中小路市長の雑感日記『防災のDX』
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10月31日 防災のDX
10月最終日曜日を「長岡京市 防災の日」と定め、市内10小学校区すべてで避難所運営等の訓練に取り組んでいただいている。
今年は10月26日に開催し1,500名近い皆さんに訓練へのご参加をいただいた。
さて先週は、市民協働の分野におけるDXについてご紹介させていただいたが、今週は、防災の分野においても進めているDXについてご紹介したいと思う。
長岡京市では、この間、LINEの仕組みを活用して、申請といった行政手続きや相談・施設の予約、危険箇所の通報などをスマホからできるようにしている。こうした市民サービスの利便性向上に取り組んだ結果、いまや長岡京市LINE公式アカウントの友だち追加数は10万を超えている。
これだけ多くの市民にご利用いただいているツールを災害時にも活かしたいと考え、今回、株式会社Bot Express様と連携し二つの実証実験に取り組んだ。
一つは、避難所での「デジタルチェックイン」訓練で、今回3つの小学校で実施した。
避難者の皆さんには、長岡京市LINE公式アカウントのメニュー上から、氏名や生年月日、住所などを事前登録いただく。すると、同じメニューから画面上にQRコードを表示できる。避難所ではタブレット等にその画面をかざすだけで受付・チェックインが完了する。
今回の訓練では、紙に記入していただく通常の受付作業の場合、一世帯にかかる時間が34秒。デジタルでの受付の場合、同4秒であり、大幅な作業時間の短縮につながる。
何よりも受付情報が瞬時にリアルタイムで把握できるので、避難者数の把握を現地だけでなく、災害対策本部における全体状況の把握もスムーズに行えることが大きなメリットだ。
また、避難者に対して同時にメッセージ配信もできることから、炊き出しや物資の配布時間や内容など多様な情報をお伝えすることも可能となる。
また、9月4日には、「避難所外避難者の把握」訓練を実施した。
これまで起こった大災害の経験から、小学校の体育館など指定避難所以外に避難をされている(例えば自治会館、車中など)方々の状況を把握することが難しく、結果、そうした方への支援が遅れるという課題が指摘されてきた。
今回の訓練は、LINEを通じて、ご自身の位置情報や必要な物資などの情報を報告いただき対応するというもの。訓練では、自治会館に複数の避難者がおられることが、本部に映し出される地図上で一目瞭然となる。また、必要物資も瞬時に把握できることで、実際の支援初動を大幅に早めることができそうだ。
いずれもデジタル技術を用いるからこそ課題解決が可能となる、まさにDXの取組みだ。より快適で安全なまちづくりを進めていくために、皆さんもまずは長岡京市LINE公式アカウントの友だち登録を。
※長岡京市LINE公式アカウントの友だち登録はこちら(別ウインドウで開く)から
訓練中のようす
7年度の雑感日記(ページリンク)
10月17日 「あの戦争」を考える
10月10日 「体」が伝えるもの
10月3日 踊りつかれて
9月26日 9月議会を終え、市議会議員選挙へ
9月19日 長岡公園リニューアルオープン
9月12日 考えるということ
9月5日 映画 教皇選挙
8月29日 行政組織における冗長性
8月22日 記憶を紡いでいく2
8月8日 記憶を紡いでいく
8月1日 サイレントキラー
7月25日 柔らかいガードレール
7月18日 森悠子さんを悼んで
7月11日 人口減少を前提として
7月4日 企業の現場を訪れて
6月27日 塩梅(あんばい)
6月20日 アプレンティス
6月12日 奴雁の精神
6月6日 民生児童委員ウィーク
5月30日 長岡天満宮本殿 50年ぶりの葺き替え
5月16日 巨星、墜つ
5月9日 気候変動を身近に感じながら
4月25日 多様性を感じる機会に~大阪関西万博開幕
4月18日 自治体の思いを届けるために
4月11日 長い箸
4月4日 考え続ける力
10月24日 市民協働のDX
長岡京市では、昨年より株式会社リキタス(Liquitous、以下リキタス)と「DXを通じた市民の行政参加促進に関する連携協定」を締結し、インターネットを通じた市民との新しいコミュニケーションの手法について試行を重ねている。
リキタスは、ICT技術を活用した対話・熟議による合意形成や意思決定のツール開発を通じて、民主主義のDXに取り組んでおられる。
本市ではその仕組み(Liqlid)を活用し、市民参加型合意形成オンラインプラットフォーム「Voice NAGAOKAKYO(https://nagaokakyo-city.liqlid.jp/)」を立ち上げ、新しい形式での市民への行政参加や意見表明機会の創出に挑戦している。
この間、総合計画第3期基本計画策定に際しては、リアル開催の「対話のわ」との併用や、ガラシャ祭などイベントへの提案募集、最近では犬川周辺の整備事業での活用など、多くの市民の皆さんからご意見をいただいている。
ここまでの取組みを通じて、30・40代の皆さんの投稿増や夜間・早朝の書き込みなど、新たな層の市民の参画が増えているほか、建設的かつ主体的な意見の増加や、市民同士のコミュニケーションの創出、これまで可視化しにくかった賛成や共感などのポジティブな声の表出など、一定の手ごたえを感じている。また、この仕組みを活用する側の職員の意識の変容も生まれ始めている。
今回、リキタスが新たにフィンランドのスタートアップ企業「Vaki Insight」社と連携し、市民や行政職員の協働意識を客観的な指標で測定して見える化する取り組みをすすめておられ、今年度その実証実験に本市も協力させていただいている。
先日、開発者であるヘルシンキ大学のMikko Rask氏が本市をご訪問いただき、活動内容ついて意見交換の場を設けていただいた。
本市でも新たな技術を活用することで、新しい価値を創出してきたいと思う。
Mikko Rask氏との意見交換のようす
10月17日 「あの戦争」を考える
10月10日、石破茂首相が戦後80年にあたっての所感を発表した。
「なぜ戦争を避けられなかったのか」という点に焦点を当て、その背景には、当時の憲法の制度的問題点や議会やメディアのチェック機能不全、情報収集・分析の能力不足などがあると分析をした。
所感の内容や発表の方法論・プロセス、タイミングをめぐって賛否両論、様々な意見が表明されているが、ぜひこの節目でもある。皆さんも全文を一読し、「あの戦争」について考えるきっかけになればと願う。
今夏に刊行された近現代史研究者・辻田真佐憲氏『「あの戦争」は何だったのか(講談社現代新書)』が話題となっている。
「あの戦争はなぜ起きたのか?」「そもそもあの戦争とは何を指すのか?」「あの戦争は回避可能だったのか?」といった問いに、最新の研究に基づく史料や文献、各国の歴史資料展示の分析等を通じて多角的な検討が進められる。
歴史は客観的なものではなく、現在からの解釈に他ならないという視点に立ち、「あの戦争」を幕末・明治維新以来の近代史のなかに位置づけ直し、「われわれの物語」を描こうとする。それは、日本の過ちばかりを糾弾することでも、日本の過去を無条件に称賛することでもない。筆者の言葉を借りれば、「100点からゼロ点か」といった極端な選択ではなく65点くらいの落としどころを探ることで、国民としての物語を共有しようとする試みだ。
なぜ鳥は空高く飛べるのか。それは左右の翼がバランスよく羽ばたくからである。(スペインの諺)
戦後80年の節目に「あの戦争」を見つめ直すとき、必要とされるのはイデオロギーから解放されたそんな感覚なのかもしれない。
10月10日 「体」が伝えるもの
映画『国宝』の大ヒットが話題となっている。興行収入も150億円を超え、歴代最高記録に迫る勢いだそうだ。話題に乗り遅れてはならないと、遅ればせながら私も映画館に足を運んだ。
任侠の一門から歌舞伎の世界に飛び込んだ喜久雄と歌舞伎の名門の御曹司である俊介が切磋琢磨し、時にぶつかり合い、迷い苦しみながら成長していく姿が、栄光と挫折、才能と血脈、信頼と裏切りが錯綜する伝統芸能の世界を舞台に描かれる。
時代感にあった静謐な雰囲気を醸し出す映像、主演の吉沢亮さんと横浜流星さんの美しい立ち振る舞いや所作、鬼気迫る迫力ある舞いが、観る者を魅了する。この作品は映画館の大スクリーンで観ることをお勧めする。
作品中、俳優でダンサーの田中泯さんは、当代一の女形で人間国宝の小野川万菊を演じる。若かりし主人公と出会い、その後の彼らの人生にも影響を与える重要な役どころだ。
その田中泯さんの語った言葉が、先日9月26日付の朝日新聞「折々のことば」の中で取り上げられている。
演技には台詞にはないが、疼(うず)いている部分がしかとある。それが「体」であり、役の土台なのだ。
人は「体」を通して多くのことを語ることができる。動きだけではない。ただ佇んでいるだけでも強烈に放出することもある。それは、時に言葉以上に伝わることがあるし、より深く心の奥底まで届くこともある。
映画『国宝』は、まさにそんな「体」が語る物語だと思う。
「体」からにじみ出す感情、「体」が発散する狂おしいほどの情熱、「体」から漂い出る妖艶さや狂気。
それらが映像にのって人の心を打つ。この作品が人を惹きつけて止まない秘訣なのだ。
10月3日 踊りつかれて
作曲家のアンドレ・ギャニオンの奏でるピアノの旋律はどこか物悲し気で、聴く者の心を切なくさせるものがある。
代表曲『Fin de bal』もそんな一曲。邦題は『踊りつかれて』。
今年の直木賞候補にもなった小説『踊りつかれて/塩田武士(文藝春秋)』は、SNSや週刊誌に翻弄された人々の悲哀に満ちた人生の物語だ。ギャニオンの曲へのオマージュのような作品でもある。
同時に、匿名性が生み出す悪意、跋扈する事実の軽視、拡散と記録によって抜け出すことのできない無限連鎖といった、ネットやSNSが持つ暴力性に焦点を当てた社会派小説でもある。
不倫を報じられ、SNSで止まぬ誹謗中傷を受け、自ら命を絶った人気お笑い芸人・天童ショージ。
バブル期の華やかなりし芸能界でスターダムへと駆け上がったものの週刊誌に葬り去られた歌姫・奥田美月。
そんな二人を誹謗中傷した83名の「加害者」は、突如ネット上に現れた『宣戦布告』によって、名前や年齢、住所、職場、学校…あらゆる個人情報を晒され、一夜にして人生を狂わされる「被害者」に。
どうしてそんな暴挙に出たのか。
『宣戦布告』の犯人と、彼の弁護を担う女性弁護士は、公判を通じて匿名性が生み出す暴力の実態を、社会に告発しようと決意する。
「ネットのインフラ化によって『瞬時に答えが分かり、好きなものだけを手に入れられる』という前提が浸透し、その結果『事実よりも面白いことを優先する』『自分が信じたい情報ばかりを集める』『承認欲求を満たすために感情を吐き出す』人たちが増えたと感じています。(中略)『アシスト機能、思考力の欠如、分かりやすく面白いもの、心地いいもの、お手軽なもの、間に合わせの正義感、自分に親しいものを評価して満たす自己愛。情報化社会が吐き出す種々の毒素が、呆れるほど幼い大人たちを生み出していく。』
公判で弁護士が語る言葉は、私たちが今、現実に目の当たりにしている姿を的確に表現しているように思えてならない。
「正義」や「正しさ」とは何か?
幼い大人たちは、ネット上で簡単に、軽々しく語る。
本来は、絶対的な物差しがあるわけでもない、白黒きれいに線引きできるものでもない、答えを探し求めて考え続けるしかない問いのはずだ。
それでもその問いに答えようとする覚悟を持つ。
そう思えたのなら、作中で彼らが投じた一石は意味あるものだったと言えるのかもしれない。
9月26日 9月議会を終え、市議会議員選挙へ
さる9月12日、およそ4週間に渡る長岡京市議会9月定例会が閉会した。
今定例会では、例年の令和6年度一般会計ほか各種決算の認定、本年度の9月補正予算案、新庁舎への移転後に設置する産業文化センターの設置条例案や工場立地法の準則を定める条例案などに加え、令和8年からスタートする長岡京市第4次総合計画第3期基本計画も議案として提案、ご議論いただいた。結果、すべての議案について承認・可決をいただいたことに胸をなでおろしている。
今定例会は市議会議員の皆さんの4年の任期最後の議会となる。
この間、多くのご意見やご提案をいただき、議会の内外において議論を重ねながら市政をすすめることができた。まずは議員の皆さんのご貢献に感謝申し上げたい。ありがとうございました。
とりわけ今期で後進に道を譲りご勇退される方々には、永年にわたるご貢献とご功績、ご労苦に心より敬意を表したい。また、再選を期して次期選挙に挑戦される方々には心よりのエールを送りたい。
その長岡京市議会議員選挙は、いよいよ9月28日に告示される。投開票は10月5日。
今回、市議会定数22名に対して立候補を予定されている方々がすでに30名を優に超える様相だ。
その意味で、かなりの激戦となることが予想される。
二元代表制は、日本の地方自治体の政治形態の重要な枠組みであり、住民による直接選挙で選ばれる「首長」(市町村長や知事)と「議会」(市議会や県議会)はまさに車の両輪である。
住民の意志の反映はもちろん、権力の分散と抑制、議論を通じた透明性の確保、多様な民意の集約と合意形成、地方自治体の独立性の保持など、制度の意義が担保されるためには議会の役割がきわめて重要なことは論を待たない。
全国的に議会議員のなり手不足が叫ばれる中、これだけ多くの方々が立候補を予定されているということは、これまでの長岡京市議会の取組みや活動が評価されているがゆえであろう。ともに二元代表制の両翼を担う首長としても、市政に多くの関心を寄せていただいていることは心強くもある。
市民の皆さんには、大切な市議を選択できるこの機会を十分に活かしていただきたく思う。
そして、立候補を予定し厳しい選挙戦を戦われる皆さんのご健闘を心より祈念する。

9月定例会 最終日のようす
9月19日 長岡公園リニューアルオープン
まだまだ夏の日差しが残る9月初旬。
待ちに待った長岡公園のリニューアルオープンの日を迎えた。
長岡公園は隣接する長岡天満宮のご協力と佐藤真如氏からご寄贈いただいた土地で整備され、昭和57年の開園以来、多くの市民に親しまれてきた。私も子どもの頃に野球をして遊んだり、文化祭の出し物の練習をするなど思い出深い場所でもある。
一方で時間の経過とともに、施設の老朽化やバリアフリー対応の不足、繁茂した樹木によってうっそうとするなどの課題が浮き彫りになりつつあった。
そんなとき、地元の㈱村田製作所から市制施行50周年を記念して、公園を整備のうえ寄贈いただけるという大変ありがたいお申し出を賜り、両者で協定を締結。リニューアルプロジェクトは始動した。
そこから3年近くの月日をかけて、市と村田製作所、設計コンサルタントの㈱空間創建や専門家委員会の方々など多くの皆さんのご協力・ご尽力、そして、その過程においては公園利用者や近隣住民の方々からも様々なご意見をいただいた。改めて、リニューアルオープンに際し心より感謝と敬意を表したい。
また、リニューアルした長岡公園では指定管理者による公園の管理運営にも取り組んでいくこととし、今回㈱日比谷アメニスが事業者として選定される。
整備後の公園を訪れて真っ先に感じたのは、その明るさだ。
樹木に覆われて光の差し込みにくかった場所に燦燦と太陽が降り注いでいる。そこに、以前からある樹木がところどころ残り、木陰の居心地のよい空間を生み出し、以前の面影も思い出させてくれる。
起伏に富んだ緑の空間、インクルーシブを目指した遊具や園路、周辺の竹林など自然との調和。
ここで子どもたちが走り回り、多くの人々がくつろいでいる姿を想像するだけでワクワクする。
公園のセンターに位置する休憩所は、木造づくりで構造の工夫により柱の数を抑えたことによって開放感があり広々としている。まるで以前の木々に覆われていた大きな木陰が再現されたようだ。
愛称も市民からの公募で「fuRari(ふらり)」という素敵なネーミングをいただいた。
式典後には早速、子どもたちへの本の読み聞かせが行われるなど、これから先も愛され続ける場所になることは間違いない。
さあ、素晴らしい公園ができた。
ここから多くの活動や体験、感動がきっと生まれる。そのことが公園の価値と魅力を益々磨き上げてくれるはずだ。これからの公園の成長が楽しみで仕方ない。(文中敬称略)

リニューアルした長岡公園のようす
9月12日 考えるということ
「人が何かを受け止める順番は『感じる・考える・信じる』のはずなのに、最近は『考える』が抜け落ちて、『感じる・信じる』が直結しているのではないか」
10年ほど前、こう述べた劇作家・演出家の野田秀樹さんは、最近のインタビューでそのことを問われ、「考えることが面倒なのか、手続きとして重要でないと思っているのか、ますます『感じる・信じる』になってきている気がします」と答えている。
さらに、「普通、何かを伝える文章には、ある程度の長さと、考えるための時間が必要です。思いつきで書く百数十字で何が言えるんだ?と思いますね」と、『考える』が軽んじられる背景にSNSの存在を指摘する。(2025年9月3日付朝日新聞AI時代に「考える」から)
現代社会は複雑だ。過去から人間社会そのものは決して単純なものではなかったのだろうが、複雑さの度合いは益々深まっているといってよいだろう。
複雑なものを複雑なまま理解をすることは難しい。理解をしようとするならば一定の単純化が必要となることは否めない。
そして、単純化されたものはその本質からもわかりやすいし明快だといえる。
しかしながら、単純化というのは例外性や周辺に位置するもの、揺らぎや不安定さは無視されるか捨て去られることを意味する。
すなわち単純化の過程においては捨象されるものもまたある訳であり、秩序から外れるものは異質なものとして取り扱われることとなる。
私は、こうした異質さや捨象されたものの存在の可能性を問い続けること、疑い続けることこそが 『考える』ということではないかと思う。
単純化された命題だけを見てわかったつもり、理解したつもりになるのではなく、そこから漏れ落ちるものの存在に焦点を当てることが『考える』ということなんだと思う。
先のインタビュー記事の中で、俳優の古田新太さんが高校生時代に野田さんの演劇を見たときのエピソードが紹介されている。
「(高校生の自分にとっては)訳がわからなかったが、何か考えなくちゃいけないと思った」
この姿勢こそが、複雑な事象を考える際の態度として求められているのではないだろうか。
9月5日 映画 教皇選挙
全カトリック教会の最高司祭であるローマ教皇は、世界中の枢機卿による投票によって選出される。
その手続きは『コンクラーベ』と呼ばれる。
「鍵のかかった」という意のラテン語を語源としている通り、バチカンのシスティーナ礼拝堂において行われる『コンクラーベ』は、外部との接触を厳密に禁止されるなど、教会の長い歴史の中で、他国の干渉を防止し秘密を保持するため練り上げられたもので、極めて厳粛なものだ。
映画『教皇選挙』はその『コンクラーベ』を舞台にミステリーとして描かれた話題作。
今春の日本での公開と、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇のご逝去が重なるタイミングだったこともあり注目が集まった。
教皇の突然の死を受け、『コンクラーベ』の責任者である首席枢機卿トマス・ローレンスは悲しむ間もなくその準備に奔走することとなる。
その手続きを厳正に行う必要があることはもちろん、前教皇の意志を引き継ぐふさわしい人物を選ばなければならない。
有力候補として浮上しているのは4人。
出自も異なれば、リベラル派、強硬・穏健などの保守派といった信条もさまざま。それぞれにスキャンダルのうわさも絶えない。
そこに突然現れた新たな候補。
権謀術数が繰り広げられる中で迎える衝撃の結末はいかに。
歴史を振り返ってみても聖職者とはまさに権力者でもある。
権力をめぐる駆け引きは壮絶を極める。理想も語れば、現実も見据えなければならない。人間関係も複雑に絡み合う。
そのはざまで揺れ動く主人公ローレンスのひたむきさが心を打つ。
伝統あるカトリック教会が、移り行く国際情勢や社会環境の変化、価値観の多様化といかに調和し組織として結束していくか。
むけむけの本音と宗教の持つ理想、組織を維持していくための論理が錯綜する。
一人ひとりの教皇候補はきっとそれらの象徴だ。
大きな組織の変化は、決して一直線に起こるのではなく、こうした揺らぎの中で起こるものなのだろう。
8月29日 行政組織における冗長性
「冗長性」とは、必要最低限のものに加えて、余分なものや重複がある状態を指す。
「冗長」という言葉は、元々「無駄に長く、くどいこと」というように、どちらかといえばネガティブなニュアンスで使われてきたが、IT分野においては、システムの信頼性や可用性を高めるために、予備の設備やデータを複数用意することで一部の機器やデータが故障した場合でも、システム全体の機能を維持しサービスの中断やデータ損失を防ぐというポジティブな意味合いで使われるようになり、昨今では防災など様々な分野でも同様の概念が用いられる。英語の「リダンダンシー(redundancy)」という言葉の方が耳にする機会は多いかもしれない。
全国各地で多発する災害やコロナ禍を経験した今、私たち地方自治体にとっても組織として「冗長性」をどの程度確保するか真剣に検討すべき時期にきていると思う。
もちろん地方自治法にあるように、地方公共団体は事務の処理にあたって最少の経費で最大の効果をあげるよう求められており、効率性とのバランスを忘れてはならない。
実際、ここ数十年はほとんどの地方自治体が行財政改革に取り組み、職員数の削減に努めており、ぎりぎりの人員体制で何とか業務の執行に当たっているのが実態だろう。
一方、コロナ禍の下では、ワクチン接種や各種給付金の支給などが通常の業務に加わり、自治体職員への負荷はかなり大きくなった。きっと、自然災害などによって被災された自治体も同じような状況にご苦労されているにちがいない。
災害のみならず、組織を運営していく上では、予期せぬトラブルや事故、職員の病気や離職といった予期せぬ事態への備えが求められる。また、自治体においても働き方改革がすすみ、残業の削減や各種休暇の取得しやすい環境づくりも求められる。
こうしたリスク管理という側面にくわえ、組織においても新たなアイデアを生み出したり、新しい課題に挑戦していくためには、時間やリソースに一定の余裕が必要となるし、職員の人材育成やスキルアップ、環境の変化への柔軟な対応など行うという、積極的な意味でも「冗長性」は必要となる。
「冗長性」はどの程度まで許容されるか、どういう形で「冗長性」を確保すべきか。議論を深めていかなければならない。
8月22日 記憶を紡いでいく2
戦争の記憶を紡いでいく。
前回、戦後80年の節目に、戦争を経験した人々が語った言葉を記録し、後世へと紡いでいくことが大切だと書いた。
「言葉」に加えて、戦争の記憶を紡いでいくために大切なもの。それは「映像」ではないだろうか。
20世紀は人類が初めて歴史を「動く映像」としてみることができる最初の世紀だ。
とりわけ第二次世界大戦では、多くの場面が「映像」として保存されているという。
この度、NHKが第二次世界大戦を撮影した35ミリフィルムを高精細化・カラー化する世界初の試みに成功。大戦中のドイツでの映像を中心にした『映像の世紀 高精細スペシャル ヨーロッパ 2077日の地獄』と題した番組が3週連続で放映された。
戦時経済の恩恵としてワインや贅沢な食事が振舞われる国民の表情は、独裁者が権力を握っていく生々しい過程だ。
ドイツとソ連の戦いの主戦場となったウクライナでは、戦争を有利に進めるために双方の手によって破壊された街の様子が痛々しい。
史上最大の作戦と呼ばれるノルマンディー上陸作戦。実際に戦う兵士たちの恐怖の表情は、銃弾が飛び交う戦場の恐ろしさを如実に物語っている。
暗殺未遂事件を生き延びたヒトラーの震える手。猜疑心に満ち溢れた人間を象徴するような映像に、追い込まれつつある心理が見え隠れする。
数々の映像を通じて、これまでは見過ごされてきた人々の表情や仕草などディテールが表出され、これまで以上に映像の意味するところを解釈・理解することが可能となった。こうした映像は、戦争がもたらすもののリアリティを後世に伝えていくために有用に違いない。
最後に印象的な場面をひとつ。
ドイツによる占領から解放された後のパリの映像。そこには、占領中にドイツ兵と仲良くしていたフランス人女性たちが拘束され、狡猾な笑みを浮かべたフランス人男性の手によって、髪をハサミでバッサリと刈られていく姿が記録されている。
人間は弱い。弱いがゆえに生み出される陰湿な暴力。きっと、これまでも歴史の中で繰り返されてきた光景なのだろうが、映像として記録され、それを改めて振り返るからこそ、その狂気を冷静に感じ取ることができる。
これら映像から私たちは何を教訓として学んでいくのか。これもまた、後世へと紡がれるべきものだ。
8月8日 記憶を紡いでいく
今からちょうど80年前、1945年7月19日午前10時半ごろ、天王山あたりから突如、米軍戦闘機の機影が現れる。
当時の様子を知る人の話では、わずかな時間の機関掃射だったようだが、操縦士の顔が見えるくらいの低空飛行による爆音、掃射による金属音が恐怖を与えたことは想像に難くない。
この神足空襲で、国鉄神足駅前の工場で働いていた一人の少女の命が失われたほか、近隣でも複数の負傷者が出ている。
本市では、この出来事を決して忘れないとの決意から、7月19日を「平和の日」とさだめ、毎年、平和記念碑や戦没者追悼の碑への献花、平和を考える市民フォーラムの開催を行っている。
今年は、戦後80年という節目の年。
フォーラムでは絵本「あらしのよるに」で有名な作家・きむらゆういちさんによる講演のほか、神足空襲に関する実物の展示、ヒロシマ・ナガサキの写真パネルやVRゴーグルによる体験ブースなどを行った。
「戦時中でも、子どもたちは遊んだりして『普通の暮らし』もあったんです。でもある日突然、『死』がそこに迫ってきている。それが戦争なのでしょう。」
神足空襲を子どもの頃に実際に体験した方の言葉が重い(京都新聞・洛西版2025年7月19日付)。
一方、実際に空襲や戦争を経験された方もやはり高齢化がすすむ。
その言葉をいかに残し、伝えていくのか。
かつて、ある歴史研究者は、古人が書いて残してくれたから歴史はあるが、書かれていないものはすべて消えてしまう、と言った。
戦争を経験された方々が語った言葉を記録し、後世へと綿々と紡いでいく。
それこそが「いのち輝く平和都市宣言」を行った長岡京市としての責務でもある。
「私たちは薄れつつある戦争の記憶を常に新たにし、その悲惨と災禍の歴史から、平和の尊さをくみとっていかなければなりません。」
この一文をかみしめながら、歴史の節目に決意を新たにする。
平和記念碑の献花式
8月1日 サイレントキラー
実験室の中央に備え付けられた装置の中に布団がセットされている。
外から部屋を観ている限り何の変化も感じ取ることができない。実際には、布団の中は熱源によって温度がぐんぐん上がっている。寝たばこの状況の再現だ。
部屋の外に設置をされたモニターには実験室内の一酸化炭素濃度がグラフで示されている。
10分が過ぎたあたりからだろうか。少しずつ室内の一酸化炭素濃度が上昇し始める。
そして26分が過ぎたころ、一酸化炭素を検知し警報器のアラームが鳴り響く。
ここは兵庫県三木市にある新コスモス電機株式会社の「プラシオラボ(PLUSCO Lab.)」。
火災を見て、火災について学べる実験室だ。過日、乙訓消防組合議会の調査で当該施設を訪問する機会を得た。
新コスモス電機は世界トップレベルのガスセンサ企業。その技術を活かし、COセンサを搭載した住宅用火災警報器の製造販売に取り組んでおられる。
先ほどの実験には続きがある。
COアラームが鳴ってから、通常の熱や煙を探知する警報器が作動するまで約13分。この差は大きい。
無色・無臭の一酸化炭素の別名はサイレントキラー。建物火災による死者の約4割が一酸化炭素中毒・窒息によって亡くなっている。また、住宅火災による死者の半数は逃げ遅れによるものだ。万一の火災の際、いかに早く気付けるかが生死を分かつ。
実は乙訓消防組合管内の住宅用火災警報器の設置率は令和6年度で81.1%。京都府の89.5%、全国の84.5%と比較をしても低く、かねてより課題として指摘をされてきた。
実は先日、我が家の火災警報器も設置から十年余りが経過し、電池交換の時期を迎えていた。
それだけに、今回実験で拝見をした警報器の威力への認識を新たにし、早速電器屋さんへ走った次第。
皆さんも、自宅には住宅用火災警報器を設置されているだろうか。
電池の残量もチェックの上、作動状況を確認しておられるだろうか。一度、点検されることをお勧めする。

プラシオラボの実験室のようす
7月25日 柔らかいガードレール
夏の暑い戦い、参議院議員選挙が終わった。
政権与党が過半数を割り込み、野党各党が議席を伸ばすという結果となった。
まずは、厳しい選挙戦を戦い当選の栄に浴された方々にお祝いを申し上げるとともに、今後のご活躍を期待したい。
少し前にも小欄にて記したが、今回の選挙の特徴は選挙区・比例区ともに多数の政党が候補者を擁立したことだろう。実際に、選挙戦を通じて与野党問わず激しい舌戦が繰り広げられることとなった。
ハーバード大のレビツキー教授らの研究によれば、世界各地での民主主義の崩壊過程を分析すると、独裁政治の出現は突如起こるというよりも、選挙を通じて選ばれた権力者が合法的な手段によってじわじわと時間をかけて進行する。ルールからの逸脱や対立相手の否定、暴力の許容といったことが見え始めると危うく、概ねその端緒は「言葉」によって始まる。そのうえで、民主主義がうまく機能するためには、二つの基本的な規範「相互的寛容」-競い合う政党がお互いを正当なライバルとして受け入れるという理解、「組織的自制心」-権力を行使する際に政治家は節度をわきまえるべきであるという考えが為政者に求められる。これを『柔らかいガードレール』と表現した。(民主主義の死に方/スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット、濱野大道訳/新潮社)
選挙も終わり、ここからは各党間で政権の枠組みや政策の実施に関して様々な協議が進んでいくことになるだろう。
安全保障環境も経済を取り巻く状況も決して気を抜けないのが我が国の現状だ。こうした事態のもと、政治がいかに振舞うのか注視される。
それぞれが激しい批判を繰り返してきた選挙戦のあとだけに、冷静に話し合いをするのは難しい側面もあるのかもしれない。
だからこそ、今、『柔らかいガードレール』が求められている。分断を進めないためにも。
7月18日 森悠子さんを悼んで
「まずは、紙風船を手でたたいて高く上げて!」
そんな声に、体育館では子どもたちが楽しそうに走り回っている。一見、体育や運動の授業のように見えるがそうではない。
長岡京室内アンサンブルの創設者・森悠子さんが主催する子ども向け音楽教室『プロペラプロジェクト』の一場面だ。
このプロジェクトは、子どもたちの中に潜んでいる自由で柔軟な発想力や自分で考える力(=プロペラ)を育てることを主眼において、本格的に演奏家を目指す子どもたちから、楽器に初めて触れる子どもたちまで、幅広い子どもたちを対象に長年、森さん自身が力を注いでこられた活動だ。
長岡京市でも、子どものころから本格的な文化芸術に触れる機会として、平成25年から市内の各小学校で事業を実施していただいてきた。
年明けに、市内すべての小学校を一巡したプロペラプロジェクトの報告に市役所へお越しいただき、「次は2巡目よ!」そう決意を語っておられた矢先のことだった。
本年3月、森悠子さんが天国へと旅立たれた。謹んで哀悼の意を表したい。
7月12日、森さんが大切に育ててこられた長岡京室内アンサンブルの「森悠子 追悼コンサート」が長岡京記念文化会館でおこなわれた。
舞台の片隅には、森悠子さんが大切にしてきたヴァイオリンがそっと置かれている。愛器が見守る中、いつものように一流の音楽家たちによって、息の合ったハーモニーを奏でる素晴らしい演奏を披露され、会場は満場の拍手に包まれた。
ただ、そこには森悠子さんの姿はない。あの小さな体で、感情がほとばしるようなパワフル演奏はもう聞くことはできない。きっと、寂しさを感じたオーディエンスもおられたに違いない。
それでも、舞台上で若い世代の方からベテランの方まで、とても楽しそうに演奏されている姿は、「自分で考えて音を奏で、お互いの音を聴いてハーモニーをつくり、合奏する楽しさを知って欲しい」と生前に語っておられた思いをまさに体現していた。森さんのプロペラの精神は確実に引き継がれている。
だから、森さん。安心して、安らかにお眠りください。これまで本当にありがとうございました。

生前、長岡京室内アンサンブルの演奏会にて森悠子さんと
7月11日 人口減少を前提として
講演で九州のある地方での在宅医療に関する取り組みについてお聴きする機会があった。
その地域では医師会事務局がハブとなりながら、医師や介護関係者のネットワークづくりや連携が進められている。
例えば、在宅医療の主治医が不在となった場合、手上げ方式で対応可能な医師のリスト化や患者に関する基本情報を共有できる仕組みを作るなど、地域にある医療資源全体を活用しながら対応しているとのこと。ポイントは無理をしない範囲で実行することだそうだ。
その前提にあるのは、人口減少は確実にすすんでいくという事実を受け入れてしまうということ。
当該エリアにおいて、この十年で約6.3%の人口が減少しておりその傾向はさらに加速化することが予想されている。同時に、担い手としての医療機関数もやはり減少している。
こうなると、まずは「人口減少を止めるために何ができるか」「医療機関をどう維持するか」という議論になりがちなのだが、この地域においては、人口や地域資源が減少していくことを一定所与の条件としながら、「どうすれば現在目の前にあるニーズを満たせるか」を主軸に、無理のない取り組みを実践されている。そのことが、具体的な成果として現れているのだろう。
これからは地方公共団体においても同様の課題に直面していく。
総務省では「持続可能な地方行財政のあり方に関する研究会」を通じて、人材不足が深刻化していく中、行政サービスを持続可能なものとするため、国・都道府県・市町村の役割分担の変更等の制度見直しの議論が進められている。
その報告書によれば、人手不足の市町村が業務を返上できる仕組みを設けることなども検討されている。もちろん、こうした議論が具体化すれば、これまで大きなトレンドとして進められてきた地方分権の流れに逆行するといった反発が生じる可能性もあるだろう。
しかしながら、社会を支える働き手の現役世代は、2040年に現在と比較してもさらに2割減少することは確定的である。
この事実を見据えながら、公務労働のみならず公共サービスを持続可能なものとするためどう備えておくのか。
現実を直視し、前提を考え直さなければならない時期にきていることは間違いない。
7月4日 企業の現場を訪れて
この間、民間企業の現場を訪問・見学させていただく機会に恵まれている。
一つは、京都センコー運輸株式会社の物流倉庫。
この度、長岡京市内に京都PDセンターを新設された。高速道路網へのアクセスの高いながらも事業所用地の不足している本市での開業を歓迎したい。今回、開所式にお招きいただき併せて倉庫内の見学もさせていただく。
ドラッグストアなど京都府下の個店への配送等を行われるそうだが、数多ある店舗へ多岐にわたる商品をいかに早く仕分けてタイムリーに届けることができるか。そのための様々な工夫が施されており、徹底して生産性にこだわった様々な工夫がされている。なるほど、私たちの日々の買い物で享受している当たり前はこうしたノウハウの積み重ねに支えられているんだ。
もう一つは、隣接する大山崎町にあるダイハツ工業(株)京都工場。
十数年前に一度見学したことはあったのだが、新しい工場を建設されてからは初めて。ボデーの溶接から塗装、組立、品質検査の工程をたっぷり見学させていただく。
ところどころに以前の工程との比較映像もあり、各工程での作業の自動化やロボットの導入などオートメーション化がかなり進んだことがよくわかる。自動車工場はどこも同じようなものだと思い込んでいたが、工場の広さや制約条件によって工場ごとで色んな工夫をされているそうだ。日本のものづくりを支える汗と知恵の結晶を垣間見た気がする。
それぞれに共通しているのが、暑さへの対策や作業時の体への負荷軽減など、働く方々への配慮や負担軽減に取り組んでおられることだ。今や多くの企業や事業所の皆さんとお話をしていてお聞きするのは、働き手の確保にとても苦労されているということ。
ICTやロボットの利活用はこれからも益々すすんでいくのだろう。
いや、むしろすすんでいかなければ、今後の人口動態からは生産や事業活動を同水準で維持していくことは難しいのかもしれない。
それでも、最後に頼ることができるのはヒトの力に他ならない。そんなヒトが働きやすい環境のもと、それぞれの事業所が発展されることを願っている。(文中敬称略)
京都センコー運輸株式会社 開所式のようす
ダイハツ工業(株)京都工場を見学中のようす
6月27日 塩梅(あんばい)
徳川家康に関するこんな逸話がある。
ある時、側室が家康に「世の中で一番うまいものは何か?」と聞いたところ、「塩」という答えが返ってきた。続けて、「では、世の中で一番まずいものは何か?」と聞いたところ、それもまた「塩」という答えが返ってきたという。
料理の味付けは塩次第。加減次第で美味しくもなれば、まずくもなる。要は、ものごとには「塩梅(あんばい)」が大切だということだろう。ちなみに、昔は梅を付けた時に出る梅酢を料理に使っていたところから「塩」と「梅酢」が料理の味付けの肝だったそうだ。これは完全に蛇足。
来週7月3日公示、20日投開票で第27回参議院議員通常選挙が行われる。
まずは暑い夏の選挙戦だ。立候補を予定されているすべての皆さんの健闘を心より祈念している。
今回の選挙は、これまで以上に多くの政党が選挙区・比例区ともに候補者を擁立し激しい論戦を繰り広げられることとなりそうだ。当該、京都選挙区においても同じような構図となっている。
選挙を戦われる皆さんは大変かと存ずるが、一方有権者から見れば、それだけ多くの選択肢から投票先を選べるということでもある。
選挙戦が近づき、各党からは公約の発表が相次いでいる。
給付か消費税減税かといった経済・財政政策に注目は集まりがちだが、社会保障では年金や医療・介護、子育て支援や教育政策、防災、働き方、政治改革といった内政にかかるものから、外交・安全保障、貿易政策など争点は幅広く存在する。
今では、各党の政策比較をわかりやすくまとめたウェブサイトなど得ようと思えば情報は数多く存在する。
そうした情報をしっかりと吟味し、必ず皆さんの一票を行使してほしい。
そのことだけが、皆さんが政治に求める「塩梅」を実現するため加減できる唯一の道なのだから。
6月20日 アプレンティス
元々「アプレンティス(apprentice)」とは、見習い・弟子・徒弟といった意味を持つ。職人の世界で親方のもとで技術や知識を学ぶ期間の人を指す。
米国のビジネス・リアリティ番組のタイトルとしてもよく知られている。
参加者は、見習い(アプレンティス)として様々な課題に取り組みながら周りを振り落とし、ホストを務める実業家の会社に採用されることを目指す。
その実業家の一人として登場したのが、ドナルド・トランプ現米国大統領だ。参加者に脱落を宣告する際の「君はクビだ!(You’re Fired!)」という決め台詞は流行語にもなったとか。
映画『アプレンティス~ドナルド・トランプの創り方』は、若きトランプ氏がアプレンティスからビジネスの世界でのし上がっていく姿が描かれる。
父親の不動産業を手伝うトランプはナイーブで純粋なお坊ちゃん。そんな彼が、高級クラブで出会ったのがマッカーシズムで悪名をはせた弁護士のロイ・コーン。トランプを気に入った彼は、人の道を踏み外してでも勝負に勝つ方法をトランプに徹底的に叩き込む。最初は躊躇もしていたトランプだがやがて勝利の快楽に目覚め始める。そして、着実に不動産王として力をつけていくのだが、同時にその過程でコーンの想像を超えるほど人物としても変貌していく。
ある時、コーンはトランプに球技で“人を追うな、球を追え”と教わったことを例に次のように言う。
「現実の世界はまったく逆だ。人を追え、球は追うな。
この国は法より人だ。人の批判など気にするな。
何が正しいかとかそんな基準は存在しない。
たった一つの真実など幻想にすぎない。人がつくったフィクションだ。
大切なのは勝つこと、それだけだ。」
映画の一場面の一つのセリフだとわかっている。わかってはいるが、今日の大統領のふるまいの原点としては決して架空の世界の言葉だとは思えないのだが。
6月12日 奴雁の精神
「奴雁(どがん)」という言葉をご存知だろうか。
奴雁とは、雁(かり)の群れが餌をついばむ時、仲間が外敵に襲われぬよう首を高くして周囲を警戒する一羽の雁のことを指す。
由来は、福沢諭吉翁が「群れた雁が野に在て餌を啄む(ついばむ)とき、其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、之を奴雁と云ふ。学者も亦斯の如し」と述べ、学者に対して、未来に向けて警鐘をならしたり、時流に流されることなく皆がきづかない危険を察知する立場であるべきだと説いたところから来る。1980年代、中曽根内閣の下で前川レポートを取りまとめた前川春雄元日銀総裁が好んで使ったことで有名になった言葉でもある。
この間、日本の国債市場において長期金利が上昇している。
市場では40年物国債が3.675%まで上昇(価格は下落)し、昨年末からの上げは1%を超えた。30年物も3.185%になり、ともに過去最高を更新。5月に行われた20年物国債の入札でも2.6%を超えるなど、国債の発行を担う財務省幹部の想像をも超える水準となっている(2025年6月10日日本経済新聞「きしむ日本国債(上)」)。
背景には、日銀が政策転換により国債の買い入れを減額していることがあるが、その減額を補うことを期待されている民間の金融機関の姿勢も鈍い。
こうした長期金利の上昇が企業や個人の経済活動に対して負の影響を与えることは必至であるし、国や自治体にとっては利払い費の急増は行政サービスの提供にも影響を及ぼす。
21世紀初頭に出版された経済小説のベストセラー、幸田真音氏の『日本国債(講談社)』では、国債の募集に際して応札額が大幅に不足する「未達」の世界が取り上げられ、我が国の財政に警鐘を鳴らした。
それから四半世紀。今起こりつつあることは、フィクションだった世界が現実化する兆しなのだろうか。奴雁はどう見るだろうか。
6月6日 民生児童委員ウィーク
朝の陽射しのなか、元気に登校してくる子どもたちを笑顔で待ち受ける。
一人ひとりの顔をしっかり見ながら声をかけ、変わった様子はないか確認する。
行き交う車のタイミングを見て、こどもたちが横断歩道を安全に渡り終えるのを見届ける。
歩く道すがら、子どもたちも嬉しそうに話しかけ、おしゃべりしながら学校へと近づいていく。
「いってらっしゃい」「いってきます」どこにでもあるやり取りかもしれないけどとても暖かい。
きりしま苑の大広間。畳の上にはおもちゃが所狭しと並び、やってくる子どもたちを待ち構えている。
お母さんに手を引かれた小さな子どもがポツリポツリ。
最初はお母さんの後ろに隠れてモジモジしているけど、やっぱり楽しそうなおもちゃに興味津々。
そんな子どもに優しく声をかけると、少しずつ表情も柔らかくなっていって笑顔が現れる。
楽しそうに遊んでいる子どもの姿を見守るお母さんもとっても嬉しそう。
「こんにちは、元気にしてる?」
慣れた様子で声をかけると、お一人暮らしの高齢女性がお家の中から玄関へ。
門口に座っておしゃべりに花が咲く。
昔の長岡京市の風景やお子さんたちが最近帰省されたこと、近頃のスーパーでの買い物事情などなど。
こうやって人と話すことが元気の源なのだろう。「熱中症には気をつけて」と声をかけ次のお宅へ。
今日のレクリエーション活動は「懐メロかるた」
往年の名曲の出だしの歌詞を読み上げると、サビの歌詞が書かれたかるたを取り合う。
「はい!」という元気な声が部屋に響き渡る。
お手つきなんて気にしない。テーブルを囲んだ高齢者の皆さんもやっぱり勝負には負けたくないみたい。
こんな楽しい時間があるから、ここに来る。それが日々の活力になるそうだ。
日々の暮らしの何気ない場面。
そんな日常の風景のなかに、土台となって支えるように、そっと寄り添うように、いていただけるのは民生児童委員さんたちだ。
この5月、民生児童委員ウィークと称して、私自身も民生児童委員さんの日々のお仕事の一部を体験させていただいた。
参加させていただいたそれぞれの活動は、本当に笑顔があふれ、人と人がつながることの温かさで満たされていた。それはきっと、民生児童委員の皆さんが築き上げてきた信頼関係があるからこそなんだと思う。
今年は、3年に一度の民生児童委員の改選期にあたる。
こんな「やりがい」のある民生児童委員というお仕事に、ぜひ関心を寄せていただけたらと望んでいる。


民生児童委員ウィーク 活動中のようす

5月30日 長岡天満宮本殿 50年ぶりの葺き替え
本市の名所のひとつ長岡天満宮。
菅原道真公が生前、在原業平らとともにしばしば詩歌・管弦を楽しまれたと言われ、公が太宰府へ左遷された折、立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と歌を詠んで名残を惜しんだご縁で創立されたと伝わる。その後、戦乱で焼失するなど幾多の苦難を乗り越えつつ、皇室からも御寄進御造営をうけ、寛永15年(1638)には「八条ヶ池」が築造されるなど春のきりしまつつじが愛でられる現在の姿へと発展を遂げてきた。
現在の本殿は、昭和16年(1941年)に平安神宮旧御本殿が移築されたもので、平安神宮創建当初の姿が今日まで残されていることも評価され京都府の指定文化財に指定されている。
現在、令和9年に迎える御神忌千百二十五年半萬燈祭に向けて、本殿の檜皮葺屋根の全面葺替えが50年ぶりに行われているとのことで、一般公開を前にその作業現場を見学させていただいた。
足場などですっぽりと覆われた本殿の屋根間近までのぼる。現在は、老朽化した屋根は撤去をされ、支える柱や骨組みは使えるものは活かしながら補修、その上に一枚一枚檜皮を葺く作業が行われている。まず、こんなに近くで見る機会はないだろう。状態がよく残された檜皮を間近で見ると、その質感に圧倒される。
職人さんが横に一列に並びながら、水で湿らせた檜の皮を丹念に重ねていく。少しずつずらしながら丁寧に。口に含んだ竹釘を器用に吹き出し、手際よく檜皮に打ち付けていく。その繰り返し。単純な作業のように見えるが、途方もなく感じられるほどの丁寧な作業の積み重ねこそが、あの人を圧倒する檜皮葺きの迫力を醸し出すのだ。まさに職人技。
檜皮葺きの技術は飛鳥時代から用いられており、多くの伝統的建造物でも採用されている。日本固有の技術で国外には同様の技術は見あたらないそうだが、その技術の承継が大きな課題となっている。そのため、今回のような文化財の保存修理は貴重な機会となるはずだ。
今年度中には完成する予定だそうだ。出来上がった美しい屋根を心待ちにしている。

長岡天満宮本殿屋根 修理のようす
5月16日 巨星、墜つ
「トランプ氏は間違いなく米国のソフトパワーにダメージを与えた」「米国の後退で生まれる空白を埋めることで、中国の影響力が増していくことになるだろう」
つい先日のインタビューでも、国際政治の現状に対し深い憂慮を示されていたところだったのに。(2025年5月4日 日本経済新聞)
連休明け、国際政治学者のジョセフ・ナイ米ハーバード大名誉教授の訃報が届いた。
ナイ氏は学者としてだけではなく、クリントン政権で国防次官補を務めるなど実務家としても活躍。知日派の論客で、1990年代に冷戦の終結を契機とした在アジア米軍の縮小論が出た際にも、力の空白が紛争の危険性を高めると指摘し、在東アジア米軍10万人体制を維持する「ナイ・イニシアチブ」を提唱し、日米同盟やアジアの安定に大きな貢献を果たす。
また、国際社会における「ソフトパワー」という概念を生み出したことでも有名だ。
パワー(権力)とは、他者を自分の望むように動かす能力であり、威嚇による強制、金銭的な報酬、魅力の3種類がある。ソフトパワーとは、他者を魅了することによって動かす力で、その国が持つ文化や、国内社会の状況、政治政策・外交方針などで構成され、軍事力など以上に外交でも大きな力を発揮するとし、その重要性を主張した。
紛争を解決する手段として武力の行使(ハードパワー)が頻発し、自国優先主義の横行、権威主義の台頭など、ソフトパワーとはまったく相いれない方向に世界が進み続けているこの時代に、一人の大きな知性と良心を失ったことは残念でならない。
冒頭のインタビューでは、それでも不安定化する国際社会の中での日米関係の重要性は不変であると説いた。せめてその遺志を受け継いでいくことが巨星への弔いとなるにちがいない。
5月9日 気候変動を身近に感じながら
今年のゴールデンウィーク、皆さんいかがお過ごしだったろう?
当方は公務の合間を見つけて、子どもの野球の応援に行ったり、地元・小倉神社の春祭りの諸行事やお神輿巡行など楽しく過ごしたのだが、全体的に例年と比べ寒かったように感じるのは気のせいだろうか。
GWが明けて仕事再開の朝も、最終日の雨の影響もあってだろうか、とても肌寒い日になった。例年、今頃には職場ではクールビズが始まり、連休中の衣替えを経てスーツも秋冬物から夏物へと切り替える時期なのだが。通勤中の電車の中では、薄手のコートを身に着けておられる方もちらほら。
やはり気候変動の影響の現れか、と言えば考え過ぎだろうか。
朝日新聞の記事によれば、世界の9割近い人々が地球温暖化対策の強化を望んでいるという調査結果が出たそうだ(以下、2025年5月7日朝日新聞・朝刊から)。
国連開発計画(UNDP)と英オックスフォード大学が77か国7.3万人を対象とした調査では約80%が、独ライプニッツ金融研究所とボン大学が125か国13万人を対象とした調査では約89%が、自国政府に対して気候変動への対策の強化を求めるよう回答した。一方、自分以外の人々が対策に前向きかどうかとの設問に対して、他人は後ろ向きだとの「思い込み」がある傾向がほとんどの国で示され、こうした認識のギャップが実際の行動を抑え込んでいる可能性があると考えられる。
ドイツの調査では、日本でもさらなる気候変動対策を求めると答えた人の割合は85.7%と高い結果が出ているものの、「自分一人ではどうにもできない」との「無力感」に加えて、気候変動対策は「生活の質を脅かす」と考える人が半数を超え、「負担感」もまた行動への阻害要因になっているのではないかと、総合地球環境学研究所の木原浩貴准教授は同記事の中で指摘している。
この春は、長岡京市の特産でもあるタケノコがかなりの不作だと多くの農家の方々からお聞きをしている。昨年の少雨の傾向と、春先の低気温、シナチクノメイガという蛾の発生による笹枯れなど、原因を一つに特定することは難しいかもしれないが、ここでもまた気候変動の影響がうかがえる。
私たちの日々の暮らしの中でも気候変動の影響が見て取れるようになったいま、世界中の多くの人が気候変動対策をのぞんでいるという事実が認識されたことはこれからの対策への追い風だと言える。私たちは決して無力ではない。
4月25日 多様性を感じる機会に~大阪関西万博開幕
先日、西代里山公園・西山ホタルの家で開催された『これからの里山を考える―超学際的アプローチの試み』と題した講演会を拝聴した。
長岡京市里山再生市民フォーラムの主催で、西山森林整備推進協議会の会長としても大変お世話になっている徳地直子京都大学教授が上記のテーマで登壇された。
里山に人の手が入らなくなったことで生物の多様性を生み出し、多くの恩恵を生み出してきた数々の機能が失われつつある。そんな現状への危機感から、この間、専門分野を超えた学際的な研究がすすみ里山をめぐる様々なデータが蓄積されつつあるそうだ。今後、こうしたデータに基づきながら生態系の管理を社会としてどう行っていくか、すなわちシチズンサイエンスの実践が求められている。講演会ではそうした問題提起がなされた。
講演の中でとても面白く感じたのが、里山自体の多様性が高ければ高いほど、そのシステムの安定性が高くなるということが各種データから裏付けられたということだ。樹種や生息する生物の多様性こそが、里山から供給される財の生産性の面からも、ダメージに対する冗長性・リダンダンシーの面からも、非常に有効に機能するそうだ。
このことはまさに、組織にとっても社会のあり方にとっても示唆に富むのではないか。講演をお聴きしながらそんなことを考えた。
「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとした『EXPO2025 大阪関西万博』がいよいよ開幕した。
23日、私もEXPO KYOTO MEETINGの開催に合わせて会場を訪れた。
曇り空のということもあったのかもしれないが、報道されているほどの混雑を感じる場面もあまりなく(もちろん人気のパビリオンは行列があったのだが…)、快適に楽しみながら京都府や本市に関連する企業の出展されているブースやパビリオンを見学させていただくことができた。
限られた時間の中、とても広大な会場を駆け足で回ったのだが、何より感じたのは、世界はまだまだ知らないことで溢れていて、世界はとても豊かで多様だということ。いや、逆かもしれない。多様だからこそ豊かなのだろう。これが万国博覧会ゆえの醍醐味であり楽しみに違いない。
そんな中、平日ということもあったのだろう、会場内ではたくさんの子どもたちが楽しむ姿を見ることができた。
多様性を大切にする入り口は、「違い」や「異なり」を知って感じることだと思う。
そして、世界各国から人々が集う万博はそんな「違い」や「異なり」を身近に肌で感じることができる絶好の機会に違いない。
多様性の大切さを十分に体感した子どもたちが担う未来は、きっと強靭で持続可能なものになるはずだ。そう期待している。
大阪関西万博の大屋根リング前にて
4月18日 自治体の思いを届けるために
16日に開催された京都府市長会の春季定例会において、会長の大役を拝命することとなった。
府内15市の市長で構成される京都府市長会。これまで会長職を務められた多くの先輩方の姿を後ろの方から頼もしく拝見してきた。その背中ははるか先にあるものとばかり思っていたのだが、いよいよ自分自身がその任を担うこととなる。
2年の任期の間、与えられた職責を、微力ながら誠心誠意、全力で務めていきたいと思う。
先行きの見通しにくい時代である。
国際情勢や世界経済の動向もさることながら、私たち自治体に大きな影響を及ぼす我が国の政治状況も混とんとしているのが実情だ。
昨秋以降、今年度予算の決定プロセスを客観的に見ていても、政権与党が衆院で過半数を得られない状況の下、各政党間の交渉や協議の結果、所得税控除をめぐる税制の変更や高校授業料や学校給食の無償化など大きな政策の決定が目まぐるしくなされる事態が生じている。
この状況を、私自身はボトムアップ型からトップダウン型へと政策決定のあり方が変わりつつあるのではないかと捉えている。
これまで、基本的に政権与党内の議論や省庁における行政面での検討が積み重ねられたうえで政策決定がなされるのが一般的なケースであった。
一方、この間、予算を成立させるために各政党間で交渉・協議がなされた結果、政策の方向性や大枠が先に決まり、制度設計や行政実務の観点からの検討など具体的な話はこれからというケースが多いように見受けられる。
必然、自治体にとって、影響が大きなことは予想されるものの、先行きを見通すことも具体的な検討を行うことすら難しい。ボトムアップ型の決定の際には行われていたであろう、自治体の現場の実情・実態、考え方や思いが決定に反映されるチャネルが入り込む余地は少ないものとなる。自治体の不安の種はこんなところにあるのではないだろうか。
だからこそ、市長会の役割は重要になる。
このような政治情勢の変化の中においても、政策の実施の多くを担うのは地方自治体だ。
地方の思いを国政に届けていくためにも、市長会の結束した行動が必要となる。そのために、汗をかいていきたい。そう決意している。
令和7年度京都府市長会春季定例会のようす
4月11日 長い箸
仏教の寓話に「長い箸」がある。
地獄の食堂も極楽の食堂も混みあっている。机の上にはそれぞれたくさんのご馳走がところせましと並んでいる。さあ、食べようと思うものの、困ったことに手もとには、とてもとても長い箸しかない。もちろん、手で食べるのはNG。さてさて、どうするか?
地獄の食堂の風景を覗いてみよう。
みんながわれ先に食べようとするも、あまりに箸が長いので自分の口に食べ物を運べない。挙句の果てには、箸の先がとなりの人を突いてしまったり、互いに肘がぶつかり合って、あちこちで喧嘩が起こっている。
一方、極楽の食堂では。
みんなが美味しそうに食事を楽しんでいる。
そう。長い箸で料理をつまみ、向かい合うもの同士が、お互いに相手の口に食べ物を運んでいる。とても満足そうな笑顔あふれる風景がそこにはあった。
自分のことしか考えない人間が集まった社会では、奪い合いの結果、誰も利益を享受することができない。人は一人では生きていけないということをみんなでよく理解し、互いに協力し分かち合うことができる社会こそ多くの恩恵を受けることができる。そんなメッセージがこの寓話には込められている。
米国のトランプ大統領が、全世界を対象にした相互関税の導入を発表した。各国に一律10%の関税を課したうえで、国・地域ごとに異なる税率を上乗せするという。戦後、構築されてきた自由貿易体制の大きな転換点となることは間違いない。
各国が得意とする物品を生産し、必要とする国に供給する方が効率的で経済成長につながるとする経済学の「比較優位」の考え方はもちろん、保護主義による世界の分断が第二次世界大戦を引き起こしたことへの反省から、国際社会では自由貿易のルール作りが進められてきた。それはまさに、互いに協力し合うことで生まれた利益を分かち合うという思想に他ならない。
結果、世界経済は大きく成長したし、その果実を最大限に得てきたのは米国のはずなのだが…。
すでに、株価など世界経済は大きく動揺し始めている。
「自国」第一主義を唱える彼の御仁に先ほどの寓話は届かないものか。この道が「地獄」へつながる道でないことを願っている。
4月4日 考え続ける力
春は別れの季節であり、出会いの季節でもある。
今年は3月31日に22名の方が市職員として一つの区切りを付けられ、翌4月1日には24名の方々を市役所の新しい仲間としてお迎えした。
これまで市政の推進にご尽力いただいてきた皆さんのご労苦に心より感謝と敬意を表すとともに、引き継いだバトンをしっかり受け止め、新たな仲間とともに歩んでいきたいと思う。
今年度のスタートにあたり、新入職員をはじめすべての職員の皆さんにお伝えしたのは「考え続ける力」の大切さだ。
VUCAという言葉で表されるように私たちが生きる現代は、揺れ動きやすく、曖昧、不確実で複雑な先行きを見通しにくい時代だ。行政課題も複雑化・多様化しており、一つの決断をめぐり価値が対立することもあれば、新たな課題を生み出すこともある。絶対的な正解がある課題などほとんど無いと言ってよい。
一方、私たちはインターネットやSNSを通じて多くの情報へのアクセスが容易になったし、AIやアルゴリズムによって答えらしきものに極めて簡単にたどり着けるようになった。もちろん効率性という観点からは、こうした新たな技術が否定されるものでは決してない。
そこで求められるのが、簡単に答えに飛びつかないこと、下した決定や現状を批判的に検証すること、答えの出ない問題に対しても挑み続けることだ。答えや結論のない状態、不確実な状況を受け入れ、継続して向き合い続けることは、思いのほか苦しく、そう容易いことではない。だとしても、考え続け、考え抜いた先に、自分たちで答えや正解を導き出さねばならない。
この「考え続ける」プロセスこそが、私の言う「対話」に他ならない。
本年度もまた、そんな「対話」を通じて考え続ける一年にしていきたい。

市役所令和7年度入所式のようす