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中小路市長の雑感日記「具体と抽象の往復運動」

  • ID:12333

6月9日 具体と抽象の往復運動

経営学者の楠木建さんは、その著書の中で『経営能力の本質は「具体と抽象の往復運動」にある』と指摘している(『室内生活~スローで過剰な読書論/楠木建/晶文社』)。
経営のみならず、あらゆる現場では様々な具体的な営みの連続であり、その中で、具体的なアクションや決断が繰り出される。
その上で、『二流の経営者は「具体」の地平をひたすら右往左往する。これに対して、一流の経営者は「ようするにこういうことだ」という一段階抽象化された論理を豊かにもっている』とする。
確かに、私たちは、日々、数えきれないほどの課題や事象に直面し、具体的なアクションや決断を求められている。その際、ただ目の前にあるものだけを見つめるのではなく、過去の経験や他の事例との比較検討など持ち得る知見・知識を用い、可能な限り一般化した思想や論理に基づいて出した答えは、結果として適切かつ納得のいくものになっている可能性が高い。
一方、この抽象化、一般化というプロセスは難産でもある。
多くの事象を目の当たりにしたり、色んなアイデアが浮かんだ時、何か共通項があるように感じながら、それを言語化したり、人に伝えられる域まで明瞭なかたちにすることは、なかなかに難しい。仕事をしていて、モヤモヤするのは得てしてそんな時だ。

先日、そんな具体と抽象を自由自在に行き来されるようなお話をお聞きすることができた。
東京で開催された青年市長会での、株式会社商い創造研究所の松本大地さんのご講演だ。
松本さんは、まちづくりから商業施設まで数多くのプロデュースを手掛け活躍されている。
今回の講演でも、ポートランドやメルボルンなど海外の事例から国内の多くの好事例を通じて、まちづくりと商業をかけ合わせる際の手法やポイントをお話いただいた。
その中で出てきたキーワードの一つが『社会交流欲』という言葉。
アブラハム・マズローの「欲求の5段階」では、人間の欲求は、生理的な欲求から始まり、安全、所属、承認、自己実現とより高次なものに移行していくとされるが、さらにその上に、『社会交流欲』があるのではという一つの仮説として提示された。
 
コロナ禍を経験した今、私自身は、これからのまちづくりの中で「居心地のよい場所」が大切になるのではないかと考え、そうした場所の創出を目指した具体的な事業にいくつか挑戦しようとしている。その思いをより抽象化・一般化していくとき、『社会交流欲』という仮説はとても有効になるのではないだろうかと考えている。
モヤモヤを少し晴らしてくれるヒントをいただいた。感謝。

青年市長会での講演

青年市長会での講演 

5年度の雑感日記(ページリンク)

6月2日 共創の出発点

京都府市長会の視察研修で宮津市の『クロスワークセンターMIYAZU』を訪れた。
ご当地出身の前尾繁三郎元衆議院議長の記念文庫だった建物を改修し、レンタルオフィスやコワーキングスペース、交流イベントスペースなどを設置。新たにワーケーションや都市と地域の交流拠点として令和4年5月にオープンした。
運営は全国で地方創生に取り組んでいる株式会社Founding Baseが指定管理者として担い、実際に移住してきたスタッフが中心となり、様々な交流ツアーの企画や主催イベントの開催などに取り組み、成功の大きな原動力となっている。
 
そんなスタッフの皆さんのお話をお聞きしながら、面白いと思ったのは、こうした施設や取組みの多くは、地域の外から人を呼び込み「移住」や「関係人口化」を目指すアプローチに偏りがちになるのだが、クロスワークセンターでは、すでにその地域に住んでいる人々、すなわち定住人口を「関係人口化」しようとする視点に軸足をおいておられる点だ。
『居場所と出番を創り出し、共創の出発点を提供する』という施設のコンセプトが、まさにそうした姿勢を象徴している。
施設を日常利用する人同士の出会いやイベント参加を通じて、地域に住んでいる人々が、新たな地域の魅力や価値を見出す。その起点となっているのがこの場所であり、そうした人が地域の外の人とつながる好循環を生み出している。

お互いのことを深く知り合う「共有」から始まり、その中から双方の立場の中にある違いや接点を見出すことで「共感」が生まれ、そして何か一緒にやっていこうとする行動が起こる「共働」、さらに一緒に動いてみた中で得た気づきから新たなことを生み出す「共創」につながっていく物語のような流れがある。(「ガバナンス 2023年4月号 共創を生み出す対話とファシリテーション/加留部貴行 日本ファシリテーション協会フェロー」)。

本市においては、制定した「長岡京市助け合いとつながりのまちづくり条例」に基づき、今年度、無作為抽出した住民の皆さんにご参加いただき、まちづくりを考える「場」づくりの事業をスタートさせる。
宮津市のような常設の施設運営とはまったく異なるアプローチではあるが、地域に住む人々(=定住人口)が、地域の魅力や価値を見つめ直すことを通じて「共助」の担い手になっていただく(=関係人口化)ことを目指すという意味では、ベクトルは同じだといえる。
それぞれの地域で、地域に応じた「共創」が花開くことを楽しみにしたい。

「クロスワークセンターMIYAZU」での視察

「クロスワークセンターMIYAZU」での視察 

5月26日 堅い板に穴を開ける~G7広島サミットに想う

G7広島サミットが閉幕した。
世界のトップリーダーが被爆地・広島で一堂に会することや、ウクライナのゼレンスキー大統領の電撃参加など、話題に事欠かかないサミットだっただけに、様々な側面からの報道と賛否を含めた多様な意見が飛び交うサミットとなったが、私自身は意義あるものだったと肯定的に受け止めている。

そんなサミットの報道を眺めつつ、思い立って久しぶりに、社会学者マックス・ウェーバーの名著『職業としての政治/訳 中山元(日経BP)』を読み返してみた。

ウェーバーは政治について、「複数の国家のあいだで、あるいは国内の複数の人間集団のあいだで、権力の分け前を求めて、あるいは権力の配分をめぐる影響力を求めて争われる営み」だと定義する。同時に、国家を「正当な物理的な暴力の行使を独占することを要求し、それに成功している唯一の共同体」だと喝破する。
ウェーバーが本書のもととなる講演をドイツで行ったのは、ドイツが第一次世界大戦に敗北した後、ドイツ革命が勃発し帝政が崩壊する緊迫した状況下であったが、現在の国際情勢を見渡した時、これらの定義は、現代でもなお十分に通用する本質をついたものではないだろうか。
 
現実として核を保有している国家や、その核の傘に守られている国々が、核なき世界を希求する。
これを矛盾だと切り捨てることもできよう。
理想を語る言葉と現実のギャップ、停滞や逆行に思える行動に対し、怒りやあきらめの声があがるのも当然であろう。
それでも、世界の主要国と会議に参加した新興国のリーダーが、人類に対して実際に核兵器が使用された場所に集い、その惨禍の傷跡を目の当たりにし、核兵器のない世界を目指す方向性を確認したことの意義は大きいと思う。

ウェーバーは、同書の最後を次の有名な一節で締めくくる。

政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。(中略)
世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでもわたしはやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命」「天職」をそなえているのです。

世界の政治リーダーに期待をするとともに、政治の片隅に携わる一人のものとして心したい。

先日行われた長岡京市平和ビジョン懇談会 

先日行われた長岡京市平和ビジョン懇談会

5月19日 The sky is the limit

The sky is the limit という英語の表現がある。
直訳すれば「空が制限」ということになるのだろうが、空には上限や限界がないことから、『無限の可能性がある』、『上限や限界はない』、『天井知らず』、『前途洋々』といった意味で用いられる。

新型コロナウイルスの影響で中断されてきた、長岡京市の友好都市・米国アーリントンとの中学生国際交流が、今年は4年ぶりに再開することができた。
4月25日に長岡京市を出発した16名の中学生訪問団が、5月5日、無事に帰国し、先日、その成果を報告するため訪れてくれた。
その際のみんなのはち切れんばかりの笑顔は、まさに「The sky is the limit」。そんな表現がぴったりだ。

アーリントンとの中学生国際交流は、平成17年度から実施。新型コロナの影響で令和2年から4年にかけての休止期間を経て、今回16回目の実施。これまで、のべ325名の生徒たちが交流の輪をつないできてくれた。
今回も、アーリントンの16家庭がそれぞれ子どもたちのホームステイを受け入れて下さった。
生徒たちは、滞在中、アーリントン高校やオトソン中学校、ダーリン小学校、ミニットマン専門高校の学生たちとの交流のほか、ハーバード大学、タウンミーティング、ケーブルテレビ局の見学といったプログラムにも参加。もちろん、本場の美味しい超特大ハンバーガーを食べたり、フェンウェイパークでのボストンレッドソックスの試合観戦といったお楽しみも。

毎回感じることだが、渡米前に決意を語ってくれた時の顔と訪米の経験を語ってくれる顔は明らかに異なる。人はこれだけ短期間で大きく成長したくましくなるのだ。
きっと、その目は、空の遥か彼方を見つめているはずだ。

アーリントン短期留学帰国報告会

アーリントン短期留学帰国報告会 

5月12日 ビジョンの持つ力

1998年、横浜ベイスターズ(当時)の監督として38年ぶりのリーグ優勝に導いた名将・権藤博さんは、日経ビジネスのインタビューで、組織の強さについて、次のように語っている(2019年4月8日号)。
意外かもしれないが、チームワークのことなど考えなくてよい。チームは個の集まり。個が互いに競い合い力を高めることでチームも強くなる。組織のトップの仕事は、個の集まりであるチームに目標を与えることだと。
リーダーの仕事とは明確な目標、すなわちビジョンを示すことにある。

この記事を読み、簡潔ながら壮大かつ重厚な一言で、偉大なるリーダーが、見事に自らのビジョンを語った一場面を思い出した。
紀元前の中国春秋戦国時代、秦による中華統一への道のりを描いた歴史漫画『キングダム45巻(原泰久)』の中の一コマだ。

戦国の七雄が覇権を争うなか、秦の王都咸陽を訪れた斉国王・王建。
滅びる国が必ず生じる中華統一など、人々の苦しみを生み出す汚濁でしかないと主張する。
そして、中華統一を目指す秦王・嬴政(後の始皇帝)に対し、亡国の民を救済する方法はあるのかどうかと問う。

「この中華統一の成功は全中華の民を一手に実効支配するものにかかっている。
だが、それは絶対“人”であってはならない。」

王が絶対的な支配者として権力を手にしていた時代、人が支配しないのであれば、何が支配するのか?

嬴政は一言、「“法”だ。」と答える。

五百年の騒乱の末、平和と平等を手にする「法治国家」を生み出すことこそが、この一言に込められた嬴政の示すまさにビジョン。
この言葉に、味方だけではなく敵もまた、抗いがたい魅力を感じ、次の行動へと人々を衝き動かす。
これこそが、心を揺さぶるビジョンの持つ力なのだ。

4月28日 長いトンネルを抜けて

日本は比較的狭い国土の2/3を山地が占め、急峻な山々も多く、それらが入り組んだ地形を生み出している。
その結果、世界各国と比較をしても長いトンネルが非常に多いそうだ。
確かに、高速道路を利用していてもかなり長く感じるトンネルに出会うことも多いように感じる。遠出のドライブの一つの醍醐味だともいえよう。

そんなトンネル大国日本で、最も長い道路トンネルはどこか。ご存知だろうか?
私は、てっきり群馬県と新潟県をつなぐ「関越トンネル(全長1万1,055m)」だと思い込んでいたが、正解は首都高速中央環状線の「山手トンネル」。総延長はなんと18.2kmの地下トンネル。2015年(平成27年)の全線開通によって、関越トンネルを追い抜き日本一の座に輝いた。
ちなみに、世界一長い道路トンネルはノルウェーの首都オスロと西部都市ベルゲンをつなぐ欧州自動車道E16の「ラルダールトンネル」で、全長は24.5km。あまりにも長いため、ドライバーの疲労軽減を目的に6km置きに色鮮やかな道路照明区間が設けられており、インターネットで画像を見る限り美しいトンネルだ。こんなトンネルなら魅力的だろう。

こちらは、とても暗く、とても、とても長いトンネルだった。
GW明けの5月8日。新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが、これまでの2類から5類へと見直される。
3年を超える長い期間、市民の皆さんには、様々な行動や活動の制限によって多くのご不便、ご迷惑をおかけしてきたが、ご協力とご理解をもって、今回、一つの大きな節目を迎えることができる。
医療や介護、福祉の関係者の皆さんのご尽力、学校や子育てなど現場でのご対応、事業を行っておられる方々のご協力、そして市職員の皆さんも数多くの対策に汗をかいてくれた。
それらすべての皆さんに、まずは一つの区切りを迎えた今、改めて感謝申し上げたいと思う。

これまでトンネルの出口の明かりさえ見えない日々が続いてきた。
やっと見えてきた出口。
その先には、コロナ前の豊かな日常に加え、コロナによって変化し、より強くなった、新しく素晴らしい風景がきっと待っているはずだ。

新型コロナウイルス感染症対策本部会議

新型コロナウイルス感染症対策本部会議 

4月21日 坂本龍一さんを追悼して

世界のサカモトこと音楽家の坂本龍一さんが先月28日、71歳という若さで亡くなられた。

さる2月のある音楽番組(朝日放送/関ジャム 完全燃SHOW)で特集された坂本龍一さんのインタビューで語られる言葉の説得力、背景にどっしりとある思想性に感銘を受け、2月24日付けの当欄でも、AIをめぐる見識を引用させていただいた。その後、映画「ラストエンペラー」を久々に見直すなどしていた矢先の訃報に驚きを隠せない。

私たちの世代にとって坂本龍一さんの曲と言えば、映画「戦場のメリークリスマス」の『Merry Christmas Mr. Lawrence』や栄養ドリンクのCMソング『energy flow』を思い浮かべる方も、多いのではないだろうか。奏でられるピアノの旋律がとても印象的で、ついつい頭の中でリフレインしてしまう。インストゥルメンタルの曲で、メロディーを口ずさむことができる曲はそうそうない。
 
私にとっては、『Put your hands up』という曲が記憶に残っている。
TBSの筑紫哲也「NEWS23」のテーマソングで、調べてみれば1997年から2005年ごろまで使われていたようだ。
世紀の変わり目をはさみながら、それまでに経験したことのないような出来事や事件が相次いだ。その時代の世相を一言で表せば「混沌」だと思う。国際情勢を見渡しても、経済状況を鑑みても、日本という国が停滞から抜け出せない時期であり、将来に対してあまり明るい展望が描きにくい。そんな時代だった。
だからこそ、一日の終わりに聞く癒しの調べが当時も、そして今もなお、記憶に刻まれているのかもしれない。

生前から、自らをピアニストではなく作曲家であり表現者であると強く意識されていた。
前段のインタビューでも、「人の曲を弾くことはつまらない。自分の音楽を表す一番やりやすい方法としてピアノを弾いているだけ。」だと語っている。

そんな時代を切り取り表現する偉大なアーティストが一人この世を去られた。
残された功績に敬意を表すとともに、心より哀悼の意を表したい。

4月14日 天命を知る

4月11日は不肖、私の誕生日。
お祝いをする齢でもないし、例年、あまり気に留めることもない。
一応、家族が用意してくれたケーキをありがたくいただく程度。メールやSNSでいただく祝意はいくつになっても嬉しいものだが。
ところが、今年は50歳という節目。やはり、いつも以上に意識をしてしまう。ほんの少し。
いよいよ50代世代に突入するわけだし、人生100年時代、欲張ってそこまで生きるとして、折り返し地点を通過したこととなる。往路から復路へ。
 
20代を振り返れば、遊びまくった大学時代から、就職での挫折を経験し、少しまじめに勉強し始めた大学院時代へ。孔子に言わせると遅いのだろうが、一応「学を志す」。その延長線上で、秘書として政治の現場に飛び込む。偶然か、必然かは少し横に置いておこう。とにもかくにもがむしゃらだったし、素晴らしい先輩方や仲間にも恵まれ、社会について多くのことを学んだ。何より面白かった。
30歳を目前に「立つ」ことを決意した。多くの皆さんに支えていただき、30代は京都府議会議員として全力で駆け抜けた。この頃の出会いや経験が、今現在の自分自身の血肉なっていることは間違いない。本当に楽しかった。
迎えた40代は、お陰様をもって、市長として仕事に邁進させていただくことができた。府議から市長への転身を決意した際、「不惑」というには少々心もとなかったかもしれないが、人生の大きな転換点、それなりの覚悟はしたつもりだ。
そして50歳のいま。自分自身にとっての「天命」とは何か。見つめ直している。

先日、新入職員の皆さんとの「対話のわ」のなかで、ある一人の職員さんに問われた。
「市長の夢は何ですか?」

まっすぐで、純粋なその問いに、しばらくの間考え込み、頭の中で探り探り、やっとのことで返答する。
きっと、迷いなく即答できるようになったとき、「天命」を知ったことになるのかもしれない。
まだまだ長い人生は続いていく。

4月7日 大きな岩 小さな岩

新しい年度のスタートです。年度初めにあたり、一つの寓話をご紹介したい。

 

ある教授が、教室の教壇の上に大きな壺を用意します。

その壺に、いっぱいになるまで岩を詰めて、学生たちに聞きます。

「この壺は満杯か?」

学生たちは「はい」と答えます。

「本当に?」そう言いながら教授は、バケツ一杯の砂利を取り出し、先ほどの壺に目いっぱいまで流し込み、もう一度聞きます。

「この壺は満杯か?」

一人の学生が「多分違います」と答えます。

「そうだ」と言いながら、今度は砂の入ったバケツを取り出し、また壺に流し込みます。

「これで満杯か?」

学生たちは声を揃えて「いや」と答えます。

今度は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと水を注ぎます。

そして最後に、「私が何をいいたいか分かるかな?」と問いました。

(『会社はなぜ消滅したか/読売新聞社会部(新潮文庫)』より)

 

さて、この寓話が伝えようとしているメッセージは何だろうか。

 

満杯に見えてもまだまだ入る余地はある。

日々の仕事において、スケジュールが目いっぱいに見えたとしても、努力次第でさらに予定を入れることができるし、もっともっと仕事をすることができるはず。

私もそうであったように、一読して、そう諭している寓話だと捉えた方も多いのではなかろうか。

 

実は、この寓話には続きがある。

 

教授は学生たちにこう伝えます。

「大きな岩を先に入れない限り、それが入る余地は、その後二度とない。

 私が伝えたいことはそういうことなんだ。」

そして問います。

「君たちの人生において“大きな岩”とは何だろう?」

 

私たちにとって“大きな岩”とは人生における“大切なもの”に他ならない。

それは、仕事であるかもしれないし、愛する人や家族かもしれない。はたまた趣味や奉仕活動かもしれない。きっと、それは一人ひとり違うはずだ。

 

皆さんにとって“大きな岩”は何か。

年度初めに少し考えてみてはいかがだろうか。

市職員との対話のわのようす

市職員との対話のわ 

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