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2 大王の息吹(7つのものがたり)

  • ID:13560

巨大な古墳が出現!大王の息吹を体感

古墳時代、大小さまざまな古墳がつくられ、現在もその息吹を体感することができます。当時の暮らしがわかる遺跡も数多く見つかっています。

主な構成要素

恵解山古墳

乙訓最大の古墳

恵解山古墳

鉄製武器類の出土

恵解山古墳

水鳥形埴輪

恵解山古墳

緑と埴輪

今里車塚古墳

埋もれていた古墳

七ツ塚古墳

7つの古墳が並ぶ

七ツ塚古墳

古墳時代のアクセサリー

今里大塚古墳

京都最大級の石室

「弟国」墨書土器

「弟国宮」と同じ文字

「大王の息吹」の概要

 古墳時代は、日本列島各地に大小さまざまな古墳が築かれた期間で、3世紀後半から7世紀前半まで、約400年間続きました。古墳が築かれた地域は、近畿を中心とする緩やかな政治体制のなかに組み込まれていたと考えられ、本市域でも4世紀後半からその築造が確認できます。
 本市域で最も古い首長墓の長法寺南原古墳は、西山山麓に立地し、その後平野部に今里車塚古墳や乙訓地方最大の恵解山古墳が、古墳時代後期に至って、井ノ内車塚古墳や今里大塚古墳などが築かれました。また、西山山麓には大原古墳群などの群集墳、平野部には塚本古墳などのように、発掘調査で初めて確認された古墳・群集墳も分布しています。
 5世紀中頃の恵解山古墳は桂川右岸の台地端に立地し、全長は約128mと推定され、周濠を含めると約180mに及びます。昭和55年(1980)の発掘調査で副葬品埋納施設が見つかり、約700点にのぼる鉄製武器が確認されました。こうした事例は全国的にも珍しいもので、被葬者が乙訓地方全体を支配した権力者であったとともに、中央政権がいかにこの地域を重要視したかがわかります。古墳は国史跡に、鉄製武器などの出土品は京都府指定有形文化財にそれぞれ指定されました。その後、恵解山古墳をはじめ、13基の首長墓が「乙訓古墳群」として、国史跡に指定されました。本市域には、魏の皇帝が卑弥呼に贈ったとされる、三角縁神獣鏡4面を含む銅鏡や勾玉が出土した4世紀後半の長法寺南原古墳、及び6世紀前半の井ノ内車塚古墳や井ノ内稲荷塚古墳、巨石を横穴式石室に用いた7世紀前半の今里大塚古墳の計5基が所在します。 その他にも、多種多量の埴輪が見つかった首長墓の塚本古墳、豊富に玉類が副葬された長法寺七ツ塚古墳群など多様な古墳が分布しています。特に、宇津久志1号墳では国内最古級の重層ガラス玉が出土し、古代ローマ製のローマガラスであったことがわかっています。
 一方、古墳時代の人々のくらしを示す、集落遺跡も数多く所在しています。雲宮遺跡では、4世紀ころの水田跡が確認されており、小畑川や犬川流域の微高地に住まいを構え、近くの低地や湿地で耕作していた様子が窺えます。小泉川流域に立地する伊賀寺遺跡では、6世紀ごろの竪穴住居が15棟以上確認され、6世紀後半には今里遺跡や陶器町遺跡で、大型掘立柱建物や総柱建物などが見つかっています。有力者が居住する集落が、各流域で展開していたと考えられています。
 続く7世紀には、それまで権力の象徴であった古墳築造にかわって、寺院の造営が開始されました。本市域では北部で乙訓寺、南部で鞆岡廃寺の2つの古代寺院が知られます。乙訓寺は、郡名を用いることから乙訓地方でも中心的な寺院であったと考えられています。後に、延暦4年(785)には桓武天皇の弟、早良親王が藤原種継暗殺の首謀者として幽閉され、弘仁2年(811)には嵯峨天皇によって空海が別当として入寺、修造にあたり、翌年には最澄が訪れたことでも知られます。また、発掘調査によって、7世紀後半の軒瓦や長岡京時代の講堂跡や門跡などが見つかり、境内北東部には乙訓寺の瓦を焼いた窯跡も確認されています。鞆岡廃寺は山陽道、後の西国街道と丹波街道との分岐点に立地し、長岡京の南の玄関口に位置します。四天王寺(大阪市天王寺区)と同型の瓦が出土しており、乙訓地方最古級の寺院とされています。長岡京時代に盛行しますが、平安京遷都後まもなく廃絶したと考えられています。
 これらの古墳や遺跡には、恵解山古墳公園や今里大塚古墳公園、七ツ塚公園のように公園として整備したもの、走田9号墳のように民有地で公開されているものもあります。また、発掘調査による出土遺物・調査成果については、長岡京市立埋蔵文化財調査センターで保管・公開されており、「大王の息吹」の歴史文化を今に伝えています。

タケノコ食えストの解説(大王の息吹)

謎の妖精

3ー1個性も輝く王たちの墓(12ページ)

古墳は輝いていた!?

現在の恵解山古墳は緑の森みたいな姿だけれど、造られた当時は白い石で覆われた石の山のような姿だったんだ。

陽射しを受けて輝く姿は、遠くからも目立っていて、そこにスゴイ王様がいたことを見せつけていたんだね。

恵解山古墳をもっと知りたい人は、国史跡恵解山古墳のページ(別ウインドウで開く)を確認してみてね。

3ー2偉大なる史跡(13ページ)

乙訓古墳群を深堀り!!

乙訓地域では、古墳時代(3世紀後半から7世紀)に約400基の古墳がつくられたよ。そのうち、位の高い 形の「前方後円墳」や「前方後方墳」、立派な石室や葺石、埴輪などをもつ大きい古墳など、地域の王様(首長)のお墓となる古墳を「乙訓古墳群」と呼んでいるんだ。

現在、32基の古墳が発見されてるけど、壊されて無くなってしまった古墳もあって、国の史跡に指定されているのは、全部で13基しかないんだ。

乙訓古墳群をもっと知りたい人は、国史跡乙訓古墳群のページ(別ウインドウで開く)を確認してみてね。

3ー3過去を伝える出土品たち(14ページ)

いろいろな埴輪がいっぱい!!

古墳に並べられた埴輪には、いろいろな種類があるよ。

動物の形をした埴輪:馬、牛、鹿、犬など

鳥の形をした埴輪:カモやガンなどの水鳥、ニワトリなど

人物の埴輪:武人、巫女、力士など

家の形をした埴輪:三角屋根の家や大きな屋根の王様の宮殿など

武器の形をした埴輪:太刀、盾、弓矢を入れておく箱など

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