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6 京都近郊農村(7つのものがたり)

  • ID:13609

京都の繁栄を支えた!京都近郊農村のくらし

京都の近郊農村として都を支えながら、地域ならではの庶民文化や伝統行事、食文化などが生まれました。また、用水確保やそれにまつわる歴史文化も残っています。

主な構成要素

小泉川

小泉川のこいのぼり

長法寺

長法寺のビシャ

トマト

鈴なりのトマト

雲宮遺跡

弥生時代の稲作伝来

奥海印寺

田園風景

小泉川

ゲンジホタルの保護

算額

天満宮の算額

農家

旧家が残る街並み

ナス

今里のなす畑

「京都近郊農村」の概要

 本市域における人々の営みのはじまりは、約2~3万年前から約1万2千年前に遡り、京都府内最古級の南栗ヶ塚遺跡や硲遺跡・今里遺跡などでその痕跡が確認されています。弥生時代、本格的な農耕が開始されますが、稲作の始まりを示す京都府最古の遺跡として、雲宮遺跡がよく知られています。古代、8世紀末の長岡京造営によって、本市域は一時政治・経済・文化の中心地となりますが、その後は都市京都の近郊農村として推移していくことになりました。
 本市域には、都の貴族や寺社が領有する鞆岡荘や調子荘、開田荘、小塩荘といった荘園が設けられ、京都の経済を支えました。特に、古市・神足は乙訓全域に分布した散在型荘園、小塩荘の現地管理拠点としてたびたび史料にあらわれます。神足氏はその現地管理者で、同氏が拠った神足城には小塩荘の領主で関白も務めた公家、九条政基が駐在して当時の様子を記録しています。また、調子荘は平安時代後期には近衛府の下級官人を世襲した下毛野氏に連なるという、調子氏の本拠地です。調子氏を名乗るようになった南北朝時代以降も領主として在住し、江戸時代を通じて調子から京都へ出勤して摂関家の側近くに仕え、朝廷の儀式に供奉しました。一方で、中世は康永3年(1344)の寂照院金剛力士立像造立にかかる結縁交名から窺えるように、現在の各地区に繋がる村落が成立した時代でもありました。
 応仁・文明の乱にはじまる戦国時代、京都をめぐる攻防によって荒廃した本市域でしたが、近世に入って平和が訪れるとともに、江戸幕府による支配が浸透します。それは、幕府の統括のもと、各地の大名がその領国を支配する幕藩体制でしたが、京都近郊なかでも乙訓地方は、一般とは異なる様相を見せました。幕府領・旗本領に加え、京都の禁裏方の所領や宮家領、公家領、寺社領が数多く設定されたことによるもので、本市域に所在した15ヶ村の多くが、これらの所領が複雑に入り組む相給村でした。
 戦乱に荒らされることがなくなった農地では、用水確保による水田耕作が発展し、山野の管理も進みました。八条ヶ池のほか、儀仗(議定)池・放生池やナンマンダ池などが造成されました。今井用水は、大原野上里(京都市西京区)を水源とし、小畑川の西を平行して流れる人工の水路です。その起源は中世に遡りますが、今里の田地3分の1に水がかかる重要な用水として、江戸時代を通じて大切に維持、管理されました。山野は、煮炊きなどに使う燃料や肥料となる下草の供給地として、生活・生産に欠かせないものでした。加えて、奥海印寺と長法寺の両村が共同利用した、入会の野山では石灰や松茸も採れました。柳谷・浄土谷で収穫されたヤマモモ(楊梅)や松茸は、領主の仙洞御所へも献上されています。こうして、本市域には米麦を中心に野菜や菜種、タケノコなどを栽培し、農間余業にも携わることができる、豊かな農村地帯が形成されました。その経営は、野菜をはじめ商品作物の多くを京都へ出荷し、その帰りに下肥を運び込んだ、多肥多収によって成り立っていました。京都は、近世を通じて人口40万人を擁する大都市でしたが、周辺農村の農業生産の進展と商品作物の増大・多様化は、そこで生み出される下肥の需要を高め、不足するほどでした。
 また、近世の本市域では、こうした高い農業生産力を背景に、豊かな地域文化が展開しました。算額(寛政2年(1790)12月今堀直方奉納)だけでなく、光林寺や神足神社などで催された句会で詠まれた秀句を額にし、天保10年(1839)光林寺に奉納した神足社俳句奉納扁額などもそれをよく示しています。江戸時代には行われていた行事として、正月から春にかけて行われた、豊作祈願の祭りであるオコナイや、田植えや稲刈りの前後に行われる五穀豊穣を祈ったオセンド(お千度)などが、本市域の各地で見られ、サイマツリ(境祭り)などの境界に関わる行事やさまざまな講組織による行事なども伝わっています。こうした伝統的な行事にともなう、浄土谷のいとこ汁などの食文化も、近年再発見されています。
 幕末・明治維新後、鉄道・道路網の整備を契機として、本市域でも近代化が押し進められました。とりわけ昭和戦後、京都や大阪のベッドタウンとして、急速に都市化・住宅開発が進展し、それに従って本市域の農村的な要素は薄れていきました。こうしたなかでも、近世以来の特産、タケノコが「京たけのこ」として売り出されるようになり、ナスや花菜が新たな特産物として創出されて、京野菜ブランドとして出荷されています。京都とその近郊農村は、京都の都市機能を相互に補完し、古くから発展してきました。8世紀末の平安京遷都以降、本市域はその近郊農村として、京都の公家や寺社、武家、町人のくらしと切り離しがたく結びついた日常生活が営まれました。西山や山麓に広がる森林・農地、ため池・用水路といった水に関わる文化財、江戸時代から続く伝統行事や食文化、特産物などは京都を支え、ともに歩んだ「京都近郊農村のくらし」を継承したものといえます。

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