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7 竹とタケノコ(7つのものがたり)

  • ID:13610

ピカイチ特産物!竹とタケノコ

乙訓地域の竹は竹材として古くから利用され、またモウソウチクの良質なタケノコは京都式軟化栽培により本市を代表する特産物として、現在も広く知られています。

主な構成要素

錦水亭 

錦水亭の筍料理

孟宗竹

孟宗竹発祥の地

たけのこ

タケノコ

ホリ

筍掘り専用の道具

竹藪

タケノコ畑

タケノコ道標

タケノコ型の道標

竹アート

竹を使ったアート

竹生園

竹製品を取扱うお店

竹藪

登録文化財の竹林

「竹とタケノコ」の概要

 乙訓地方と竹材としての竹との関係は古く、平安時代中期には確認されています。竹林に適した気候や地形を活かして良質な竹材を産出し、洛東の山科や洛西の嵯峨と並ぶ主要な供給地として、京都を取り巻く竹の文化を構成してきました。江戸時代には、幕府によって村の支配関係に関わりなく、乙訓地方102ヶ村の村々に対して、藪役として竹の上納が課されました。これらは、京都代官小堀家が管理し、二条城の竹蔵に納められて、禁裏や二条城など幕府が管理する施設の補修や竹垣・柵・用水樋、神事祭礼の竹矢来や牢屋敷の仕置きなどに使われました。古くなった余剰分は入札によって払い下げられましたが、商品としての竹材も活発に流通し、竹筏流しによって、京都だけでなく大坂へも出荷されたことが知られます。
 一方、乙訓地方のタケノコについては、古くから食されたことが容易に想像されますが、はっきりと史料にあらわれるのは比較的新しく、19世紀以降です。ここでの竹種は不明ですが、天保13年(1842)にはモウソウチクのタケノコの本格的な栽培が跡づけられ、米作よりも利益が大きく、大流行した様子がわかります。ところが、明治10年代になると生産の増加に比して販路が狭く、値崩れを起こします。加えて、モウソウチクのタケノコ畑が明治9年(1876)の地租改正で地目が畑とされたこと、タケノコが同14年(1881)からのコレラ流行時に、消化しにくい食品として需要が落ち込んだこともあってか、当時輸出品として脚光を浴び、国策として奨励されていた製茶にとって代わられました。しかし、この衰運を嘆いた仲買商三浦芳次郎(大山崎町円明寺)が、鉄道輸送を利用した販路を開拓、さらに発展して、竹材の産出とともに盛況を迎えます。これは、本市域の動向とも重なり、大正期に竹材の産出・タケノコの生産は活況を呈し、地域経済の一翼を担いました。
 しかし戦後、高度経済成長期を迎え、乙訓地方ひいては京都府のタケノコ畑がその面積を大きく減少させていきます。昭和35年(1960)と平成2年(1990)とを比較すると、乙訓地方では28.5%、京都府全域では33.4%にあたるタケノコ畑がその姿を消しました。特に、有力産地の一つ大枝(京都市西京区)は、洛西ニュータウンの造成によって66.2%ものタケノコ畑を喪失したことが知られます。こうしたなか、本市域のタケノコ畑は1.8%の減少にとどまるもので、急速な都市化・住宅開発においても、これを維持・保全したことで、かえって本市域に所在するタケノコ畑は乙訓地方のほぼ半分を擁(よう)することとなり、また乙訓に分布するそれは京都府のほぼ半分を占めることになりました。本市域はタケノコの産地として、乙訓地方ひいては京都府におけるその重要性を高めたといえ、今日でもなお、タケノコは特産物としての地位を保つに至っています。
 また、本市域では竹・タケノコとの関わりのなかで、さまざまな文化財・歴史文化が生み出されています。まずは、竹・タケノコの生産にかかる栽培用具や栽培技術、タケノコの出荷のための竹籠類とその製作技術が挙げられますが、タケノコを素材とした料理も食文化として位置付けられます。タケノコ栽培用具は、本市域に所在した鍛冶によって製作されており、その製作技術も本市域の歴史文化に欠かせない要素です。栽培技術については、戦後「京都式軟化栽培」と呼ばれるようになる、1年を通じて多くの手間をかける乙訓地方独自の栽培方法で、江戸後期にはその様子が窺え、明治期後半には確立しています。タケノコ畑の景観は、こうした栽培方法によって形成されたものです。竹とタケノコは本市域の地質や地形を基盤に、京都の近郊に立地し、街道や河川、鉄道を通じて大阪にも程近い、地理的な環境とも深く関わる、本市域を代表する歴史文化といえます。

タケノコ食えストの解説(竹とタケノコ)

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