弟国宮(おとくにのみや)とは
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平成30年、弟国宮遷都1500年を迎えました
1500年前、歴史の舞台は長岡京市!
長岡京市は、784年に遷都された「長岡京」の地で知られていますが、実はそれより以前にも都が営まれました。
それが、「弟国宮(おとくにのみや)」です。
日本書紀によると、518年、継体天皇(けいたいてんのう)によって、「筒城宮(つつきのみや)」(京田辺市)から遷都されました。
平成30(2018)年に、この遷都から1500年の記念の年を迎えました。
継体天皇
第26代継体天皇(けいたいてんのう)は、西暦507年に「樟葉宮(くずはのみや)」(大阪府枚方市)で即位します。
継体天皇は、応神天皇(おうじんてんのう)の五世の孫で、父は彦主人王(ひこうしのおう)、母は振姫(ふりひめ)と言われています。
継体天皇が幼少のとき、父彦主人王が亡くなったため、振姫は幼子を連れて越前国(福井県)に戻り養育しました。
日本書紀によると、ヤマトを治めていた武烈天皇(ぶれつてんのう)が亡くなると、皇位継承者が絶えそうになったことから、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)らが候補者を捜し、越前にいた継体天皇に白羽の矢を立てたと記されています。
遷都を重ねヤマトへ
継体天皇は、「樟葉宮」で即位した後、継体5年(西暦511年)に「筒城宮」(京都府京田辺市)に遷都し、その後、継体12年(西暦518年)に「弟国宮」として遷都しますが、その地が長岡京市北部だと考えられています。
「弟国宮」は、「磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)」(奈良県桜井市)に遷都するまでの数年間、歴史の舞台として選ばれていました。
継体天皇は、古くから淀川水系の交通の要衝として栄えた長岡京市に宮をおき着実に勢力を拡大してヤマトへ向かったと考えられています。それは、当時のヤマト(それまでの政権の中心地)には、継体天皇と対立する旧勢力の存在があったとも言われています。
「弟国宮」はどこに?
答えは、未だ確定していませんが、長岡京市北部が有力と考えられています。
古事記伝には、「井乃内村、今里村の辺なり」と記されています。
また、井ノ内では、長岡第十小学校の建設時の埋蔵文化財発掘調査で、『弟国』と記された奈良時代の墨書土器の一部が出土しています。
井ノ内車塚古墳や井ノ内稲荷塚古墳などの市北部の古墳群は、継体天皇即位後に一気に出現していることからも、「弟国宮」との関連が注目されています。
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