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4 信仰と遊観の地(7つのものがたり)

  • ID:13596

幽閑とにぎわい!信仰と遊観の地

勝龍寺や楊谷寺、乙訓寺、光明寺、長岡天満宮など、信仰の地として、江戸時代の復興以降は周辺環境も含めた遊観の地として、多くの人々に親しまれています。

主な構成要素

乙訓寺

乙訓寺本堂

走田神社

走田神社本殿

ツツジ

キリシマツツジ

柳谷

楊谷寺

勝龍寺

十一面観音

天満宮

長岡天満宮

防災訓練

光明寺

楊谷寺

上書院

角宮神社 

角宮神社

「信仰と遊観の地」の概要

 西山とその麓に広がる本市域には、各時代の信仰によって寺院や神社が造立されています。京都に程近く、各宗派の布教活動の影響がいち早く及ぶため、天皇家・公家・武家の帰依による大伽藍から、遁世者の小さな庵まで、さまざまな堂舎が営まれるとともに、それぞれ衰退・再興・興隆が繰り返されました。
 信仰の展開は、建造物や古文書類とは異なり、信仰の対象として戦乱を避けて守られてきた、仏像や仏画などの伝来とその分布によって跡づけられています。それによると、西山一帯には平安・鎌倉時代を通じて、日本固有の信仰と習合した観音信仰・薬師信仰が伝播していました。大同元年(806)、京都東山の清水寺の開祖延鎮が柳谷で楊谷寺を創立したといい、山岳信仰に基づく観音信仰、特に清水寺観音信仰が京都を迂回して南伝しました。また、道雄が華厳宗の道場を開くため、海印寺十院を創立しており、嘉祥4年(851)官寺に準じる定額寺となっています。その後、鎌倉時代後期には東大寺僧の遊学隠遁の地として栄えたことが知られ、南都六宗の北上を示しています。一方、平安時代に興隆した密教では、まず真言宗が教線を伸ばしました。大同元年、空海が勝龍寺を創立したといい、数年後の弘仁2年(812)には乙訓寺に入り、別当として修理にあたっています。また、承平元年(931)に死去した宇多天皇が住んだという開田院は、仁和寺の院家で「遠所の別院」と呼ばれました。天台宗の進出はやや遅れたようです。
 鎌倉時代、大きく教線を広げたのが、法然開創の浄土宗です。光明寺は、法然を荼毘に付した廟所から興った、西山派証空の拠点の一つです。この地は、かつて法然が一時住んだゆかりの場所ですが、「光明寺縁起絵巻」によると、法然の弟子となった熊谷直実(蓮生)の念仏三昧院がその前身といいます。この絵巻には、洛外に「幽閑の地」を求める蓮生に対して、法然が粟生野の奥の地を勧めたとするエピソードも描かれており、各宗派が展開した当時の西山一帯、また京都から見た乙訓地方の環境をよく表しています。
 戦国の争乱のなかで、京都近郊に位置する本市域の寺社も、その多くが兵火に罹って荒廃したと考えられています。勝龍寺は、室町幕府将軍の石清水八幡宮社参における人夫の集合場所とされ、守護勢力の拠点となっています。江戸時代になり、平和の訪れとともに新しい権力者や民衆と結びつき、後に中興の祖と仰がれる住持を中心に、それぞれ多様なかたちで復興が図られました。本市域の寺社は、おおよそ17世紀半ばから18世紀の初めにかけて整備されていった様子が見て取れます。再興された境内周辺の景観は、江戸時代中期の絵入り名所地誌、『都名所図会』などに描かれ、信仰の場であるとともに、人々が景勝を楽しむ遊観の地として多くの参詣者が訪れるようになりました。また、復興費用をまかなうため、光明寺・乙訓寺・楊谷寺では特定の日に秘仏や寺宝を公開する開帳がたびたび催されました。長岡天満宮では、元禄15年(1702)の菅原道真800年遠忌を契機として、50年毎に万灯会が催されるようになり、名声を高めました。
 幕末動乱と続く明治維新によって、本市域の寺社も大きな再編・変容を余儀なくされましたが、長岡天満宮は桂宮の庇護を離れて開田の氏神として再出発が図られ、存続の危機を乗り切りました。その後、「長岡公園」を増築して「神威を戴き京阪及びその他汎々公衆の快楽地と為」すべく、新たな名勝保存・社観整備の動きへと発展していくことになります。楊谷寺も、向日町・山崎・高槻などの鉄道駅から参詣者を呼ぶための柳谷道の改修や、実現には至らなかったものの、大正末年の登山鉄道敷設計画が知られます。また、庶民に普及していた西国三十三所巡礼になぞらえて、西岡三十三所巡礼や法然上人二十五霊場、菅公聖蹟二十五拝などの巡礼が考案されました。
 現在、本市域の寺社は乙訓寺の牡丹や楊谷寺のあじさい、寂照院のモウソウチク林、光明寺の紅葉、長岡天満宮のキリシマツツジ・桜並木・梅園など、四季折々の草花でも親しまれています。今も多くの人々を惹きつける寺社と、その歴史のなかで育まれた景観は「信仰と遊観の地」の歴史文化を表しています。

タケノコ食えストの解説(信仰と遊観の地)

謎の妖精

7ー1 先人の声を求めて(30ページ)

江戸時代から、長岡京市は名所だった!?

    今も昔も、知る人ぞ知る観光地。

「住むまち」として発展した長岡京市だけど、季節の草花・寺社の観賞と初詣に、春と秋、1月にはたくさんの人々が訪れ、京都府内でも観光客の多い長岡天満宮もあるよ。

特徴として、ほとんどが日帰り客であること、ほかの地域と比べると「文化・歴史」を目的とした来訪の割合が極めて高いことが知られてるよ。実は、こうした傾向は今に始まったものではないんだ。
 江戸時代のベストセラー、ビジュアルガイドブック『都名所図会』や案内記には、市域の寺社がいくつも掲載され、これらは名所として広く知られたと思われているよ。

 一方で、実際に京都やその周辺を訪れた人々が残した記録、旅日記からは訪問先が京都でも東山に集中し、洛外へはほとんど足を伸ばさなかったことが知られているんだ。少ないけれど、乙訓地方を訪れた旅人も確認できているよ。彼らは、学問や和歌、俳諧、随筆などに長じた当時の知識人で、歌枕の地や旧跡を求めて来訪したといわれているよ。その旅日記に、長岡天満宮を指して「春秋の詠たへすあるへきやうに」季節の草花が植えられ、「都の人つねにまうてあそふところ」とあることから、京都の人々が多く訪れ、時折詩情あふれる風景を求め、“知ってる”旅人が訪れたことがわかっているんだ。

今の観光情報などを知りたい方は、観光情報ページを確認してみてね。

7ー2 今を刻む地図(31、32ページ)

寺社仏閣は市内にたくさんあるよ!

長岡京市は、江戸時代から観光名所だったということは、勉強できたよね。
今度は、自分の足で現地に行ってみるのも面白いかもしれないね。
自分の住んでいる街にどんな歴史や文化があるか調べてみよう!32ページの答えもすぐにわかっちゃうかもね♪

寺社などを知りたい方は、寺社・仏閣・名跡のページを確認してみてね。

タケノコ食えストの詳細は、長岡京市の歴史文化発見ドリル「タケノコ食えストータケノコ勇者と長岡京の宝ー」のページをご確認ください。


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