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くらしの中の人権

  • ID:8552

スポーツ観戦から考える人権

スポーツは、私たちに感動や興奮を与えてくれるだけでなく、国境や文化、言語の壁を越えて人々を結びつける力を持っています。しかし、2024年のパリオリンピックでは、女子ボクシング競技において、一部の選手が「生物学的に男性に近い」との観点から、女性競技への参加は競技の公平性に反するのではないかと懸念の声が上がり、スポーツ界における「人権」問題の根深さが改めて浮き彫りになりました。

これは、決して他人事ではありません。私たちの社会全体で、生物学的な特性と競技の公平性、そして個人の権利など、いずれも大切な価値観の間で、複雑な議論が生じうる時代となっていることに、私たちはもっと気づかなければなりません。

私たちはともすれば、自分とは異なる意見や立場の人と出会った時、感情的に反発したり、一方的な主張をしてしまいがちです。しかし、本当に大切なことは、まずは「自分とは異なる意見の人がいる」ということを認め、相手の立場や考え方を理解しようと努めることではないでしょうか。

例えば、身近なところでは、LGBTの問題についても同じことが言えるのではないでしょうか。相互理解を深めるために、関連書籍を読んだり、映画を観たり、イベントに参加してみてはいかがでしょうか。今まで知らなかったLGBTの方々の悩みや、社会で直面する困難を知ることで、自分自身の偏見や固定観念に気づくことができるはずです。

私たち一人ひとりが、人権について学び、考え、行動することで、自分と異なる意見や立場の人に対しても、尊重の念を持って接することができるようになり、差別や偏見のない、誰もが自分らしく生きられる社会を築けるはずです。長岡京市では、誰もが自分らしく生きられる社会の実現に向けて、様々な人権啓発活動に取り組んでいます。まずはできることから、共に始めましょう。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

「らしさ」の鎖

「(女の)私が働かなくても、旦那に外で働いてもらえばいいかなって思って」とある飲食店で、女性2人の無邪気な口調で交わしている会話が聞こえてきて、私は思わず箸を止めました。

日常には、気づかぬうちに性別役割に基づく偏見やステレオタイプが潜んでいて、選択の自由を奪っています。性別役割の固定化に気づくために、男性と女性を入れ替えてみて奇妙に感じることがないか、考えてみてください。

たとえば、以下の例はどうでしょうか。

・「結婚し、母親になることが女性の幸せだ」→「結婚し、父親になることが男性の幸せだ」

・「女性は家事や子育てが得意だ」→「男性は家事や子育てが得意だ」

・「男性は泣くべきではない」→「女性は泣くべきではない」

・「男性は外で働き、家族を経済的に支えるべきだ」→「女性は外で働き、家族を経済的に支えるべきだ」

男性と女性を置き換えてみると、違和感が浮き彫りになる方もいるのではないでしょうか。このような性別に依る期待は、私達が無意識のうちに受け入れていることであり、知らず知らず他人に押し付けていることでもあります。相手の行動を奇異に感じた時や批判したくなった時は、まず自分の思考の根底に性別に関する無意識のバイアスが影響していないか、考えてみてください。

性別役割の鎖から解き放たれて自由な選択が尊重される社会こそ、人権が守られる社会の理想の形だと思います。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

マザー・テレサに学ぶ

 世界の貧困に苦しむ人々に無償の愛を注ぎ、1979年にノーベル平和賞を受賞されたマザー・テレサさんは、道徳の教科書に載っていることでも有名です。彼女は訪日したとき、「最も悲惨なことは、飢餓でも病気でもなく、自分が誰からも見捨てられていると感じることだ。さらに困難なのは、精神的な飢え、愛の渇き、心の飢えだ。」と訴えました。

 愛の反対は憎しみでなくマジョリティ(大多数)の無関心。そして、豊かさの中でも寂しい思いをしている人がいることを忘れないで。と訴えたのです。

 今もあるいじめや差別を直接していなくても無関心であれば、いじめや差別に加担することになります。子どもの世界では、いじめによる相次ぐ自殺や自傷行為、不登校の問題があります。この問題を改めて考えてみると「加害者」・「被害者」という二者関係だけでなく、学級や部活動等の所属集団の構造上の問題(例えば無秩序性や閉塞性)が指摘されています。

 また、「観衆」として、はやし立てたり面白がったりする子や、周辺で暗黙の了解を与えている「傍観者」の存在があります。当然のことながら、いじめる子より圧倒的に多いのは、そんなことはダメだとも思わず自分とは関係ないとやり過ごす「傍観者」です。

 たとえ自分から仲介者となり「いじめをやめよう。」と言えなくても、いじめられている子を励ましたり、信頼できる大人や先生、友だちにつなぎ、相談したりして、行動できる子が増えれば、事態は解決に向かうと考えます。

 このことは大人社会における差別の問題にも当てはまります。他人事ではなく、当事者意識を持つことで、差別もいじめもない皆にとって暮らしやすい社会を作っていきたいですね。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

伝え方の工夫

 Iメッセージをご存知ですか。

 「私」を主語にしたメッセージのことで、相手に自分の意見を伝え、行動を促すのに適しています。対して「あなた」を主語にしたメッセージがYOUメッセージです。

 例えば、「トイレをきれいにお使いいただきありがとうございます(私は感謝している)」はIメッセージ、「(あなたは)トイレをきれいに使いましょう」はYOUメッセージです。同じ要望でも、YOUメッセージでは相手への強制感がより強く伝わってしまいます。身の回りで気を付けていると、随所でIメッセージが使われていることに気づきます。

 近年、私たちが働く社会ではハラスメントが深刻化しています。令和2年の厚生労働省の調査では約3割の人が3年以内にパワーハラスメントを受けたことがあるとされ、法改正によりパワーハラスメントの防止対策が事業主に義務化されるなど、各種ハラスメント対策が強化されています。

 ハラスメントは、個人の尊厳や人格を不当に傷つけ、人権を侵害する許されない行為です。

 一方で、特に会社組織では、誰もが組織の一員として、指導育成を受けた経験があると思います。必要な範囲の指導とパワーハラスメントになる指導の違いを考えるときに、その伝え方も重要なポイントになります。

 私は日常生活でつい不用意な発言をして、後になって相手にも事情があるのではないか、自分の思いの押し付けではないかと反省することがあります。冒頭のIメッセージも、単なるコミュニケーションスキルではなく、相手の人格を尊重する姿勢が言葉に表れるのだと考えます。

 一度、立ち止まり、相手を尊重した伝え方を工夫することで、ハラスメントのない社会に一歩近づけるのではないでしょうか。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

SNSでつながる豊かなくらし

 インターネットを通じた情報コミュニケーションは、私たちのくらしの中で欠かせないものとなっています。なかでも気軽につながり、情報共有ができるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、急速に普及しています。

 この数年、実際に会えなくてもSNSを通じて、趣味やスポーツ、グルメや勉強などのさまざまな出来事について、気軽に意見交換し、交流を深めることができるコミュニケーションツールとして大きな役割を果たしました。

 一方で、自由に書き込みや発信ができる手軽さから、人権侵害に関わるトラブルや事実と異なる情報が一気に拡散する事象が多く発生しています。未知の感染症や災害など、不安な状況を感じる場面では、自分と違う考えに強く違和感を持ったり、正義感や善意によって、過剰な書き込みをしたりする傾向が指摘されています。こうした行動により、個人情報の流出やプライバシーの侵害、誹謗中傷などにつながり、結果的に被害者の心を深く傷つけ、命に関わる深刻な事象も起こっています。

 自身が加害者にも被害者にもならないために、「この情報は本当に正しいのか」「これを発信することで差別や偏見につながらないか」など、常に冷静に受け止め、考えながら上手に活用することが重要です。さらに、暮らしの中で、自分とは違う価値観の人に出会ったときこそ、その違いを受け止め、誤解や思い込み、偏見などがないか再認識することで、多様性を認め合う豊かな暮らしにつながるのではないでしょうか。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

自分と他者の境界線

春は進学・就職・異動など環境が大きく変わる季節です。

新しい環境での生活に期待が膨らむ一方で、そこでの人間関係に不安を感じる人もいるのではないでしょうか。

他者との関係を築くうえで参考になる考え方に「境界線(バウンダリー)」があります。

境界線(バウンダリー)とは、「自分と他者を区別する心理的なライン」を意味します。

建物の外壁が土地の範囲を仕切るように、人間のあいだにも自分とそれ以外を区別する目に見えない境界線が存在しています。

また、その外壁が土地の所有者以外は許可なく立ち入れないことを明示するのと同様に、境界線も他者から干渉されない自分の領域を教えてくれるものです。

上司・同僚、友人や家族間であっても境界線は存在していて、それに自分の領域が守られ、誰にも侵されていないことで私たちは安心を感じられます。

境界線が曖昧になると、領域内に他者の存在や意見が入り込み、自己が揺らいで不安定な状態に陥ります。

パワハラやセクハラ等のハラスメントをはじめとしたあらゆる人間関係の不和の根底には、境界線の問題が生じているとも言えます。

健全な人間関係を築くためには、自分と他者の境界線をきちんと認識すること、そして、何よりも相手の立場や気持ちを思いやり、気づかうことが大切だと思います。

自分は自分、人は人としてあるがままに受け入れること、お互いを尊重することで、良好な人間関係、ひいては健やかな社会をつくることができるのではないでしょうか。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


考え方を変えてみて

  もう数十年前に参加した人権研修会で講師の先生が次のような文章を提示されました。

『交通事故が起きました。タンクローリーが、ある男性と彼の息子をひきました。父は即死です。息子は病院へ運ばれました。彼の身元は病院の外科医が確認しました。外科医は、「息子!これは私の息子!」とおののきながら叫びました。』

  多くの参加者が、「えっ!」という不思議な顔をして考え込んでいました。この外科医は女性で亡くなった男性の妻だったのです。

  現在なら何の不思議もなく理解できる文章かもしれません。しかし、当時、多くの参加者は、外科医が男性と決めつけて考えていたため不思議な文章に思えたのです。

  このように私たちの身の回りには、思い込みで考えてしまい間違った捉え方や考え方をしてしまうことがあります。また、見方や考え方を少し変えれば捉え方が大きく変わってくることもあります。

  例えば、同じ人を見てもプラス感情で捉えると「素直な人」となりますが、マイナス感情で捉えると「人の言いなりになる人」となるかもしれません。逆に、自分では「引っ込み思案」と思い込んでいても、他人から見れば「謙虚な人」と見える場合もあります。

  様々な人権に関わる問題も思い込みによって間違った捉え方をしていたり、マイナス思考で捉えたりしていることに起因していることがあります。

  人権の世紀といわれる21世紀を生きる私たちは、様々な人権に関わる問題を解決するために、正しい知識を持ち、多くの情報(多面的な見方)から正しいものを見分け、正しく判断していくことが必要です。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

障がい者理解を深める

  私の娘は生まれつき目の病気があります。現在は、なんとか白杖なしで生活はしていますが片方の目の視力はなく、もう一方の目も視野が欠け、弱視の状況です。

  進行性の病気で、中学生の時に現在の状態になったのですが、当時はよく階段を踏み外したり、電柱や歩道にある低い柱にぶつかったりしていました。また、学校での定期テストも苦労したようで、特に国語の長文の文章題には全く歯が立ちませんでした。

  娘が障がい者になったことで、私の意識も変わってきました。

 それまでは街中で見かける点字ブロックや音声案内には気にも留めませんでしたが、今は、「この点字ブロックの配置はこれでいいんやろか」などと関心を持つようになりました。

  また、これまで私は白杖を持った人に声をかけたことはありませんでした。それも今は「何かお手伝いしましょうか」と声をかけられるようになりました。あたりまえのことですが、障がいがある人が身近にいることは、人権教育で大切な「当事者意識」を高めることにつながる、と身をもって感じました。

  今、学校では「障がい」や「特性」についての理解教育を積極的に行っています。子どもたちは授業を通して「違い」「配慮」「支援」について素直に学んでいきます。しかし、「もっと深められたらいいのになあ」と感じています。そのための一番は、障がいがある人との交流だと思います。一緒に何かをする、一緒に何かをつくる、一緒に何かを食べる、そういう「触れ合い」を通じて障がいがある人を身近に感じ、頭だけではなく「心」でも理解する、そういうことが大切ではないでしょうか。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

日常生活の中の気づきを大切に

  私の愛犬は、グレートピレニーズと言う種類の超大型犬です。 体重は、52キロあります。

  先日、犬のお散歩中、もちろんリード(引き綱)は、短く持ち道路の端側を歩かせていたところ、親子連れらしき二人がこちらに向かって歩いて来られました。「大きいね、怖いよ。近づいたら咬まれるよ。」「怖いね。咬まれる!」と手をつないだ3~4歳くらいの子どもさんに何度も大きな声で言って通り過ぎて行きました。私は、とても悲しい気分になりました。

  私の犬は、確かに大きいですが性格は、優しくて子ども好きです。

  見た目では、犬の性格は分かりませんし大きいから怖いと決めつけた言い方で何も分からない子どもに言ってしまうのは、どうでしょうか?

  この事件は、私には、人権と言うことを思い考える機会となりました。

  私の家族にもお散歩事件のことを伝え、自分の思い込みを押し付けた言い方で子どもに接していないだろうか等、子どもへの声掛けの仕方を一緒に考える時間が持てました。

  大きいから怖い、小さいからかわいい、男性だから強い、女性だから優しい等と一方的に決めつけた考え方をしていませんか?。

  日常の生活の中にもちょっとした気づきの瞬間があるものですね。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

絵本の力

  外出の機会が少ない高齢者が何か家で楽しめる方法はないかと図書館へ相談に来られた人があり、絵本を紹介しました。

  高齢になってくると、大人の本を今まで通りひとりで読むということが、身体的にも精神的にも難しくなってくると言います。

  絵本は、絵と言葉によって表現され、人物や風景などのイメージを広げやすく、物語の展開がわかりやすいことから、子どもだけでなく高齢者にとっても適した本です。絵の色彩が癒しを与え、添えられた短い文章は理解しやすい効果があります。

  また絵本は、子どもの頃に回帰することができます。「幼い頃に読んでもらった」、「自分で読んだことがある」、「子どものころの生活が描いてあって懐かしい」などの思い出を甦らせてくれます。昔のことを思い出すことは、脳の血流を増加させ、認知機能がアップすることが証明されています。

  基本的人権の1つに、「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。」(生存権)があります。歳を重ねても、文化性が高く心を豊かにする読書の時間を持つことは生きていく上で失いたくないものです。

  絵本は子どもの本と思われがちですが、大人が読んでも楽しいものです。

  慌ただしく過ぎてゆく毎日の中で、ゆったりと流れる絵本の世界を楽しんでみませんか。

  子どもや高齢者だけではなく、誰もが絵本で癒され、心が安らかになると周りの人にも思いやりの気持ちを持つことができ、人に優しい社会になるのではないでしょうか。

  相談に来られたご家族と高齢者が、絵本の力で笑顔あふれる生活になることを願います。


  (長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

「丸刈り」は当たり前?

  みなさん、今年の夏の高校野球は見ましたか。

 今年は神奈川県代表の慶應義塾高等学校が107年ぶりの優勝を果たしました。

 そんな慶應の選手たちがひと際注目を集めたのがサラサラのヘアスタイルです。慶應以外にも髪を長く伸ばした、いわゆる「丸刈り」でないヘアスタイルの選手、高校が目立ち大きな話題となりました。

 高校野球でおなじみの「丸刈り」のヘアスタイルですが、今年の大会をきっかけにヘアスタイルを理由に野球をしない、続けない子どもたちがいることを知りました。古くからの慣習やイメージによって野球をすることを諦めるという状況が生まれてしまっていることを知りとても驚きました。

  多くの高校では「丸刈り」のヘアスタイルを強制していません。それでも、「丸刈り」のヘアスタイルが多いのは事実です。

  これは強制していなくても、暗黙のルールのように定着してしまっていることで選手に自由な選択の機会を奪っているという状況が存在するということです。もちろん「丸刈り」を希望している選手もいると思います。「丸刈り」がいけないのではなく、自由な選択ができないという状況が存在することで、この先社会に出ていく子どもたちの個性や柔軟な発想を奪うのではないでしょうか。

  高校野球では「丸刈り」が当たり前というイメージのように、これが当たり前というイメージは知らないうちに自分や他の誰かを縛ってしまっているかもしれません。

 常識や当たり前は国籍、人種、宗教、年齢、性別など個人の状況によって違います。人それぞれの当たり前を受け入れる姿勢と自分の当たり前を押し付けない姿勢を大切にし、高校野球児のようにのびのびと明るくいられる環境が球場の外にも広がっていけば良いなと願います。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

文化財を通して

 長岡京市では毎年7月19日を「平和の日」と制定しています。 

 この日は、太平洋戦争末期の昭和20年に米軍機の銃撃を受け、市内で1名の犠牲者と数名の負傷者が出た日です。

 平和の日の前後に開催される平和フォーラムでは、献花式や講演会のほか平和を考えるきっかけになればと、戦争の影響が人々の日常生活に浸透していく様子がわかる歴史資料や写真などの展示を行っています。

 こうした歴史資料や写真を含む文化財は、その当時の歴史的背景や様子を知る上で現存する唯一のものであり、後世に伝えていかなければその事実がわからなくなってしまうものです。

「文化財」と聞いたとき、戦争とは一見、何も関係のないように思われるかもしれませんが、非常に重要な役割を果たすものであり、密接な関係にあるものだと考えます。

 文化財は、人々の生活の中で積み重なってきた「文化」の「財産」です。

 戦争は、最大の人権侵害だと言われています。戦争では、人々は様々な権利を制約され、否定されたりします。生存する権利も脅かされます。

 ロシアによるウクライナ侵攻は今も続いています。

 この間に、軍事関係者だけでなく、関係のない多くの市民やこどもの命が日々たくさん失われており、多くの文化財が破壊されています。本来なら体験しなかったはずの悲しい体験をしています。

 戦争の悲惨さを正しく後世に伝え、平和と人権の尊さを訴える証言者としても文化財には大きな役割があります。

 幸いにも私たちは日本で平和に生活することができています。 この日々の平和を守っていくためにも文化財を大切に保存していきたいと思います。     


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

「ノーサイドの精神」

 みなさんはラグビーの試合で使われる「ノーサイド」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 ラグビーの試合終了を意味する言葉で、起源はラグビー発祥の地、イングランドだと言われています。 試合が終われば、敵と味方、勝者と敗者の区別はなくなり(No Side)、お互いの健闘をたたえよう、というメッセージが込められた言葉です。 

 また、ラグビーの試合には応援しているチームによって席が分けられていることがありません。自分とは趣意、趣好が全く違う人が隣の席で観戦していることもあります。自分とは違う人のことも認め合い、試合終了後にはファン同士も敵味方関係なくお互いをたたえあいます。

 試合中、時にお互いがぶつかりあい、負傷することもままある激しいスポーツだからこそ、選手だけでなく、応援するファンも含めてお互いをたたえあい、同じラグビーの試合を楽しんだ者同士の友好を深める姿勢、つまり「ノーサイドの精神」が育まれたのかもしれません。

 現在、海外では、ラグビーの試合終了を「フルタイム(Full Time)」という言葉で表現しているそうですが、「ノーサイドの精神」は生き続けています。

 ラグビーに限らず、試合終了後に行う整列、礼、握手、ユニフォーム交換など、勝敗を超えたところで「相手を尊重し健闘をたたえる気持ち」を形に表す場面はスポーツや武道において多々見られます。 ルールのもと皆平等であることはもちろん、プレイ中のマナーやフェアプレーの精神、そして相手を尊重する気持ちなど、身をもって学び成長できることがスポーツの大きな魅力であり、見る者の心を打つ理由ではないでしょうか。

 いよいよラグビーワールドカップ2023フランス大会が現地時間の9月8日金曜日に開幕します。

 試合を通じて相手を尊重する選手やファンの姿にも注目し、多くの人たちと感動を分かちあうことで人を尊重する気持ち、人によりそう気持ちを育くめたら良いなと願っています。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

子どもの意見表明と社会参画

 「こども基本法」をご存知ですか。

 こども施策を社会全体で総合的に推進していくための基本法として令和4年6月に成立し、令和5年4月に施行されました。

 この法は、全てのこどもが、将来にわたって幸福な生活を送ることができる社会の実現を目指すことを目的としています。その基本理念の中には、「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること。」とされています。これは、どの子どもも、自身で意見を表明することができるということです。 

 この法を学び、思い出したことがあります。

 それは、本市の小学4年生「特別活動」の授業を参観したときの一コマです。 

 この授業では、お楽しみ会で何をするかを決めるため、児童が活発に話合いをしていました。授業は終盤にさしかかり、この授業の中で結論を出そうと、話合いを進める司会の児童たちも必死です。そんな時に、「時間がないからといって、その意見を取り下げるのはおかしくないですか。まだ、私はその意見の改善案を発表していないので、それを聞いてもらってからでもいいですか――」と意見を表明する児童が出てきました。 

 私は、その発言内容もさることながら、小学4年生の児童が、多くの参観者がいるなかで、臆することなく、堂々と自分の意見を発表したことに感銘を受けました。

 意見を表明することをしなければ、自分の思いや考えは他者には伝わりません。

 自分の属するコミュニティにおいて、嫌なことは嫌、ダメなことはダメと積極的に意見を表明することのできる子どもたちを育てていくことは、自分や他の人の人権を守れるという意味でも学校教育に課せられた一つの使命であると感じています。

 子どもたちが将来にわたって幸福な生活を送ることができるよう、学校におけるさらなる人権教育の充実に努めていきたいと考えております。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


家族のために頑張る子どもたち

 家族のために頑張る子どもたち。この言葉を聞いてどう感じますか?

 「子どもが家族を手伝うのは当たり前では?」という意見もあると思います。しかし、本来享受できたはずの、勉強に励む時間、部活に打ち込む時間、将来に思いを巡らせる時間、友人と一緒に過ごす時間...これらの「子どもとしての時間」が失われているとしたらどうでしょう?

 最近、新聞やメディアなどでもよく聞くようになった「ヤングケアラー」という言葉。ヤングケアラーとは、本来、大人が担うような家族の介護や世話を日常的に行っている、18歳未満の子どものことを言います。厚生労働省の調査によると、中学2年生の約17人に1人、高校2年生の約24人に1人、つまり1学級に1~2人の割合で存在することが明らかになっています。

 つい先日、当事者の方の経験談を聞いたとき、その方は、物心がついた頃には両親のケアをすることが当たり前で、「家の中のことを他人に話すことは恥ずかしい、言ってはいけないこと。だから誰にも打ち明けられず、苦しかった。」と語っていました。

 ヤングケアラーに対して行ったアンケートの中でも、「学校や大人に助けてほしいことは?」という質問に対し、「特にない」という答えが圧倒的に多いそうです。なぜなら、「本人にも自覚がないから」。ヤングケアラーの子どもたちの多くは、ほかの家庭環境を知るきっかけが少なく、自分の置かれている状況を当たり前だと感じる場合が多いのです。また、「家族のことを周りに相談できる人がいなかった。」と答える子も多く、いくつもの要因が複雑に絡まりあって、ヤングケアラーが抱える困難さ、生きづらさが見過ごされてきていることに、衝撃を受けました。

 まずは、私自身が周囲を見ていきたいと思います。すると家庭内に困難な事情を抱えている子が存在することにに気付けるかもしれません。私が、その困難な状況に気付き、声をかけ、手を差し伸べることで、子どもたちが「自分は一人じゃない」、「誰かに頼っても良いんだ」と感じてほしいです。そして、皆にヤングケアラーが身近に存在する可能性を伝えていき、全ての人にとって暮らしやすい社会になる一助となることを切に願います。

 (長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


性の多様性

 人には、一人ひとりに個性・特徴があり、年齢、生活習慣や人生観などに多様性があるように、性についても性的指向や性自認などに様々な性のあり方があります。 LGBTQとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング(またはクィア)の頭文字からなる言葉ですが、 「出生時に判定された性別と性自認が一致し、かつ性的指向は異性」という多くの方が存在しています。

 現代社会の中で、性的マイノリティを理由に、受けられるべきサービスが受けられないことや差別や偏見を受けるなど、苦しんでいる人々がおられます。また、伝統的な家族観や宗教上の観点から性的マイノリティに対して否定的な考えが根強く残っていることも事実です。しかし、本来であれば性的指向や性自認に関わらず、全ての人々が心理的、経済的、社会的不平等や不利益を強いられることのない社会でなければなりません。社会にはさまざまな「違い」が存在します。その「違い」を相互に尊重することが多様性を認めあうことにつながります。

 性のあり方は多様であり、一人ひとりの人権に関わることです。大切なことは、性のあり方の多様性を知り、一人ひとりの性のあり方を尊重することです。

 悪意がなくても、普段の生活の中で、誰かを傷つけているかもしれません。思い込みや偏見を捨てて、正しい知識を身に付け、誰もが認め合う共生社会を創りましょう。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


水は限りある資源

 日本の水道普及率は98%を超え、豊かな水源と高い技術力によって、世界有数の「飲める水道水」を誇っています。また、その水道も利用を希望すれば、大多数の方が等しくサービスを受けることができます。

 しかしながら、世界に目を向けると未だ数億人の人々が十分な給水の環境や衛生に関わるサービスを受けることができていません。そういった地域や家庭では、生活に必要な水汲みが子どもの仕事になっており、一日に何度も重い水を運んでいる子どもは学校に行くこともできません。しかし、もちろん限られた富裕層は、上下水道のサービスを受けられ、衛生状態も保たれています。このように、様々な生活様式において格差が広がってきています。

 私たちが生きていく上で最低限必要となる水の量は、一日あたり一人3L程度と言われています。水分が不足すれば当然私たちは生きていくことはできません。また、飲用以外にも水を使って顔や手そして体を洗い、炊事や洗濯及びトイレを流すことで公衆衛生も保たれています。日本では当たり前のように水道が使用できるため、普段あまり意識することはないのかもしれませんが、安心安全な水をいつでも利用できることは、日本国憲法が保障する基本的人権でもあるのです。

 水は限りある資源です。みんなで大切に利用し、いつまでも使い続けられる豊かな社会を作っていけたらいいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


部活動の育成指導と体罰の違い

 スポーツの名門校において、部活動中に体罰が行われたとのニュースを最近よく耳にします。ある事例では、部活動の練習中にミスをした生徒に対して髪を鷲掴みにして引っ張ったり、至近距離から顔をめがけてボールを何度も投げつけたようです。また、生徒に対して入部から2年近く暴言や必要性を欠く叱責を繰り返していた事例もありました。昔の部活動の指導は「厳しさこそがスポーツ」であるといった風潮があり、指導者が情熱を注ぐあまり、スパルタ指導が多く、当たり前のように体罰が存在していたかと思います。今現在でもそのような体罰を伴う指導が行われていることに強く憤りを感じています。

  テレビのバラエティ番組でも昔の無茶苦茶な指導方法を笑い話として取り上げていますが、あくまで昔の話として捉えているからこそ視聴者も笑うことが出来るのであり、現在もそのような指導方法が行われていれば、直ちに改善していかないといけません。指導者だからと言って生徒に何をしてもよいということはなく、体罰は紛れもなく暴行罪です。

 家庭でも似た状況があるように思います。我が家には、二人の子どもがいますが、年々、親の言うことを聞かなくなってきており、感情的に叱ってしまうことがあります。体罰のニュースを見るたびに、より良い子育ての方法があるのではないかと日々自問自答する毎日です。先日、野球のWBC(ワールド ベースボール クラシック)大会で日本が優勝しました。「侍ジャパン」を優勝に導いた栗山英樹監督は、コーチや選手たちにどんな指導をしていたのでしょうか。記者会見で管理職が若者と向き合う時のコツを聞かれると「僕もその答えがわかったら幸せだ。僕が思っているのは、自分が若い時も“今の若者は”と言われたし、誠心誠意、正面からぶつかる、ということ。選手と話して真正面から話す、選手からすると面倒くさいと思うと思うが、その作業だけは、自分でしていかないといけない。それが参考になるかわからないが」と話しました。

 指導者(親)が生徒(子ども)に対して対等な立場で向き合い、常に自己研鑽を図りながら自らも成長していく必要があるのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


暗闇の中で

 10年以上前の話になります。まっ暗闇の中で半日間、面識のない人たちと過ごす機会がありました。それは研修の一つで、会場に着くと、いっしょに研修を受ける人たちが集まっていましたが、会話や自己紹介をする間もなく、まっ暗な部屋へと連れていかれました。暗闇の中では、研修を担当する先生の指示に従い、研修メンバーと室内を散歩したり、ゲームをしたり、お昼ご飯を食べたりしました。ゲームといっても、ブロックを組み立てたり、積み木を並べたりと簡単なものだったのですが、うまくできなかったり、できても多くの時間をかけて、メンバーと何度も情報交換をして、やっとできるといった感じでした。

 お昼ご飯は、サンドイッチと熱めのお茶で、メンバー全員分をひとまとめにしてテーブルに置かれていました。サンドイッチを配るのは簡単でしたが、お茶は、やけどしないようコップに注ぎ、いきわたっていないメンバーを見つけ、こぼさないように渡していきます。どこにあるのか、どれくらい熱いのか分からない中、危ないときには、先生のアドバイスをもらいながら、なんとか配り終えたのを覚えています。

 暗闇で様々な体験をしていく中で、目が見えないことの大変さはもちろんですが、その他にも、いろいろと気づかされることがありました。自分のいつも通りの話し方は、お互い目が見えている、あるいは共通の認識をもっていることが前提で、そうでない人たちには、ほとんど通じないこと、さらには、私にとっての当たり前と思っている世界が全く違う世界として存在していることに気付かされました。

 研修の最後には明るい場所に出て、メンバーと先生の姿を見ました。それぞれ、想像どおりだったり、ちがったりして面白かったのですが、一番びっくりしたのは、暗闇の中でいろいろと助けてくれた先生が、視覚障がいのある人だったことです。

  日常生活では、自分が当たり前と思っている世界にどっぷりとつかってしまっているので、その当事者の感じておられる世界について配慮することを忘れてしまいます。そういった世界に気づかず行動することで、ある人に生活しづらい、生きづらいと感じさせていることもあるように思えます。ときどき思い出すようにしていますが、機会があれば、もう一度、真っ暗闇の体験をしてみたいと思っています。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

知らないうちに

 わたしたちは、誰かと話をするときや接するときに、「これまでの経験」「無意識の思い込み」「無意識の偏見」などによってあらゆるものを自分なりに解釈してしまうことがあります。

 例えば、「上下関係」を無意識に意識してしまうことや、うわさを聞いて「あの人はこういう人だ」と決めつけることなどがあります。

 また、何をするにしても相手と自分の違いを意識してしまうことはありませんか。「相手との違い」を意識してしまうことは誰にでもあり、それそのものに善し悪しはないのですが、「相手が私と違ってこうだから、同じようにできなくて当たり前」、もしくは「自分と同じだから、できて当たり前」だと無意識のうちに決めつけることによって、相手を傷つけたり、苦しめたりしていることがあります。

 このような、無意識の偏ったものの見方を「アンコンシャスバイアス」といいます。問題なのは、アンコンシャスバイアスそのものではなく「自分のアンコンシャスバイアスに気付こうとしないこと」にあります。

 これは、脳がストレスを回避するために、自分にとって都合のよい解釈をしてしまう「自己防衛心」から生まれると考えられています。

 自分の立場を守りたい、傷つきたくないという気持ちは誰でも同じです。大切な事は、自身の偏見に気づき、相手の立場を考えて行動することではないでしょうか。

 まずは日々の生活を振り返って、自分の言動に思い当たる物がないかチェックしてみるのも良いのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

新庁舎に感じる人権

 つい先日、建設中の市役所新庁舎の一部を見学する機会がありました。

 ほんの少しの時間でしたが、まさに「百聞は一見に如かず」を体感してきました。

 近年、「バリアフリー」「乳幼児から高齢者まで」といった言葉をよく耳にしますが、これらも含めて、新庁舎があらゆる人に配慮された造りであると、感心することばかりでした。

 歩道から建物までは近すぎず遠すぎず、便利かつ圧迫感の無い距離でした。建物へは大きな段差も無く、何ら構えることなくスーッと入れました。外からの自然光とLED照明は眩しくもなく暗くもなく、外部との差異をほとんど感じない環境でした。利用しやすいところにエレベータや受付が配置されていました。各階のトイレは広く、様々な人が気兼ねなく利用できる空間でした。

 さらに、階段の昇降にも高低2段の手すりが据え付けられ、窓口カウンターは車いすがひざまで入る作りになっています。議事堂や会議室にはヒアリングループが設置され、多言語対応、聞こえを支援する機器の導入など、来庁される誰もが利用しやすいよう、様々なところで人権に配慮された工夫がされていて、利用する人のイメージが目に浮かぶようでした。

また、案内表示においても、担当課名の表示だけでなく、自動販売機の所在を示す表示など、ちょっとした潤いの創造や、プラスアルファの気遣いも見受けられました。

一期庁舎の供用が来年2月から始まります。市民のみなさんも新しい市役所を体感してみてください。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


インクルーシブ公園ってなに?

 皆さまは「インクルーシブ公園」という言葉はご存知でしょうか。インクルーシブ公園の「インクルーシブ」とは「ソーシャル・インクルーシブ(社会的包摂)」という言葉から派生した言葉で、あらゆる人が孤立したり、排除されたりしないよう、みんなで擁護し、社会の構成員として包みこみ、支え合うことを意味しています。つまり、インクルーシブ公園とは、障がいの有無や年齢にかかわらず誰もが一緒に遊べる公園とされています。

 今の公園は居合わせた者同士が一緒に遊べない施設になっています。例えば、公園に行くと見かけることが多い砂場。一般的に砂場は地面に埋め込むようなかたちで設置されています。車いすに乗っている子どもが遊ぶ場合、腰を曲げて腕を目いっぱいに伸ばさないといけないため、他の人と一緒に遊ぶことができません。他の施設や遊具であっても、少し違った視点になると、障がいを持つ子どもたちにとっては利用しづらいポイントが見えてきます。

 そのような公園の現状があり、導入されたのがインクルーシブ公園の考え方です。欧米では20年以上前からこの考え方が広まっていきましたが、日本に初めて導入されたのは2020年と最近で、発展途上の段階です。現在、長岡京市でもインクルーシブ公園を計画しています。

 ユニバーサルデザインという言葉が世間一般に広まり、多機能トイレやスロープを設置する施設が多くなりましたが、まちなかには公園をはじめ、まだまだバリアフリー化できていない場所が多くあるように思います。そういった場所に工夫を加え、誰もが過ごしやすいまちにしていきたいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


左利きの不便さを思いやる

 現在、日本の人口のおよそ1割が左利きだと言われています。私のある知り合いも左利きで、文字を書く等、日常生活の多くの場面で主に左手を使います。高校では野球部に所属していましたので、打席でバットを振ってから一塁までの距離が比較的近い等、左利きであることで有利になることもありましたが、日常生活では不便を感じる場面がとても多かったということです。

 例えば、電車に乗ろうと駅の改札を通るとき、切符の投入口は右側にあるので、利き手でない右手で小さい切符を細長い投入口に通すことにストレスを感じていたそうです。また、学校等でハサミを使うときも、右利き用のハサミを左手で使うと刃が噛み合いにくく、クラスメイトより作業が遅くなりがちになっていたということです。加えて、急須でお茶を淹れて飲むのが好きなのに、左手を外側に傾けなければ急須からお茶が出ないことにしばしば苛立っていたと話してくれました。

 最近では、改札で切符よりもICカードを使う機会が増えたことや、左利き用のハサミや急須を手に入れやすくなったこと等から、生活の中でストレスを感じることは多少減ったようですが、横書きで字を書くときに掌の小指側が汚れやすい等、不便さを感じる場面は今でも数多くあるということです。

 右利きの人は、左利きの人が様々な不便を感じながら生活していることについて、言われなければ意識しないことが多いですが、身近な左利きの人が感じている不便さを思いやって、少しでも助けになる行動ができるようになりたいと思います。また、右利きの人も左利きの人も使いやすいような、身の周りの設備や道具が増えていけばいいなと思います。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


被爆地を訪れて

 先日、8月6日に開催された広島平和記念式典に関するニュースを見ていて、3年前に当時小学4年生の娘を連れ、リニューアルされた広島平和記念資料館などを訪れた家族旅行を思い出しました。

 小学生の娘は、昭和20年8月6日に起きた原爆の被害を、どのように考え、どのように思うのかを期待していましたが、結果としては、その内容をあまり理解できなかったみたいです。

 その後、娘は小学校で、広島原爆投下に係る授業を受けたことにより、資料館で見た内容や、当日参加できた平和記念式典の意味、その当時の街の被害や、子どもを含む多くの被爆された人々の状況、日本が世界で唯一の原爆被害国であることなどを認識したようで、平和と人権について、広島で体験したものと照らし合わせ、学習となったことは本当に嬉しく思っております。

 平和が当然だと思って生活していますが、世界では様々な国で争いが絶えず、ウクライナでは連日多くの犠牲者が出ているという、痛ましい報道を耳にしています。

 私自身、家族旅行を楽しむだけでなく、広島での体験を通して「戦争は最大の人権侵害」だと改めて認識することができました。また、平和の尊さを娘へ伝えることにより、平和な世界への実現に少しでも役に立てたかなと信じています。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


住居から考える人権

 みなさんも衣食住という言葉を一度は聞いたことがあるかと思います。これは、衣服・食べ物・住居といった生活に必要な3大要素の頭文字を並べたものです。しかし、わが国において、衣服と食べ物については、安価で手に入ることが多いのですが、住居を準備するには、比較的高額な費用が必要となり、確保が一番困難なものとなっています。これに対する国の社会保障制度の代表的なものとして、生活保護法の住宅扶助と住居確保給付金があります。

 そのほかにも、国はさまざまな施策を打ち出していますが、その中でもセーフティネット住宅制度が注目されています。そのひとつとして、住居の確保が困難な方の入居を拒まない住宅の登録制度などがあります。まだまだ、登録数が少ないなどといった課題はありますが、この制度が広がれば住宅に困る人が減っていくのではと思います。

 また、長岡京市においても、独自で民間賃貸住宅家賃補助制度をつくり、定数はありますが、家賃の一部を補助することで住居の確保の一端を担っています。

 だれもが安心して、安全な住まいを確保できることで、私生活やプライバシーという人権も保障されます。また、人々の生活が安定することで心に潤いが生まれ、他人にも優しく接することができ、人と人との繋がりが広がっていく優しい社会になるのではないでしょうか。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


ちょっとした気配りを

 最近、職場の廊下で部署案内版を見られている市民さんをよく見かけます。

 特に高齢者の方が凝視されており、気になって、「どちらまで行かれますか?」と声を掛けることがあります。すると、「どこどこまで行きたい」とおっしゃる方や行き先が分からず、「何々の申請に来た」などと、内容を言われる方もおられます。内容によって、行っていただく部署がはっきり分からない時もあります。よく話しを聞いて可能な範囲でその部署まで案内するようにしています。また、窓口業務でお会いする高齢者でも元気でハキハキされている方、耳がとおくて大きな声で説明しないといけない方など、いろいろな場合があります。せっかく市役所までお越しくださっているので、皆さんに気持ちよく帰っていただきたいと思いながら対応するようにしています。

 皆さん、最後に「ありがとう」と声をかけてくださいます。本当に気持ちがいいものです。私自身も遊びや買い物などに行った際に迷うことがありますが、向こうから「どうされましたか」や「何かお探しですか」などと声をかけてくれると嬉しいものです。相手を思いやる気持ちが、ちょっとした声がけとなり、基本的な人と人とのつながりを育み、人権を大切にする住みよいまちづくりになるのではないでしょうか。

 日々の生活の中で周囲にも気を配り、身近なところ、できることから少しづつ、相手の立場に立って思いやりの気持ちをもって過ごすことが、多様性の社会では必要になってくると常々思っております。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


平和への願い

 戦争は最大の人権侵害だと言われます。今まさにその戦争が、ロシアの侵攻によってウクライナの地で行われています。

 2022年2月24日、ロシアは突如として国境を越えウクライナに対し軍事侵攻を開始しました。日に日に戦闘行為は激しさを増し、一般市民の犠牲も多数出ているとのニュースが連日のように報道されています。

 戦争を知らない現代の日本で暮らしている身では、その痛みと苦しみはいかほどのものかをはかり知ることはできません。
 逆に言えば、平和な日常というものが、それだけ尊いものであるということではないでしょうか。一日でも早くこの戦争が終結することを祈るばかりです。
 日本では、一羽一羽に、現地の人々への励ましやあたたかな気持ち、平和の願いを込めて千羽鶴を送ろうと考えている人もいます。しかし一方で、相手の状況や立場などを考慮していないのではと批判を受け、送ることを断念したというニュースもありました。そのような賛否の声がある中でも、平和を祈り、千羽鶴を折ること自体に意味はあるのではないかと思います。
 「1日でも早く戦争が終わりますように」という思いが、ウクライナや世界中の人々にも少なからず伝わり、心の支えの一部となっていくのではないでしょうか。7月19日には、「長岡京市平和の日」を迎えます。繰り返される戦争の悲劇に対し、あらためて平和の尊さを感じ、一時も早く争いのない世の中の実現に思いをはせる今日この頃です。


(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

困りを抱える人

 ある少年が自転車に乗って道路を走っていました。すると、警察官に呼び止められました。

 「君、自転車を運転しながらヘッドフォンをつけるのは危ないよ。」

 しかし、少年はこう答えます。

 「これはヘッドフォンではなくて周りの音を遮るイヤーマフです。」

 イヤーマフとは、騒音の出る工場や工事現場などで使用される大きな耳栓のようなもので、ヘッドフォンに似た形をしています。工場などで使われる他にも、聴覚が過敏な人が周囲の音を遮るためにつけていることがあり、少年はまさにそのために使用していたのです。

 警察官はイヤーマフとは知らずに注意をしたのですが、少年が自分に聴覚過敏があるために使用しているという事情を説明すると理解してくれたとのことです。

 少年の様に、困りに理解をしてもらえる場合もありますが、実際には理解されにくい困りを抱えている人が多くいるのではないでしょうか。

 そのような対策として、最近では困りを周囲の人に知らせ、助けや援助を受けることを目的に、マタニティマークやヘルプマークを身に着け、周囲に知らせることが定着しつつあります。また古くから、目の不自由な人は白杖を使い、自身の歩く方向に障がい物などがないか確認をしながら、周囲に自分の存在を知らせるようにしています。

 この様に社会に浸透した行動により、人々の困りは少しずつですが解消していきました。一方、未だ残る困りに対しては、知恵や工夫を凝らし、社会的に認知されるよう不断の努力が必要です。

 私たちは、日常生活のあらゆる場面で、人々の困りの場面に遭遇します。そんな時には困りを抱える人に手を差し伸べ、人に寄り添った行動がとれるようになりたいものです。そういった経験の積み重ねが、一人ひとりを尊重する、人にやさしいまちへとつながっていくように思います。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

ロシアによるウクライナ侵攻

 2022年2月24日、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を行いました。このことは、国際社会ひいては我が国の平和と秩序、安全を脅かし、明らかに国連憲章に違反する行為であり、断じて容認できるものではありません。

 早期の停戦を世界各国が望んでいるものの、無慈悲な爆撃などにより、多くの子どもたちが犠牲になり、痛ましい現状が連日のように報道されています。そして、家族や住む家を失い、国外に避難する人たち、その多くは罪のない女性や子ども、高齢者です。

 今、起こっている戦争は、どちらも正当な理由があると主張していますが、「正しい戦争」などありません。戦争は、最大の人権侵害です。

 私たちはこの2年間、コロナ禍で様々な経験をしてきました。今では「新しい生活様式」も徐々に定着しているところです。しかし、私たちが「当たり前」としている生活を営むことができるのは、「平和」であるからこそ…なのです。

 長岡京市では、生きとし生けるものが調和し、共生しあい、地球環境が守られ、人権が尊重されてこそ、真の恒久平和を築くことができるという理念のもと、「いのち輝く長岡京市平和都市宣言」を行っています。

 この戦争が一日も早く終息することを願うとともに、私たち一人ひとりが、日々の暮らしの中で、互いを尊重し合い、認め合う関係性の大切さを、改めて見つめ直したいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

みんな違ってそれでいい

 違いを認め合うこと、わかっていても難しいことです。「いろんな色があっていい」と思いつつも、みんなと同じなら安心します。普通ってなんだろう?ひと並みって?その基準はどこにあるのでしょうか?

 「みんな違ってそれでいい」担任の先生がノートに書いて下さった言葉を読んで、ほっとし、安心しました。親は我が子に対し、なんとか「普通」に追いついてほしいと願います。それはなぜか?特別な目で見られるのが嫌だからです。「お子さん、大きくなられたでしょうね。今どうされているの?」言葉に詰まってしまうこともありました。自分の心の中に障がいのある我が子のことをどう説明したらいいのか戸惑う気持ちがあったのかもしれません。

 認め合うこと、口で言うのは簡単ですが、見方や考え方を変えていくことはなかなか難しいことです。

 先日閉幕した北京オリンピックでは、選手の活躍にたくさんの感動をいただきました。なかには、「独創性」や「個性」を高く評価する競技もあり、さまざまな困難を抱えながら自分と向き合い挑戦する姿や想いに胸が熱くなりました。まもなく開幕するパラリンピックでも、競技のおもしろさを、そしてそこに込められた選手の想いを感じながら、応援しようと思います。

 芸術でも、障がいのある人の中には素晴らしい作品を創る人がいます。私は「障がい」の有無ではなく、作品そのものの純粋なすばらしさを見たいし、作者が作品に込めた想いを感じたい。

 入口は違っても、気が付いた時に少しずつ、見方を、考え方を変えていくことができたら、いろんな色を、違いを、それぞれの個性として認めていくことにつながっていくのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


「声かけ」からの一歩踏み出し

 街中で困っている人を見かけた時に、声をかけたことはありますか。

 今は、コンビニやネット通販など、言葉を交わさず欲しいものが手に入りますし、SNSなどの顔を合わせないコミュニケーションツールが普及しています。暮らしが便利になる一方、人と人とが直接助け合う場面は少なくなったようにも思います。困っている人を見かけても、どう対応すればいいかわからず素通りすることがあるかもしれません。

 声をかけるきっかけとして「ヘルプマーク」があります。内部障がいや難病など、外見からは分からなくても援助や配慮を必要としている人を周囲に知らせるためのマークです。

 赤地に白色で十字とハートが描かれたヘルプマークを身に着けた人を見かけたら、電車・バス内で席を譲る、困っているようであれば声をかけるなど、思いやりのある行動をお願いします。

 また、外見から分からない障がいの一つに「発達障がい」があります。発達障がいは生まれつきの脳の働き方の違いによるもので、コミュニケーションや対人関係をつくるのが苦手です。そのため、行動や態度から誤解されることも少なくありません。

 障がいの状況は人それぞれですが、本人や周囲の人が特性に応じた過ごし方や対応を工夫することで、持っている力を活かしやすくなったり、日常生活の困難を軽減させたりすることができます。

 私たちの社会は、これまで出会わなかった人々が知り合い、認め合うことで、それぞれの良さを活かし、苦手を補い合って創られていくものです。みんなが生きやすい素敵な社会になるよう声をかけあい、お互いを理解し合う機会を大切にしていきたいですね。


ヘルプマーク

ヘルプマーク

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

子どもの人権と、情報の取扱い

 2021年の10月で、滋賀県の当時中学2年生の男子生徒がいじめを苦に自殺した事件から10年が経ちました。被害生徒の保護者等でつくる団体が記者会見をし、男子生徒の自殺を踏まえて平成25年に成立した『いじめ防止対策推進法』について、「保護者等からの求めがあればいじめの記録を必ず提出するなどの法改正を求める」との主張がありました。男子生徒の保護者は、「10年経とうが20年経とうが子に先立たれて悲しむ気持ちに変わりはない」と述べられました。

 事件では、教育委員会は当初、「生徒の死亡前、いじめには気が付かなかった」としながら、全校生徒へのアンケート調査の「(男子生徒が)自殺の練習をさせられていた」との回答を伏せていたとされています。

 一方、子どもの情報の取扱いに関して思い起こされるのは、平成31年に千葉県で父の虐待により小学4年生の女子児童が死亡した事件です。この事件では、事件の約1年前に、児童が学校でのいじめアンケートに「父から暴力を受けています」と書いたコピーを、教育委員会が父に渡していたことが明らかになっています。

 いち行政職員として、また、ひとりの親としては、事件が起こるのを防ぐために全力を尽くすこと、起こったことを真摯に受け止め、再発防止に取り組むことは絶対に必要だと思います。

 滋賀県や千葉県のような極端なケースでは、明らかに情報の取扱いに誤りがあったのではないかと疑問を持ちます。しかし、実務上の微妙なケースでは、親・子・同級生やその親・教師など、多くの人が関わり、それぞれ背景や特性を抱え、感じ方も様々です。誰の主張のどの部分が本当なのか、容易に判断のつかないこともあると思います。そのような中でも、子どもの安全や発達のために、様々な人と情報を共有し、協力する必要も出るでしょう。誰と、どんな情報を共有するか、情報の取扱いには、本当に難しい判断が求められます。 全てのケースに万能な答えはありません。

 大切なのは、子どもの安全や人権を第一に考えることだと思います。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


ある映画から考えさせられること

 先日「ディア・エヴァン・ハンセン」という映画を観ました。元はブロードウェイで人気を博し、映画化された作品です。主人公の歌声がとても美しく、テレビCMに惹かれて…というのがきっかけでした。

 あらすじは、これからご覧になる方々に申し訳ないので簡単に。1人の高校生・エヴァンがついた嘘がSNSを通して拡散され、とんでもない事態になる、という現代ならではの展開です。けれどエヴァンの最初の嘘は、息子コナーを亡くしたある一人の母親を慮(おもんぱか)ってのものでした。つまり、自分は自殺したコナーの友人だった、と。

 エヴァンは、息子にも友人がいたのだと信じたいコナーの母親を「見ていられない」と、求められるままに嘘の思い出を語り始めます。この優しい嘘によって、コナーの家族は自らの後悔や悲しみを癒していくと同時に、エヴァン自身も人と繋がる一歩を踏み出すのです。

 日本には「嘘も方便」という言葉がありますが、様々な価値観を基礎とする社会では、それぞれの評価もあるでしょう。SNSによって世界中に拡散され、クラウドファンディングまで成功したとなれば、「優しさ」だけでは説明できない事態です。

 この映画の魅力には、素敵な歌とダンスはもちろん、それぞれに痛みを抱えた登場人物が少しずつ人と繋がりながら、ありのままの自分を受け入れていく姿に対し、ほっと肩の力が抜けるような温かさがあるのだと思います。

 現代においても、SNSで人を一喜一憂させることは珍しくありません。人との繋がりが広がることもあれば、何気なく投稿した自分のつぶやきが事を大きくしてしまう事もあります。今一度自分の投稿を見つめ直してみませんか。

 “You Will Be Found” 新たな年が、すべての人に希望をもたらしますように。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


小さな一歩

 保育所では、0歳~6歳の子どもたちが、保育士や友だちと関わり、毎日、遊びのなかから、様々な事を吸収し、大きく元気に成長していっています。

 先日、1歳児の子どもが泣いている0歳児の子どもの顔を“大丈夫?”と言わんばかりの表情でのぞき込み、頭をヨシヨシとなでていました。別の日には、保育士が探し物をしていると3歳児が「何してるの?」と一緒になって一生懸命探してくれました。

 差別をしてはいけない。頭では分かっていても、心がつい偏見や固定概念の目で相手を見てしまうことがあります。そんな時、何の偏見もなく、とても純粋に相手と関わっている子どもたちの姿を見ると、恥ずかしくなってしまうことがあります。

 悲しんでいる人がいたら、“大丈夫かな?”と思っているだけではなく、相手の顔を見て「大丈夫?」と声をかける。困っている人がいたら、手を差し伸べる。そんな基本的な事が大人になるにつれ“どう思われるかな?”と、他人の目ばかり気にしたり“きっと自分がしなくても何とかなる”と、自分の都合の良いように解釈してたりして、結局何もせず、その場を見ないふりして終わらせている事があるように思います。

 何か大きなことをしないといけないのではなく、まずは自分の身近な人に「ありがとう」「大丈夫?」と、声をかけてみる。困っていたら一緒に解決方法を探してみる。本当に小さな一歩かもしれませんが、それが広がっていけば、きっと、誰にでもやさしい社会になるのではないかと思います。

 子どもたちの姿を見習いながら、その小さな一歩を、一緒に踏み出していきませんか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

生きる支援

 新型コロナウイルス感染症パンデミックの影響は、仕事や住まい、働く場や教育など、生活のほとんど全ての領域に及んでいます。とりわけ深刻なのは、社会的に弱い立場に置かれている人々です。アルバイト先を失った学生の中には、学業を継続するのが難しくなった人もいます。憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を生存権として位置付け、それを具体化したものとして生活保護があります。

 生活保護という制度をよく理解していないと、受給者に否定的なイメージを持ったり、「生活保護は経済的な自立が原則だ」等、誤解したりすることがあるかもしれません。けれども実際には生活保護は、経済的な支援だけではなく、社会とのつながりや健康管理面など社会的に自立するための支援も行います。

 ある日突然病気になったり、何らかの理由で収入が安定しなくなったりして不安を抱える、それは誰もが遭遇するかもしれない死と隣り合わせの状態です。このような社会的に弱い立場に置かれた人でも “生きること”への階段をのぼることができる権利があります。生活保護の申請は、だれもが利用できる国民の権利です。つまり、生きることそのものを保障(支援)することが生活保護です。

 実際に病気や経済的な理由で困っていても、生活保護によって自らが“生きる”と言う意識をもつことができ、社会の中で自立した生活を送れるようになった人たちがいます。どうかひとりで悩みを抱え込まずに、まずはご家族やご友人、職場の同僚など、身近な人に相談してください。もし、ご家族、ご友人、同僚など、身近な人の様子がいつもと違うと感じた場合には、じっくりと耳を傾け、相談窓口や支援先につなげてください。

 憲法第13条では「すべて国民は個人として尊重される」ことを保障し幸福追求権を権利として掲げています。「あなたも私も、幸福を追求する権利がある。」ということです。新型コロナ感染防止対策が長期化して、人と人との交流が減っている中であっても、社会的に弱い立場の人や自分とは違う価値観で生きている人が否定されず、悩んでいる人が孤立をしないよう温かく寄り添い見守るという一人一人の意識と行動が重要です。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


今だからこそ

 新型コロナウイルス感染防止のための新しい生活様式を取り入れてからすでに一年半が過ぎようとしています。

 手指消毒やマスクの着用、ソーシャルディスタンス、体調を整えるためにバランスの取れた食事に気を配ること、感染防止に気を付けながら運動を続けること、休息をとりながらも規則正しい生活をすること、体温測定などの健康チェック、その他諸々。私たちの日常生活は、すっかり新型コロナウイルス感染防止の習慣を受け入れました。

 でも、遠方にいる家族や親族、友人に会えない状況に、慣れることはありません。むしろ、相手のことで気にかかることがあればなおさら会いたい気持ちは募ります。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のために多くの人が外出を控えています。会いたい相手のことを思って今は会わない。その代わりに今まで縁のなかったオンラインでの会話や、LINEなどのソーシャルネットワークを用いて新しいつながりに挑戦したり、葉書や手紙を送るためにペンを執ったという話もよく聞くようになりました。メールのやり取りだった相手と久しぶりに電話のおしゃべりを楽しんだという人もいます。

 「会えない今だからこそあなたのことを想っています。」と親しい相手を気遣う人が多くいると思います。

 一方で、「自分はワクチン接種が済んでいるから大丈夫。」「マスクやソーシャルディスタンスのコロナ感染対策をしているから大丈夫。」と言って自分のことを優先してしまう人も見かけます。

 「自分は大丈夫。」という行動が誰かを新型コロナウイルスに感染させてしまうかもしれません。自分が感染する可能性もないとは、言いきれません。

 急激な感染拡大をしているコロナ禍の今だからこそ、周りの人のことを思い、考えてみませんか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


身近な税制から見る性的少数者の人権

 長岡京市では、令和3年6月1日から、パートナーシップ宣誓制度が開始されました。この制度は、性的少数者のカップルをパートナーとして認めるものです。

 パートナーシップ制度を採用する自治体は少しずつ増加していますが、憲法において「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」と規定されているため、同性婚は今の日本では認められていません。同性のカップルに対する法的保護は非常に弱い状況にあり、性的少数者への理解と共感が広がるよう各地方自治体が個別に制度を制定している状態です。

 日本の税法の中には、「配偶者控除」というものがあります。控除の対象となる配偶者の要件は、いろいろありますが納税者と生計を一にしていても事実婚の人や同姓のパートナーに対しては該当しません。配偶者控除は、配偶者を扶養していることにより、税を負担する能力が低下することを考慮するという性格があるにもかかわらず、他の要件を満たしていても配偶者控除の対象にはなりません。

 国際的には同性婚が認められる国は増え続けており、先進国ではそれらの人に対する法的保護策の制定を進めています。

 憲法や民法の制定時には、同性婚が想定されていませんでしたが、今、すべての人々の人権を実現するため、「想定していない」から「議論する」姿勢が求められています。

 誰もが自分らしく生きられる社会の実現にむけて制度や習慣を変えることは、大切なことではないでしょうか。

 市におけるパートナーシップ宣誓制度の開始をきっかけに、身近な制度に潜む性的少数者が直面する問題について考えてみるのもよいかもしれません。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


「忘れかけていたもの」

 今年の5月の初め、米プロバスケットボールNBAのウィザーズで活躍する八村塁選手の弟・八村阿蓮さんが、自身のTwitterで、「自身と兄に対する人種差別的な内容のダイレクトメッセージが送られてきたことを明らかにした」というニュースを目にしました。

 阿蓮さんがTwitterで明らかにしたメッセージには、八村兄弟を人種差別的な言葉で中傷する内容が書かれています。

 阿蓮さんは、今回のTwitterでの公開について、「日本には人種差別が無いと言ってる人がいるけれど、こうやって人種差別発言をする人がいます。晒してどうにかなる問題では無いと思いますが、皆さんに今一度人種差別の問題について関心を持っていただきたいと思いました」と説明しています。

 黒人への差別や暴力に対する抗議運動が頻繁に起こるなど、人種差別はアメリカやヨーロッパでは大きな社会問題となっています。日本においても差別や偏見、いじめといった問題は、私たちのごく身近に存在し、今回の八村兄弟に対するような人種差別もあります。

 誰もが「差別はいけないこと」「いじめはいけないこと」「他人への誹謗中傷はいけないこと」と解っています。しかしこれらの問題はなくなりません。

 こういった問題を目にしたとき、多くの人は“他人事”と済ましてしまうのではないでしょうか。阿蓮さんの「皆さんに、今一度関心を持っていただきたい」との訴えが、忘れかけていた何かを思い出させてくれました。

 誰もが暮らしやすい社会を創るためには、私たち一人ひとりがお互いの多種多様を認め合い、尊重することが大切ではないでしょうか。

 これをきっかけに、人種差別に限らず性別や部落、障がいを持つ人に対する差別などいろいろな人権問題について考えてみませんか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

 

認め合おう、ありのままの生き方

 現在の日本では、戸籍上の性別が同性どうしのカップルは、結婚ができません。すべての人が平等であるはずなのに、結婚ができないこと、結婚と同等のパートナー関係が認められていないことでLGBTQなどの性的少数者のカップルには、たくさんの困りごとがあります。

 例えば、病院での手術の立会いや面会ができない、住宅の賃貸契約ができない、遺産を相続することができないなど、不平等や不利益を強いられています。

 そこで、性的少数者のカップルをパートナーとして、婚姻関係と同じように認め、独自の証明書等を発行することで、少しでも一定の効力ができ性的少数者のカップルの権利が守られるようにと「パートナーシップ制度」を導入する地方自治体が増えて来ています。 

 長岡京市においても、6月1日からこの制度を導入し、性的少数者のカップルを応援することになりました。

 この制度は、民法など国の法律で決められているところには介入できません。つまり結婚によって発生する権利や義務にまでは、影響を与えることができないのです。ただ、こういったパートナーシップに関する制度が他の地域でもどんどん広がることで、社会全体の雰囲気が「なんで同性婚が認められていないの?それって問題だよね」というように大きく変わっていけば、今後、日本でも性別を問わずに婚姻できる法律ができるかもしれません。

 この制度をきっかけに、性的少数者のカップル(当事者)の権利が守られ、また市民の皆さんには、当事者の困難に少しでも考えを巡らせてもらえれば、すべての人が個性を生かし、自由にありのままに生きていける社会を創る第一歩になるのではないでしょうか。

 誰もが持っている一人の人間としての尊厳をお互いに大切にすることから始めてみませんか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


あの出来事を伝える

 東日本大震災から10年が経ちました。この時期になるとよく当時の映像がテレビで流れます。

 私には3歳と5歳の息子がいますが、映像を見て大きな衝撃を受けています。その時ふと、震災があった時には生まれていなかった息子達に、どのようにあの出来事を伝えていけるだろうかと考えました。

 私は、直接被災したわけではありませんので、震災に直接遭った方々の気持ちも経験も伝えることは出来ません。しかし何も伝えることが出来ないかというと、そうではないと思います。

 震災が起きた当時、被災地にいる親せきや友人は、無事なのかと心配で、何とか連絡がとれないか方法を模索しました。しかし当時は連絡をうまくとる手段もなく、無事を祈るばかりでした。そんな中、日々増えていく死者や行方不明者の情報をテレビで見るたび、不安と憂鬱な気持ちになりました。

 おそらく当時は、多くの人が同じように大切な人、そして震災に遭った多くの人の無事を祈っていたと思います。そして被災地を助けようという思いから、あらゆるところでボランティアの派遣や募金活動が行われ、多くの人が参加しました。しかもその活動は、日本国内だけでなく海外からも支援の手が差し伸べられました。様々な垣根を越え、他の人を思いやる気持ちや取り組みをあらゆる所で見ることが出来ました。

 しかし一方で、被災した人たちに心無い言葉を投げかける人もいました。被災地からの転入者へのいじめ等、傷ついた人をさらに傷つける非常に悪質な行為があったと記憶しています。

 そうした出来事をリアルタイムで感じ取っていた私たちは、その時の出来事を経験として、また教訓として震災の時には生まれていない人々に伝えていけるのではないかと思います。

 震災後、少ししてから私は、宮城県を訪れました。その時に見た景色と聞いた話を思い浮かべながら、自分自身も忘れないためにも息子たちに、人を思いやる気持ちの大切さ、そして悪質な行為を許してはならないという思いを伝えていきたいと思います。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


「家族のカタチ」

 みなさんは、婚姻ができる年齢が変わることをご存知でしょうか?

 現在は、男性は18歳、女性は16歳になると婚姻が認められていることはご承知の方も多いと思います。それが、2022年4月に民法が改正され、成年年齢が18歳に引き下げられることに伴い、女性の婚姻年齢が18歳に引き上げられます。あわせて、現在、20歳未満の方が婚姻する場合は、未成年者のため親の同意が必要ですが、改正される民法では、18歳が成人年齢になるため、親からの同意が不要になります。

 このように、社会のルールも、時代や社会の変化に伴い変わってきています。その変化のひとつに「家族」のあり方があるのではないでしょうか。

 最近まで、私たちは、夫婦や親子、兄弟姉妹などの血縁関係のある人たちを「家族」と言い表すことが多かったと思います。しかし、最近では、その「家族」のカタチにも変化が見られます。

 いわゆる婚姻届出によって夫婦になるカップルだけでなく、婚姻届を出さない事実婚の夫婦や、同性同士のパートナーなど、「家族」や「夫婦」のカタチも多様化してきています。

 婚姻相手を選ぶ時も、家柄・学歴・国籍等にとらわれることなく、また、日本ではまだ認められていませんが、同性カップルがパートナーになるなどの法的な婚姻だけにとらわれることなく、個人が個人を選択し、「家族」として一緒に暮らすことも多くなってきています。逆に、「家族」として一緒に住んでいても、プライバシーを大事にするあまり、一人ひとりが自由に行動しすぎて、距離感ができ、お互いが無干渉、無関心になってしまっていることも多いとも聞きます。

 一言で「家族」といっても、そのカタチは様々になってきています。「家族」や「夫婦」の意味や価値観もそれぞれ違うと思います。

 しかし、大切なのは、血縁関係の有無や、婚姻スタイル、生活スタイルだけではなく、「家族」「夫婦」として、お互いへの気づかいや愛情はもちろん、相手を認め、理解し、思いやる気持ちが大切ではないでしょうか。

 

 春は、出会いと別れの季節で、大きく人間関係が変わる時です。

 どうか、みなさんも一番身近なパートナーであるはずの「家族」のことを少し考えてみる時間をもってみませんか。そうすることで、「家族」はもちろん、「家族」以外の人の気持ちにも寄り添い、自分の生き方、考え方にも、新しい「発見」や「気づき」があるのはないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


パートナーとの家事分担

 今年の節分は124年ぶりに「2月2日」ということが話題になっていました。節分を過ぎれば「立春」、暦の上では春となります。例年ならば、もうすぐ「お弁当」を持ってお花見をするのが待ち遠しい時期ですが、今は、ウイルス禍により、心から楽しめる日がいつ戻るのかはわかりません。少しでも早く、いつもの「春」が戻って来ることを心より願います。 

 さて、その「お弁当」ですが、昔から「愛妻弁当」という言葉があるように妻が夫に、女性が男性に作るイメージがありました。しかし、最近では、私の職場でも、自分でお弁当を作って持ってくる男性職員が多くなってきました。また、ブログを見ていると、「お弁当男子」という言葉もあるように、お弁当を作る男性やお料理をする男性も増えてきています。

 ある調べでは、「全く家事を手伝わない」と答えた男性は、約5%とかなり低く、男性が家事に関わる割合は増えてきているようです。しかし、一方では、家事分担割合は女性9:男性1や女性8:男性2という回答が最も多かったそうです。

 たしかに、以前に比べ「男性は仕事」「女性は家事・育児」という固定観念は小さくなってきていると思います。しかし、まだ「家事の中心は女性で、男性はお手伝い」というイメージが残り、女性からも「パートナーが家事を手伝ってくれない」という声をよく聞きます。 

 最近では、夫婦共働きも年々増加してきており、働き方改革とともにワークライフバランスが注目されており、性別に関係なく、家事育児を行う夫婦やカップルも増えてきています。夫婦やカップルそれぞれがプライベートも仕事も充実した生活を送るためにも、家事や育児を負担だと思わないよう、お互いが協力していくことがとても大切ではないでしょうか。

 「仕事を頑張る」ことは素晴らしいことです。しかし、「仕事も家事・育児も頑張っている」のはもっと素晴らしいことだと思います。これからも、性別に関係なく「家事・育児を手伝っている」ではなく、「家事・育児をしている」と自信をもって言えるようになりたいですね。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


思いやりと想像力

 昨年からの新型コロナウィルスの影響により、家庭で過ごす時間が増えてきたとよくいわれます。私の家庭も同様です。しかし、家族と触れ合う時間が増える一方で、生活様式の変化や外出自粛など様々な制限によるストレスもあり、これまで気に留めなかったところが目に付くようになってきました。

 その中で、家族と言い合いや、ぶつかることも多くなり、その原因の一つに、「こうあるべき」という意識があることに気づきました。例えば、自分のことより、子どものことを何よりも優先する「べき」、残業がない方が育児や家事を多く負担する「べき」、夫は、「こうするべき」、妻は、「こうあるべき」など、細かいことを言い出すとキリがありません。自分の「こうあるべき」と「現実」との間にギャップを感じると相手に対し憤り、相手の意思を尊重しにくくなってしまいます。

 でも、この「こうあるべき」は自分よがりのものでなく、本当に正しいものなのでしょうか。

 育児や子どもへの接し方についても、人それぞれの考え方があり正解はありません。子どものお迎えや晩御飯の準備だけではなく、やるべきことは、他にもたくさんあります。そういった想像力が欠けていると思いやりの気持ちが持てず、相手に「こうあるべき」を押しつけてしまいかねません。

 家族や大切な人にもそれぞれ考え方があります。あまりに近い存在のため、ついつい自分のしたいように甘えてしまうこともあります。でも、家庭を離れた職場などでは、社会性を求められ、自分のしたいことばかりをする人はなかなかいないと思います。

 まずは、一番身近な家族から、「こうあるべき」という先入観を一度捨て、相手の立場に立って思いやる気持ちを持ちたいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


新生活スタイル

  「新型コロナウイルス感染症」という言葉を聞いてから約1年になりますが非常にきびしい状況が続いています。

 当初は、これほどまで、「新型コロナウイルス感染症」の影響をうけ、私たちの「生活スタイル」が、大きく変わるとは思わなかった方も多いのではないでしょうか。

 この「新型コロナウイルス感染症」という未知の病気が世界にパンデミックをもたらしたことで、残念ながら、憶測によるデマや誤った情報から感染者やその家族、医療従事者やその家族等にまでも偏見や誹謗中傷などの「コロナ差別」と呼ばれる、人権侵害が多く発生しています。

 そのためか、はじめの頃は、「自分は、コロナウイルス感染症かもしれないので早くPCR検査をして欲しい。」「PCR検査をして欲しいと言っているのに、なかなか検査してもらえない。」と言う人がほとんどでしたが、最近では、人権侵害に遭うのを恐れ、「コロナに感染しているかもしれないけれど検査や医療機関への受診はしません。」と言う人もいると聞きます。「いつ自分自身が感染するかわからない。」「いつ差別や偏見、いじめに遭うかもしれない。」という不安や恐怖から、不確かな情報を信じ込み、正しく冷静な行動がとれないことが、感染者の増加にもつながっているのではないでしょうか。

 私たちの生活は、感染対策のための「ソーシャルデイスタンス」が主流となっています。また、マスクを着用したり、咳エチケットに気を付けたり、定期的な検温などの「新生活スタイル」が浸透してきています。いつまで続くかわからないコロナ禍です。「WITHコロナ」のなかで、人権侵害が起きないように、あらためて「新型コロナウイルス感染症」に関する正しい知識や意識を持ち、「人権」に配慮する感覚を身に付けることも「新生活スタイル」のひとつにできたらいいですね。

 「注意しよう人と人の距離 近づけよう心と心の距離」

 それが、私たちが、コロナ禍を乗り越える第1歩になるのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部) 


犯罪被害者とその家族の人権

 テレビ、新聞、インターネットなどでは、毎日、様々なニュースが報道されています。中でも犯罪や事故に関するニュースを見たり、聞いたりしない日はありません。犯罪には、事件を起こした加害者と事件に巻き込まれた被害者がいます。

 犯罪被害者やそのご家族・ご遺族は、身体を傷つけられ、生命を奪われるなどの身体的な被害のほかに、働き手を失い、収入が途絶え、生活ができなくなることもあります。捜査や裁判の過程における精神的なしんどさや時間的な負担もあります。さらには、メディアの過剰な取材、周囲の人々の心無いうわさや中傷、偏見によって精神的に傷つけられるなどの二次的な被害や人権侵害に遭うこともあります。

 反対に、周囲の人々の理解や支えは、当事者にとって、大きな助けとなります。事件や事故が、テレビや新聞、ネットなどの向こうにあるものではなく、被害に遭われた当事者がいるということを思い、「身近なこと」「自分のこと」として考え、感じることが大切ではないでしょうか。

 しかし、気をつけなければならないこともあります。それは、「頑張って」や「早く忘れなさい」など、私たちにとっては、慰めや励ましのつもりの言葉や行為でも、逆に当事者を傷つけてしまうということです。

 犯罪や交通事故などによる被害は、「突然に」「誰にでも」起きる可能性があります。決して他人ごとではありません。

 少しでも、当事者感覚を大切に、相手の気持ちに寄り添い、相手を理解した上で考え行動していきたいものです。そして、被害者やその家族が、少しでも再び平穏な生活を営むことができるよう、「当事者が必要とする支援とは何か」、「私たちにできる支援とは何か」、地域をはじめ社会全体で考えていくことが大切ではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)

 

マタニティマークから考える

 皆さんはマタニティマークをご存じでしょうか。 

 マタニティマークは、妊娠初期の妊婦が、見た目では判断がつきにくいことから、身に着けることで周囲に妊婦であることを示し、妊婦の安全と健康を守るためのマークです。

 恥ずかしながら私はこのマークの存在を数年前に知りました。(広く普及している厚生労働省のマタニティマークは2006年に制定されたそうです。) 

 このマークの存在を知ってから、公共交通機関などでこのマークを身に着けている方を見かけたら、席を譲ったり、何か困っていることはないだろうかと気を配るようになりました。実際にサポートなどの行動を起こすということに限らず、周囲の人が妊婦であるということを認識するだけでも、妊婦さんの安心につながるのではないでしょうか。 

 一方で、このマークを身に着けることをためらう方もおられるようです。理由は「周囲に気を使わせてしまうのが申し訳ない」「妊娠をアピールしているように思われることが気になる」といったものです。マークを付けていることによって嫌がらせを受けたという方もおられます。 

 公共の空間はお互いの気配り、心遣いで成り立つものです。妊婦の方に限らず、見た目ではわからない障がいのある人などもおられます。私たちが気付かない不安や不便さを感じているかもしれません。そういった方が委縮して意思表示をできないような社会は、住みよく寛容な社会とは言えないと思います。

 相手のことを理解し、思いやるには、想像力が必要です。

 私たち一人ひとりが、想像力を働かせ、お互いの立場を理解し、尊重しあう、その積み重ねが、住みよく寛容な社会につながっていくのではないでしょうか。

 

マタニティーマーク

マタニティマーク

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


誰もが他者

 私は学生時代、「文化交流論」という分野の勉強をしていました。

 「文化」の単位は国や民族レベルにとどまらず、突き詰めれば私たち一人ひとりが、異文化を持つ個人として独立の単位と考えることができます。4年間で勉強した、いわゆる文化ごとの特徴や風習などはすっかり忘れてしまいましたが、その根底にあった「自分以外のすべてが他者である」という考え方だけは、いまだに人間関係やメンタルコントロールの面において、自分を助けてくれているような気がします。 

  国籍、信条、性別から、応援するスポーツの球団や好きな食べ物の種類に至るまで、人は集団として無限に区切ることができ、すべてが一致する人は一人もいません。共通点の多寡はあれど、自分以外はどこまでいっても誰もが他者でしかないと考えれば、「こちら側」と「あちら側」という発想はなくなります。

  ただ、頭ではそう解っていても、私たちはときどき悪気もなく、自分と異なるものを間違っているかのように否定してしまうことがあります。自分と同じものや、多数派に属するものにしか価値を見出せないような人やものの見方は、人を傷つけるだけでなく、自分の成長を妨げる要因となってしまいます。

 社会で生きていく以上、「変わっている」と感じる人や、考え方に出会うことがあるでしょう。他者と接しているのですから、日常の様々なシーンで違いを感じるのは自然なことです。その時には、正解と不正解という判定から離れ、まずは素直に理解に努めてみてはいかがでしょうか。そういう心構えが人に包容力をもたらし、住みよい社会をつくるのではないかと思います。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


挨拶から始まる一日

 「おはようございます。」「こんにちは。」「おつかれさまです。」「失礼します。」

 このように、みなさんは、いろいろな場面で、挨拶を交わされていることと思います。おそらく、毎日何気なく挨拶を交わしている方がほとんどではないでしょうか。しかし、挨拶は、人と人のふれあいであり、心と心を通じ合わせるためのきっかけだと思います。

 挨拶をすることによって、自分の存在を認知してもらうことができます。また相手に対しても「私はあなたのことを見ていますよ。」と心を開いて相手を受け入れる行為ではないかと思います。反対に、顔を合わせているのに、聞こえないほどの小さな声で挨拶をされたり、目も合わせずの会釈だけでは、「自分を認知してもらえてないのでは?」「そこに居てもいいのだろうか?」と不安になることもあるのではないでしょうか。また、無視されたり、挨拶もかえってこないと、「なぜ?」「どうして?」「私はここにいるのに?」「何か気に障ることをしたのかな?」など疑心暗鬼になってしまいます。

 「無視」は精神的暴力だと言われています。エスカレートすると「いじめ」「虐待」などの人権侵害にもつながります。

 挨拶は、その使い方によって、人間関係を近づけたり遠ざけたりするものです。私たちの身近な生活の中にある挨拶は、お互いの存在を認め合い、確認し合い、心地よい居場所を作るための大切なツールだと思います。

 人はそれぞれ、職場や学校で、居心地の良い自分の居場所を求めたいものです。周りの人に認知してもらい、存在を認めてもらうことによって、安心できる居場所ができ、共に学業や職務などの社会生活に励むことができるのだと思います。

 これからも、1日の始まりに気持ちを和ませることができるよう、お互い笑顔で「おはようございます。」と挨拶していきたいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


ネットの先には人がいる

 新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言が解除され、少しずつ以前の日常の生活を取り戻しつつあります。

 一方で、感染の疑いがある人や対策に携わった人たち等に対して、インターネットやSNS上で、根拠のない情報に基づく嫌がらせや心ない書き込みといった誹謗中傷が相次いでいます。

   これらの行為は感染症の収束を妨げるだけでなく、人を不安に陥れ、人の尊厳を傷つける、決してあってはならない人権侵害です。 

 インターネットやスマートフォンは、いまや日常生活に欠かせないものになっています。思ったことを直接外に向けて発信することも容易になりました。うまく使えば、私たちの暮らしをとても豊かにする本当に便利なものです。

 一方で、画面の向こうにいる相手が見えず、また不安を感じる原因がわからないために、冷静な判断を欠いてしまうこともあるのかもしれません。また、一旦インターネット上に公開された情報は、たとえ内容が誤っていたとしても、完全に削除することは難しいと言われており、使い方を間違えれば、大変危険なものです。

 だからこそ、言葉にする前に「自分なら、このように言われるとどう感じるだろうか」「自分が書き込むことで、相手はどう思うだろうか」と考えることが大切ではないでしょうか。

 ネットの向こうには生身の人がいる。顔や息遣いがわからないからこそ、一歩立ち止まってその先を想像する習慣を持てないでしょうか。 

 新型コロナウイルスへの対策はマラソンに似て、日常生活のなかで息の長い取り組みが必要とされています。

 私たちは、それぞれの立場でできることをみんなで協力しながら行い、思いやりを持ったコミュニケーションをとることができれば、この不安と危機のときを乗り越えることができるはずです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


新しいスタンダード

 新型コロナウイルス禍から、日常を取り戻せることを切に願う日々が続いています。

 その感染拡大防止のため、私たちの生活習慣が大きく変わりました。おそらく、収束した後も社会習慣が以前とは大きく変わるものと感じています。そのひとつが、『ソーシャルディスタンシング』です。

 今まで、公共の場で、これほど人との距離間を気にしたことはありませんでした。人と会話をするとき、適切だと思う距離には個人差があります。それを広くとる必要があると言われても、様々な感じ方をする人もいるでしょう。

 例えば、電車の座席が等間隔の空席が暗黙のうちにできていて、座ることができなかったという話を聞くことがあります。

 しかし、これは、お互いを思い合っての行動であり、この保たれた距離のおかげで、ウイルスから自分を守り、相手を守っていると理解しています。これからも、コロナ禍を経験した私たちが生み出した新しい知恵である『ソーシャルディスタンシング』を良い形で残していければと思います。

 ただ、社会的距離間をあまりに意識してしまうと、人に声をかけづらくなったり、人と交流することに戸惑いや迷いが生まれてしまったりして、困っている人を見ても助けられないというケースもあるかもわかりません。

 しかし、たとえ、手が届かない距離にあったとしても、気持ちは「あなたを思っています。」と表現する方法はいろいろあるのではないでしょうか。

 その第一歩は「笑顔」です。「笑顔」は、好意と同意を示し、赤ちゃんにも、高齢者にも、外国人にも伝わります。

 新しいスタンダードには、ぜひ、「笑顔」を添えたいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


お手伝いのひと声を

 私は、「障がい」を持っていることで、思いどおりに体が動かないために、いつも大変「不便」だと感じています。 

 私には、両下肢に障がいがあり、歩くこと、食事すること、入浴すること等、大変、時間がかかります。普段自宅では歩行補助杖を使用していますが、職場では車椅子を使用しています。 

 毎朝、 私が職場の入口の自動ドアの前に着くと、「ここでいいですか」と言って、私の前に車椅子を持ってきてくれる同僚が何名かいます。手助けのために声掛けをしてもらった同僚に日々感謝し、いつも「おはようございます」「ありがとう」と気持ちが伝わるような会話を心掛けています。 

 私は、自分でできることを一つずつ増やそうという気持ちを持って、仕事に取り組んでいますが、障がいが原因となって、どうしても自分ひとりでは、できないことがあります。しかし、誰かのちょっとした手助けがあれば、やり遂げることも可能な場合があります。

 いろいろな障がいを持った方々も、日々、学習や仕事を懸命にこなして社会で生活されています。

 皆さんも、学校や職場、ご近所などで障がいを持った方が困っておられるところに出会ったら、「何かお手伝いできますか」とひと声掛けてみてください。

 例えば、目や手足が不自由な方であれば、駅などでの階段の上り下りや、狭い路地の歩行で隣に寄り添って案内することが大きな助けになります。また、耳が不自由な方であれば、紙に書きながら会話をすることで意思疎通が容易になり、ストレスを減らすことができます。声掛けをして頂いた方がそばにおられるだけで安心することもあります。 

 皆さんのあたたかい思いやりの気持ちが、誰もが安心して暮らせる社会をつくります。

 ぜひ、勇気をもって「お手伝い」のひと声を掛けてください。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


「普通」ってなんでしょう?

 私たちの生きている社会はとても複雑で分からないことだらけ。そんな社会を生きるときに必要なことは「疑問に思うこと」「知ること」「考えること」ではないでしょうか。

 ふと感じる素朴な疑問を大切にすると、社会の見え方は違ってくるかもしれませんね。

 セクシュアリティ(性)でいうと、性自認(自分の性別をどう思うか)や性的指向(好きになる性)など人それぞれの捉え方があり、その組み合わせも多種多様にあります。

 多くの人は「男」「女」という括りでとらえているので、それが「普通」だと考えてしまいがちです。しかし、そうではない捉え方もあり、その人にとってはそれが「普通」のことなのです。

 人数が多いほうを私たちは「普通」と考えがちですが、何が「普通」で、何が「普通でない」ということではなく、そのあり方はすべて対等で平等であるものなのです。

 私たちは一人ひとりの顔が違うように、性も考え方も価値観もみんな違います。どれもかけがえのない尊いもので、人の数だけその有り様があります。

 だからこそ、自分の当たり前を押し付けない、相手の当たり前を否定しない、私とあなたそれぞれが尊重し合い、それぞれの違いを区別するのではなく認め合うという「豊かさ」に変えることができたら、すべての人にとって生きやすい社会になるのではないでしょうか。

 私たちが互いの違いを尊重し、みんなでより豊かな社会を作っていけたらいいですね。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


阪神大震災から25年「災害と人権」

  今年1月17日で、阪神大震災から25年の歳月が過ぎました。この震災で6千人を超える多くの方が犠牲になられ、命の重みを改めて考えさせられました。

  倒壊した家屋などから救助された人のほとんどが、家族や近所の人の手によって助けらました。また、避難生活においても、住民同士が協力して乗り切ろうとする姿が多くありました。

 発災直後での国や行政による「公助」の限界があらわになり、災害時における自助・共助の重要性など、防災や避難の在り方に多くの教訓を残しました。しかし、四半世紀が経って震災を知らない世代が増えつつあり、震災の経験や教訓の風化が懸念されています。 阪神大震災以降も、東日本大震災、熊本地震、大阪府北部地震などの地震だけでなく、台風による豪雨災害など甚大な被害をもたらす自然災害は毎年のように起きています。

 このような大規模な災害がひとたび発生すると、多くの命を危険にさらし、一瞬にして平穏な生活が奪われ、劣悪な環境化での避難生活を強いられます。誰もが切迫した状態に陥り、強い不安やストレスが重なることから、人権に対する意識が薄らいでしまいます。特に高齢者や障がい者、子どもなどの社会的弱者が大きな影響を受けることになる場合が多く見られます。

 こうした災害時には、周囲の人との助け合いや、お互いへの思いやりが重要となってきます。

 長岡京市では、毎年10月最終日曜日を「防災の日」と定め、地域の連携力を高めるとともに、お互いを少しでも思いやり、共感し合い、優しさを持って災害を乗り越えていくために、自主的な地域コミュニティを軸として、市内の全小学校区で同時に防災訓練や避難所運営訓練を実施する取り組みが進められています。

 私たちは、これまでの災害から人と人との繋がりの大切さを学んできました。「災害」と「人権」は切り離すことはできません。日頃から周りの人に対する思いやりの心を大切にし、人権意識を高めることは、「災害への備え」のひとつといえるのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


同じ地球人として

  新しい年が幕を開けました。

  今年は、いよいよ東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。例年以上に、世界各国から多くの人が日本を訪れることでしょう。

  みなさんは、最近、まちを歩いていると、鉄道の駅や観光施設等の案内板に、複数の言語が表記されていることに気づきませんか。

  以前は、日本語と英語の2種類のみで表示されている場合が多く、それでも特に大きな問題は発生していなかったように思われますが、近年、日本へのインバウンド(外国人の訪日旅行)が増加するに従い、英語圏以外の旅行者も増え、中国語や韓国語をはじめ、多言語で表記されているケースが増えています。

  また、案内板の中に「図記号」のようなものが描かれていることもあります。これは、標準案内用図記号(ピクトグラム)といって、言語表記以外で一目見てどんなものか理解する一助になっています。

  しかし、ホスピタリティ(おもてなし)の精神から、このような外国人の受け入れ体制が整備されるなか、一方では、オーバーツーリズムの問題が顕在化してきています。例えば、外国人観光客によって引き起こされる交通渋滞やごみのポイ捨てといったマナー違反が、せっかく高まった気運や、おもてなしの心の低下を招くなど、解消しなければいけない課題もあります。

  また、今後、観光客が増えるとともに、出入国管理及び難民認定法(入管法)の改正により、外国人労働者の就労機会が拡大されると、日本で生活する外国人の増加が予測されます。これまでは、外国人と日常生活であまり接する機会が少なかった私たちにも、一緒に働いたり、生活したりする機会が増え、言語や生活習慣、文化などの違う人たちとの関わり合いを持つことが当たり前の日常になってくることでしょう。

  これからは、日本人、外国人とひとくくりにするのではなく、お互いが歩み寄り、「違い」を認め合い、多様性を尊重し、対等な関係を構築して、コミュニティの醸成を図っていくことが大切です。そのためには、まず、お互いの文化や慣習を理解し「見えない心のバリア」「心の中の国境」を破っていくことこそが、その第1歩ではないでしょうか。

  共に生きる社会を共に目指すために、同じ地球人として・・・

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


『ONETEAM』

 今年は、「平成」という時代が終わり、「令和」という新しい時代が幕を開けた歴史的な1年でした。

 みなさんは、この1年を振り返って、心に残った出来事は何だったでしょうか?

 もちろん、それぞれ、様々な出来事を思い出されると思います。そのひとつに、日本で開催された「ラグビーワールドカップ」を挙げられる方も多いのではないでしょうか。とくに、日本代表の大活躍は、日本中に勇気と感動を巻き起こしました。チームがひとつになって戦う意思を現した『ONE TEAM』という言葉は、今年を代表する流行語にもなりました。

 ところで、ラグビーの国際大会では、ほかのスポーツにはあまり見られない光景があります。それは、ラグビーの代表チームの選手は、自国だけではなく、様々な国の出身者が多いということです。日本代表チームも31人のうち15人が外国出身でした。日本に帰化していない外国籍の選手も7人いました。

 ラグビーは国籍にとらわれない独自の選考基準があります。基準を満たしていれば、基本的には国籍が無くても、当該国の代表になることが出来ます。そこが、当該国籍がなければ、その国の代表選手にはなれない野球やサッカーなどのスポーツとは違うところです。
 このように出身国が違う選手たちが、国籍をはじめ様々な違いを認め合いながら、まさに『ONE TEAM』となって、ひとつになる姿が、日本代表のベスト8という大活躍と合わせて、多くの感動を私たちにあたえた理由ではないでしょうか。

 一言で、違いを理解するというのは、口でいうほど簡単でないかも知れません。しかし、ラグビーというスポーツを通して、お互いの違いを理解し、多様性を認め合いながら、『ONE TEAM』になることのすばらしさを体現した、ラグビー日本代表チームの活躍は「令和」という新しい時代の幕開けを象徴するすばらしい出来事だったと思います。

 そして、いよいよ2020年は、「東京オリンピック・パラリンピック(東京オリパラ)」が日本で開催されます。

 「東京オリパラ」では、異なる文化や異なる社会的背景を持つ人間同士がスポーツを通じて出会います。障がいを持つ人たちが可能性を信じて頑張る姿がそこにあります。

 スポーツの感動を真近に感じるのはもちろんですが、国籍の違いや障がいの有無などに関係なく、お互いの違いを認め合い、お互いを理解することの大切さを感じる機会になればすばらしいことです。

 私たち一人ひとりが、『ONE TEAM』となって、「多様性」を尊重し、「共に生きる社会」の実現を目指して、『TRY』していく第1歩にしたいものですね。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


左利き?右利き?

 私の家族には左利きの人がいます。

 矯正したので、字を書くことや箸を持つことは右手ですが、それ以外はすべて左手で行います。

 私は右利きなので、日常生活の中で左利きの人の不便さに気づかないことが多くあります。左利きだからこそ有利なこともあると思いますが、一般的に不便さを感じられることが多いようです。

例えば、左利きの人は、

・ハサミやカッターは、右利きの人が使いやすいように、柄や刃の形が作られています。もし、左利きの人がカッターの刃を左手で押し上げると刃が上を向いて危険です。

・タンク付洋式トイレの水洗レバーは、右に付いています。左手でレバーを回そうとすると届かない人も多いようです。

・缶切りは、左手では開けにくい形なっています。(プルトップが多くなった理由のひとつでしょうか。)

・注ぎ口の付いた片手鍋は、注ぎ口を活用しようと思うと手の甲側に注ぐことになります。

・デジタルカメラのシャッターは、右に付いていて押しにくいようです。

・駅の改札は、通る人の右手側に切符の挿入口やカードをタッチするところがあります。

・バターナイフの刃が片側のものは、その家族に「左利きには使いにくいのに何故買ったの?」と言われたりします。

 ただ最近では、ハサミ、レードル、万年筆、扇子など左利き用のものが見られ、他にも様々なユニバーサルデザインのものが増えていますが、まだまだ不便な面が多いようです。

 日本人の左利きは11%ぐらいおられるそうです。職場でも左利きの人を見かけることがあります。その時に、「右利きの人にはわからない不便を感じているのだな。」と意識ができて、理解したり、何か助けになる行動ができる人になれたらいいなと思います。

 また、左利きの人がその人の個性として自然体でいられるよう、身の周りの様々なものが利き手に関係なく対応できるようになればと思います。

 一人ひとりが色々な個性と能力を発揮し、自然と多様性が認められる暮らしやすい社会になればいいですね。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


日本人だから○○、外国人だから○○?

  我が国では、今年から来年にかけてラグビーのワールドカップや東京オリンピック・パラリンピックといった世界的なスポーツイベントの開催が相次ぎ、徐々に機運が盛り上がってきています。外国からの観光客が年々増加している中で、さらに多くの外国の方をお迎えすることとなります。

 外国からの訪日客に関しては、以前から生活習慣や文化の違い、またマナーの問題等から、外国の方の入店拒否などを行う飲食店等の対応が物議を醸してきました。最近では、私たちが生活をする色々な場面で外国の方を見かける事が多くなり、日常的な交流の中で、それぞれの生活習慣や文化の違いに触れ、理解していこうという意識が少しずつでも高まってきていると感じています。それらの国際的なイベントを通じて更に相互の理解が深まれば意義深いものと思います。

 その一方で、最近テレビで、少し気になるニュースがありました。それは、日本の観光地にある飲食店のオーナーが、日本人観光客のマナーの悪さから「日本人お断り」の方針を掲げられ、日本人観光客の入店を拒否されているというものでした。他者には分からない様々な事情はあるのでしょうが、「日本人だから○○、外国人だから○○」というように一括りで扱う発想にはやはり危険性が潜んでいるように感じました。

 私たちも普段、知らず知らずに「高齢者だから○○、女性だから○○、男性だから○○」等の思い込みや決め付けに基づいて行動していることがあるのではないでしようか。

 自分たちの考え方や習慣を一方的に押し付けたり、国籍等で判断するのではなく、「その人自身」を知り、「多様性」を受け入れ、お互いに理解し合うよう努めることで、全ての人が暮らしやすい社会を築けるのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


逆転の発想 プラス思考で

 スポーツの世界などでは、監督や指導者が代わると新しい考え方で戦い方や選手の起用法など、今までとは違う可能性が引き出され、従来のチームと全く違って見えることがあります。

 私たちの身の回りに置き換えても、考え方を変えれば見方や捉え方が大きく変わってくることがあるのではないでしょうか。マイナス思考で捉えていたことも、プラス思考で捉えることで大きな自信につながることがあります。

例えば、

○「がんこもの、わからずや」 が 「意志が非常に強い」

○「おくびょうもの」 が 「慎重に、計画的に行動する人」

○「人の言いなりになる」 が 「人間関係を大切にして協調性がある」

○「そそっかしい」 が 「回転が速く行動的」 となります。

 このように考えてみれば、自分では「引っ込み思案」と思い込んでいる人であっても、他の人から見れば「謙虚な人」と見える場合もあるのです。また、「あの人は暗い、あの人は全然しゃべらない」と思っていたことが、「あの人はおとなしいけど思慮深い人だ」となります。

 人は誰でも「長所と短所」があると思いますが、人の短所ばかりを見つけてしまうとその人のいいところが見えなくなってしまいます。プラス思考で考えるということは、その人の「短所かもしれないけれど、それがその人のいいところ」「その性格もその人の個性」と考えることができ、その人の「いいところ」が見えてくるかもしれません。逆転の発想で、明るくプラス思考で周りを見ていきたいものです。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


それぞれの気持ち

 保育所では今、収穫の楽しみなキュウリや色水あそびができるアサガオを育てています。キュウリの苗も、アサガオの芽もどんどん伸びて子どもたちの背丈を越しました。

 夏の日差しを浴び、ぐんぐん成長しているので、うっかりするとすぐに、水分が足りなくなってしおれてきます。「たいへん!のどがかわいちゃったみたい」と言うと、子どもたちは喜んで水やりを手伝ってくれます。じょうろに水をくんではせっせと運び、水やりをしてくれます。

 ところが子どもたちは、しおれてしょんぼりして見える葉っぱや、開けた口のように見える花に、水をかけています。「早く元気になって」「おいしい水を飲んでね」そんな声が聞こえてきそうなほど、子どもたちは優しい気持ちでいっぱいですが根から水分や栄養を吸収する植物にとってはありがた迷惑な話ですね。

 そこで、キュウリやアサガオが水を飲む口は土の中にあることを話します。すると子どもたちは葉や花に水をかけるのをやめて正しく土に水をまいています。「おいしいと言って飲んでるよ」と伝えると、嬉しそうにしてますます水やりを張り切っています。

 人と人との関わりでも同じではないでしょうか?思い込みで知らず知らずのうちに嫌な思いをさせていたり、せっかくの親切に気付いていなかったりしているかもしれませんね。怒るでもなく、我慢するでもなく、思いを言葉で伝えてみてはどうでしょうか。相手と自分の「それぞれの気持ち」が分かり合えた時、「嬉しい気分」が待っているように思います。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)


「くん」「さん」

 わが子が通う小学校の授業参観に行った時のことです。私はふと違和感を覚えました。それというのも、先生が子どもを指名した時に全て「さん」づけで呼んでいたからです。もっと驚いたのは、子ども同士でも「さん」を使っていたことです。私が違和感を覚えたのは、私が「男らしく」「女らしく」という言葉を当然のように使っていた世代で、男子を「くん」、女子を「さん」と呼ぶのが自分の中では当たり前になっているからだと気づきました。

 ある時、「LGBT」についての研修に参加する機会がありました。そこで、「性を正しく理解すること」「性的マイノリティの存在」「当事者が差別されいじめの対象になり生きづらさを感じていること」「国の施策や支援は始まったばかりであること」などたくさんのことを知ることができました。「性の多様性」については以前から聞いてはいましたが自分の身近なこととしてなかなか捉えられませんでした。しかし、このことは個人の尊厳に関わることであると分かりました。

 お互い名前を「さん」づけで呼ぶことは、相手を尊重し、認めていることを前提としています。特に子どもは大人の言うことに本意でなくても従ってしまうこともあります。だからこそ、私たち大人が正しく理解することで意識を高め、環境を整えることが大切だと感じました。

 今は「さん」と呼ぶ響きが心地よく聞こえます。

 子どもたちが学校と言う小さな社会の中で、お互いを認め合うことが自然と身に付くことで、子どもが大きな社会に飛び立ったとき、今よりも意識の高い社会になっていくのではないでしょうか。

(長岡京市人権教育・啓発推進計画推進本部)