から抽出された部隊がこの任務についていました。
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新神足村軍人至誠会旗入魂式 1935年12月発行にて掲載
1934年に兵役を終えた人たちによって、「国家非常時」ということで「軍人至誠会」が結成されていました。
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読方教育について 1936年6月発行にて掲載
満洲事変は「民族的発展躍進」の契機とされ、不況と二度の水害(1934・1935年)に見舞われた村の復興を担うべき子供たちの教育が強調されています。
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国防婦人会だより(兵士の出迎えなどの活動) 1936年7月発行にて掲載
「満洲国」に駐屯していた第16師団が帰還。
国防婦人会は出迎えの活動を積極的に行っていました。
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国防婦人会・主婦会活動日記 1936年1月発行にて掲載
軍隊の慰問や兵営見学など、国防婦人会は軍事に深く関わっていました。
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1937(昭和12)年を迎えて 1937年1月発行にて掲載
「国運の弥栄」を祈り「万邦無比なる我国体」のために努力せんとする想いが記されています。
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新校舎「落成」 1937年2月発行にて掲載
新校舎が落成。学校の沿革によれば、1928年に「御真影」を下賜され、奉安殿が落成したことがわかります。
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校長の所感 1937年9月発行にて掲載
1937年7月7日の盧溝橋事件によって日中戦争が開始。小学校は「報国教育第一線」と位置づけられ、戦争に巻き込まれていきました。
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校長の所感 1937年12月発行にて掲載
南京陥落は目前とし、蒋介石の長期抵抗構想を揶揄しています。
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古市区の銃後活動/報国貯金 1937年12月発行にて掲載
勤労奉仕などの銃後の活動が活発化し、産業組合を通じて協同で国債に応募するために貯金が強く奨励されました。
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祝皇軍大捷 祈武運長久 1938年1月発行にて掲載
戦勝と日独伊三国防共協定(1937年11月)を最大級の言葉で賞賛しながら、熱狂することなく、銃後の護りを固くすることを呼びかけています。
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火の波 昼夜の祝賀行列 1938年1月発行にて掲載
![火の波 昼夜の祝賀行列の記事の画像](./cmsfiles/contents/0000007/7842/435hinonami_2018071210290166.jpg)
1937年12月13日、南京が陥落し、日本全土で勝利を祝して提灯行事が行われました。
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非常時財政経済への協力 1938年1月発行にて掲載
輸入を抑え、資源を戦争に振り向けるために、節約・無駄の廃止について事細かに指示が出されました。
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陣中だより 1938年1月発行にて掲載
出征した兵士から学校宛に手紙が送られ、その一部が掲載されました。
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小学生の慰問文 1938年1月発行にて掲載
小学生が兵士に宛てて書いた手紙が掲載されました。
「兵隊さんへ」のような内容が定型で、誰が書いても内容はほとんど変わりませんでした。
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郵便局の窓口から(簡易保険) 1938年1月発行にて掲載
さらなる動員が見込まれる中、簡易保険において応召軍人への特別な措置が取られました。
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広告(皇軍大捷 南京陥落) 1938年1月発行にて掲載
「皇軍大捷」のスローガンのもとに、新神足村内外の企業や商店の広告が掲載されました。
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国民精神総動員の意味 1938年2月発行にて掲載
日中戦争開始直後の1937年8月から、政府は国民を戦争協力に動員するために、国民精神総動員運動を開始しました。
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陣中だより 1938年2月発行にて掲載
兵士は小学生宛にも手紙を書き、小学生が兵士あてに慰問文を書く動機付けとなりました。
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皇軍慰問号/非常時局と教育方針 1938年6月発行にて掲載
![皇軍慰問号/非常時局と教育方針の記事の画像](./cmsfiles/contents/0000007/7842/463kougunimongou_2018071210291225.jpg)
この号は「皇軍慰問号」として兵士に送られました
(理由は不明ですが、ここから号の番号が後戻りしています。)
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寄稿規定 1938年6月発行にて掲載
投稿規定が神足月報の性格を示しています。
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小学生の作文「お父さんの出征」 1938年6月発行にて掲載
父親の出征の状況が素直に描写されています。
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貯蓄報国 1938年7月発行にて掲載
戦争によって増大した国債の消化と、生産力拡充資金供給のために、貯蓄奨励の運動が繰り返し行われました。
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児童の労力奉仕 1938年7月発行にて掲載
小学生は出征兵士の家族を助けて労働したり、稲の害虫駆除にあたったりしました。
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数え歌(神足郵便局)1938年7月発行にて掲載
国策にからめて簡易保険や貯蓄を勧奨する数え歌
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皇軍慰問号 1939年8月発行にて掲載
日中戦争開始1周年の慰問号
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小学生の慰問文 1939年8月発行にて掲載
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名誉の戦死者 1939年8月発行にて掲載
この時期には戦死者数が比較的少なく、美談を織り交ぜて戦死の状況が詳しく記されました。
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習字 作文 1939年8月発行にて掲載
国家的スローガンがそのまま習字の題材となりました。ここから2頁以上にわたって小学生の兵士への慰問文で埋めつくされました。
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体育大会 1938年10月発行にて掲載
出征兵士遺家族が招待され、講堂では「支那事変展覧会」が行われました。
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1938(昭和13)年を送って 1938年12月発行にて掲載
1938(昭和13)年を振り返り、「燦たる戦果」と言いつつも、見通しのつかない戦況に長期戦を覚悟するよう呼びかけています。
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1939(昭和14)年を迎えて 1939年1月発行にて掲載
新たに「興亜」のスローガンが登場し、「亜細亜平和の建設」が唱えられています。
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神足村文化調査 1939年1月発行にて掲載
新聞、ラジオ、雑誌の普及率を六年生女子が調査しました。
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新神足村秋季体育大会 1939年1月発行にて掲載
徐州・武漢「攻略戦」で戦死した兵士の遺品も展示されました。
戦時色が濃厚な競技内容
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日中戦争3年目に突入 1939年7月発行にて掲載
国民はすべて「国家総力戦の戦士」として位置づけられました。
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小学生の勤労奉仕 1939年7月発行にて掲載
3年生以上は「勤労奉仕団」を組織しました。
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新神足村の銃後の組織 1939年8月発行にて掲載
村の主な団体は銃後を支える組織として位置づけられました。
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勤労奉仕と修学旅行の作文 1939年8月発行にて掲載
6年生は修学旅行で西宮で開催されていた「東亜建設大博覧会」を見学しました。
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府会議員選挙への投票喚起 1939年9月発行にて掲載
選挙による参政は「大政翼賛」の責務と位置づけられました。
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石炭消費節約運動 1939年10月発行にて掲載
「京都府広報」の転載。
戦争の長期化にともない、家庭でも資源の節約が求めらました。
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1939(昭和14)年を送って 1939年12月発行にて掲載
「皇軍」への感謝の念が薄らいでいるという懸念のもと、「皇紀二六〇〇年」奉祝を掲げた慰問号を編集して引き締めがはかられました。
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七部搗米のはじまり 1939年12月発行にて掲載
七部搗米の強制によって年間300万石の節米効果があるとされ、麦飯・いも飯・豆飯も推奨されました。
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「皇紀二六〇〇年」を迎えて 1940年1月発行にて掲載
高田校長は、親日反共的な汪兆銘の政権が準備されていることを伝え、今年こそ「東亜の建設に一大躍進」を期すべき年としました。
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小学生の作文 1940年1月発行にて掲載
父が戦死した児童(4年生男子)の作文があります。
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銃後の開田区 1940年1月発行にて掲載
開田区の銃後の活動が詳細に記述されました。こうした身近な人たちの情報が兵士たちに喜ばれました。「早く、支那兵を降参させて下さい」と願う四年生女子の作文もあります。
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戦死者の追悼 1940年2月発行にて掲載
毎朝神参りを欠かさなかった母親の願いもむなしく戦死した兵士は「興亜の礎石」として称揚されました。
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薫る忠魂 1940年3月発行にて掲載
戦場で負傷したり病気になった兵士は複雑な思いを抱きました。父親宛の私信では「お詫びの申しようがない」という気持ちを述べています。
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小学校の学芸大会 1940年5月発行にて掲載
3年生以上は、戦時体制下の生活を取り上げ、悲劇性も織りまぜて望ましい国民像を演じました。
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日中戦争開始から3年 1940年8月発行にて掲載
「聖戦三周年」を迎えて合同慰霊祭が執行され、遺家族を招待して講演会や余興が行われました。
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防空訓練と家庭防護組合 1940年9月発行にて掲載
防空訓練が一面トップで扱われ、防空による戦時体制の強化が図られました。前年(1939年)に設置された家庭防護組合が、防空・防災の「第一線」として位置づけられています。
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日独伊三国同盟成立 1940年10月発行にて掲載
![日独伊三国同盟成立の記事の画像](./cmsfiles/contents/0000007/7842/578nitidokuisanngokugunnji_2018071114293832.jpg)
主義主張を同じくする日独伊の同盟を歓迎しつつも、他力に依存することなく「大東亜共栄圏」の確立に邁進すべきことを述べています。
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兵士からの礼状 1940年10月発行にて掲載
戦地に届いた月報により兵士は故郷の出来事を知り、故郷との精神的つながりを再確認しました。
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体育大会 1940年11月発行にて掲載
小学生、青年学校生徒、各種団体を網羅した大行進を呼び物にして、競技内容は一層戦時色を強めました。
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紀元2600年の奉祝式典 1940年11月発行にて掲載
宮城外苑での奉祝式典に合わせて、新神足村でも多くの村民が小学校校庭に参集して奉祝式典が行われました。
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大政翼賛会新神足村支部の結成 1941年2月発行にて掲載
第2次近衛文麿内閣によって、新体制運動を推進する組織として、1940年(昭和15)10月に大政翼賛会が結成されました。その下部組織として地方行政区域に対応して大政翼賛会支部が設けられました。
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小学校から国民学校へ 1941年3月発行にて掲載
1941年3月国民学校令が公布され、4月から小学校は国民学校に改められました。「皇国ノ道」にのっとり国民の「基礎的錬成」をなすことを目的としていました。
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新神足村青少年団の結成 1941年5月発行にて掲載
1941年1月、青年団、女子青年団、少年団などの全国組織を統合して国家の強い指導下に置くために「大日本青少年団」が結成されました。4月29日(「天長節」)は全国一斉入団日とされました。
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慰問号に託して/国民学校鍛錬の八月 1941年8月発行にて掲載
1941年7月、日本はフランス領インドシナ南部へ進駐し、アメリカの強い反発を招きました。世界情勢の緊迫化を機とし、神足国民学校は「皇民錬成」のプログラムを作成しました。
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お兄さんの出征 1941年8月発行にて掲載
兄の出征は、骨になって「凱旋」することを子供にも覚悟させました。子供たちは身内が出征した場合、どのような態度をとるべきかが教え込まれました。