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京都防衛の要 勝龍寺城

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勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、西国街道と久我畷(こがなわて)の陸上交通を抑え、淀川水系にも程近い交通の要衝に立地します。

15世紀後半の応仁・文明の乱ごろから、勝龍寺周辺は戦略上の要地としてしばしば戦場となり、戦国時代には次第に恒常的な城郭として整備されたと考えられます。

近世城郭の原点“勝龍寺城”

当時最先端の瓦・石垣・天主が取り入れられた城郭

元亀2(1571)年に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、勝龍寺城を当時最先端の城郭に大きく造り替えました。

土を切り盛りして造ったそれまでの中世城郭とは一線を画し、「瓦」・「石垣」・「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。

信長の安土城築城よりも5年早く、近世城郭の先駆けとも言えるものです。

勝龍寺城復元想像図

勝龍寺城天主想像図(監修:千田嘉博氏)

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当時の石垣が残る“北門”

当時は、中世の土造りの砦や城館から近世の石造りの城への過渡的な時期にありました。

そのため、石材の供給体制が整っておらず、石垣には石仏や一石五輪塔などの転用石が多く使われていました。

また、北から城内へ入る導線は折り曲げられ、こうした構造を枡形虎口(ますがたこぐち)といいます。この構造は、戦闘を有利に行う工夫であり、見どころのひとつです。

北門周辺には、当時の石垣や門の礎石が今も残っています。


北門の石垣(発掘時)

北門復元想像図

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光秀の坂本城と同じ型の瓦が使われていた!?

勝龍寺城跡の発掘調査で出土した瓦は、明智光秀の坂本城(大津市)と同じ型で作られたものや信長の居所であった旧本能寺(京都市)と同じ系統の瓦が使われていたことがわかっています。

このことからも、改修・築城にあたっては信長の援助があったことがうかがえます。

軒丸瓦(写真左)と軒平瓦(写真右)

年表で紹介

勝龍寺城のあゆみ
文明2年(1470)2月

畠山義就(はたけやまよしひろ)(西軍)が勝龍寺を陣城とする。

この頃、勝龍寺周辺で西軍と東軍がたびたび合戦する。

永禄11年(1568)9月

織田信長が足利義昭を擁立し上洛する。

信長軍が、三好三人衆の一人・石成友通(いわなりともみち)を攻めて勝龍寺城から退去させる。

翌年正月、細川藤孝らの軍が入城する。

元亀2年(1571)10月信長が城を改修させる。
元亀4年(1573)7月

藤孝が信長から山城国桂川の西の地を与えられ、姓を「長岡」と改める。

 天正6年(1578)8月藤孝の子・忠興が明智光秀の娘・玉(のちのガラシャ)を迎えて妻とする。 
          10月藤孝のいとこで公家の吉田兼見(かねみ)が訪れ、囲碁や乱舞を楽しむ。
天正8年(1580)8月藤孝らが丹後国宮津城に移る。
天正10年(1582)6月

本能寺の変

山崎の合戦で光秀が敗れ、いったん勝龍寺城に入るもじき敗走。

寛永10年(1633)7月

水はけが悪く、勝龍寺城は廃城となる。

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長岡京市指定文化財(史跡)“勝龍寺城土塁・空堀跡”

勝龍寺城は、戦国時代を通じて戦略上の重要拠点でした。

江戸時代に書かれた細川家の歴史をまとめた『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』には、城外に二重の堀を設け、さらに土塁を築いたとされており、軍事的にも防御性の高い城郭であったと考えられます。

土塁・空堀は城下町を囲うように設けられた外部線、「惣構(そうがまえ)」の一部で、低地にある城の北側からの攻撃に備えて、堀の底から土塁の頂部までの高さが6メートルを超える大規模な構造となっています。

こうした土塁・空堀を残す事例は全国でも希少で、きわめて貴重な遺構です。

2021年2月1日長岡京市指定文化財(史跡)に指定!

土塁・空堀跡(発掘調査時)

土塁・空堀跡の様子

勝龍寺城の縄張り想定復元図

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勝龍寺城をめぐる人々

ゆかりの人物

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藤孝と勝龍寺城に関する希少な古文書を発見!

「幽斎」の名での発給文書は多く伝来していますが、「細川藤孝」の名で、花押(サイン)を書く古文書(原本)は希少!

勝龍寺城の「城米」に関する文書で原本が見つかったのははじめてです。古文書で「勝龍寺城」と書かれているのは、ほかに数点しか現存しないと思われます。

織田信長、明智光秀、細川藤孝が勝龍寺城をめぐるやりとりをしていたことが明らかになった古文書です。

また、光秀の発句「時はいま…」で知られる連歌会にも加わっていた、連歌師里村紹巴(じょうは)を含め、「本能寺の変」をめぐるオールキャストが1通の古文書に登場します。

元亀3年(1572)9月4日付「細川藤孝書状」
(平成29年に存在が明らかになり、長岡京市の所蔵となりました)

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恵解山古墳

古墳時代中期に造られた全長約128メートルの前方後円墳。

恵解山古墳の発掘調査では、火縄銃の弾や戦国期の土器も出土しています。

また、古墳の前方部の掘り込みや後円部の曲輪状(くるわじょう)の改変などから山崎の戦いで光秀の本陣が敷かれたのでは?とも考えられています。

勝龍寺城の歴史とも関わりの深い場所です。

恵解山古墳公園

勝竜寺城公園

勝龍寺城跡は、平成4年に勝竜寺城公園として整備され、憩いの場として親しまれています。

公園内には展示室があり、細川藤孝書状(レプリカ)も展示。期間限定の特別展示も行っています。


勝竜寺城公園

【開園時間】午前9時から午後5時(4月から10月は午後6時)
【休園日】無休(12月28日から1月4日を除く)
【入園料】無料