ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

5 戦乱の舞台(7つのものがたり)

  • ID:13608

自治と戦乱の舞台!西岡衆と細川藤孝

戦国時代、周辺地域とともに西岡と呼ばれる連帯により暮らしが営まれました。細川藤孝が入った勝龍寺城は、山崎合戦で明智光秀の拠点となり、天下統一の舞台となりました。

主な構成要素

勝竜寺城

勝竜寺城公園

開田城

開田城の土塁

勝龍寺城跡

発掘された桝形虎口

勝龍寺城

復元された天守

古今伝授

古今伝授の間石碑

鉄砲玉

鉄砲玉と燈明皿

微細絵図

勝竜寺城付近の絵図

ガラシャの銅像

ガラシャと忠興

勝龍寺城

土塁と空堀

「戦乱の舞台」の概要

 西岡衆は、西岡を拠点とした、神足氏をはじめ馬場氏・古市氏・林氏・中小路氏・高橋氏・能勢氏・井内氏(本市)、革嶋氏(京都市西京区)、野田氏・物集女氏・鶏冠井氏(向日市)、寒川氏(京都市南区)などの国人・土豪・地侍といった在地の領主層で、江戸時代前期の地誌『雍州府志』で上野城跡の項目に記載される「西郊三十六人衆」が、当時伝承されていた西岡衆を指すと考えられています。彼らは、村落では村の代表者として、また史料によって室町幕府の御家人や有力大名の被官人、徳政一揆を率いる指導者、地域紛争の仲介人、荘園の現地管理者として、その活動が跡づけられます。
 西岡衆が居館を構えた西岡とは、14世紀中頃以降一般に使用された広域地名で、桂川から向日丘陵、西山山地の麓までの範囲を指します。その北東部は、桂川から引いた灌漑用水、今井の共同管理を契機として、西岡11ヶ郷と呼ばれる連合体を構成したことが知られますが、西岡はこうした村々相互の連帯による、地理的・歴史的なまとまりを示すものです。
 応仁・文明の乱(1467-77)で東西両陣営にわかれたように、西岡衆はそれぞれ自律性が高く、時には同族であっても分属して争いましたが、戦後処理にかかる外部勢力進出の企てに直面し、結合します。それは、西岡の村々連合を背景に、日常的な合力関係のなかで培われ、長享元年(1487)と明応7年(1498)の二度にわたる、乙訓惣国として立ち現れました。乙訓郡の国人領主らは、それぞれの主従関係や応仁・文明の乱での敵対関係を乗り越え、連帯の精神的な支えとして向日宮(現在の向日神社)に結集し、談合を重ねました。ともに活動し、東寺(京都市)をはじめとする荘園領主から必要経費を捻出させ、「国持ち」として自らの手による乙訓郡の支配を目指しました。
 本市域には、こうした西岡衆の中世城館が分布しており、所在が確実なものとして、神足城・開田城・今里城の城跡が知られています。勝龍寺城は西岡衆の居城ではなくその前身、寺院の勝龍寺が守護勢力の拠点として、石清水八幡宮に社参する室町幕府将軍警固人夫の集合場所とされたり、応仁・文明の乱で「陣城」に用いられました。その後、室町幕府・細川氏・三好氏及びその家臣ら、それぞれに付き従った西岡衆による権力闘争のなかで、次第に恒常的な城郭、勝龍寺城が築造され、西岡衆の結集核として機能しました。勝龍寺城を、織豊系城郭に大きく造り替えたのが、織田信長の支援を受けて上洛を果たし、将軍となった足利義昭の側近、細川藤孝(幽斎)です。
 細川藤孝は、永禄12年(1569)正月には勝龍寺城に進駐したことが知られ、程なく居城とします。藤孝は信長へ接近していくなかで、信長から元亀2年(1571)西岡へ普請役を課して勝龍寺城を要害化するよう命令を受けました。昭和63年(1988)の公園整備に先立つ発掘調査によって、転用石材を使用した石垣の構築や天守・瓦葺きの導入、礎石建物の建築が明らかになっており、当時先駆的な城郭であったことがわかっています。また、平成26年(2014)神足公園の整備にともなう発掘調査で確認された大規模な土塁・空堀跡は、勝龍寺城の改修に合わせて築造されたものと考えられています。加えて、発掘調査では築造に際して、それまであった神足城のものと思われる土塁・空堀を取り込むかたちで形成していたこともわかりました。なお、『綿考輯録』には明智光秀の娘、玉(のちのガラシャ)と藤孝の子息、忠興との婚儀の記事もあり、天正6年(1578)勝龍寺城で執り行われたとされています。
 藤孝は、信長から委ねられた一職支配をてこに西岡の統治を進めましたが、天正8年(1580)細川家に編成された西岡衆の一部とともに、丹後に移封されることになりました。勝龍寺城では、連歌や和歌、古典講釈や古典書写、能楽、囲碁など藤孝の文化的な活動も確認され、天目茶碗や茶釜なども出土しており、京都への玄関口に位置した本市域には、戦国争乱から天下統一に至る歴史文化が色濃く残されています。

関連コンテンツ